安心、安全と美味しさへのこだわり
そんな「こだわりの農業ブログ」を毎日更新
主役の妻は生産部長、夫は営業部長兼雑用係
リオの400mリレーの日本の銀メダルがなぜ「歴史的快挙」か。
高橋尚子がマラソンで金を獲った際、水泳の金メダリストの鈴木大地が絶賛し「水泳とは競技人口が
圧倒的に違う」と指摘していた。
私は高橋尚子がゴールする直前五分間は、その偉業に敬意を表して正座で応援した。
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(猛暑の炎天下で証文の出し遅れとなった畝間除草に挑戦)
カケッコの競技人口は世界の人口にほぼ匹敵する。
特にリレーは学校や町内会の運動会でフィナーレを飾る花形種目となっている。
そんな世界中が注目し「より早く走る」ことが難しい種目で日本が銀メダルを獲得したのだから
「凄い」と言わざるを得ない。
朝の暗い内から出荷準備にとりかかり三ヵ所の産直を巡り終えて朝食を摂るのは9時半を過ぎるのが
最近の傾向となっている。
朝食後、横になってウトウトし目が覚めたら10時半だった。
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(戯れにポップコーンを植えてみた。背丈がトウモロコシの倍近いのに驚かされた)
TVをつけたら400Mリレーの決勝がスタートする直前で固唾を飲んでレースの行方を見守った。
ナント、ナント日本は実力で銀メダルを勝ち取った。
まさに歴史的快挙の瞬間をライブ映像で観戦出来たのはラッキーだった。
その後、ニュース等でゴールの瞬間の映像を繰り返し観たが、何度観ても興奮と感動を禁じることは出来なかった。
八戸で仕事をしたのは20年ほど前のこと。
東大卒を鼻にかけ人格識見共に疑問符の付く支店長の下で支離滅裂なオーダーに苦労させられた
苦い思い出がある。
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職場の同僚のOさんはレスリングの指導をしていて「オリンピック選手を育てた」が自慢だった。
リオで四連覇を果たした伊調選手も年齢から逆算するとOさんの指導を受けていたのかもしれない。
Oさんが今も健在かどうか不明だが、健在なら「金メダル選手を育てた」と鼻高々にちがいない。
また、同じ職場の同僚に演歌の作曲家を目指していたSさんも居た。
当時作った「月夜野」という歌の発表会を数百万円かけて大々的に行い、職場の仲間も大勢で参加
して応援したが、最終的にその歌はヒットにつながらなかった。
Sさんは今、八戸市議として選挙で常にトップクラスの票を得る議員として活躍中らしい。
伊調選手の活躍振りを観ながらそんな昔のことを思い出した。
先日、熊と遭遇した後山の畑での収穫作業が続いている。
味をしめた熊はまだ近くに潜んでいるかもしれない。
また、強い雨で倒れた草が再び電気柵を機能させなくなることも考えられる。
残りを全部収獲してしまうのが一番の解決策だが、一度の売り捌ける量ではなかったので諦めた。
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収獲中に熊に襲われる可能性は低いと思われるがゼロではない。
念のため「二人がかり」で行っている。
大工の棟梁だった平泉の叔父(バアチャンの直ぐ下の弟)は40年前に逝去している。
内弟子を8人も育てており昨年我が家でお世話になった棟梁さんは叔父の三番弟子だった。
その棟梁さんが内弟子時代(4~5年)の師匠の厳しい指導振りについて時々話題にしていた。
それでも、叔父の命日には弟子が全員集まって「墓参りを欠かさない」と聞き職人世界の絆の深さに
感心させられていた。
内弟子時代に母親代わりだった叔母が先日亡くなり15日火葬、16日通夜、そして今日の葬儀、
告別式、初七日法要には弟子8人が顔を揃えていた。
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葬儀で弔辞を読んだ二番弟子の方から当時の苦労話などを聞く機会があった。
自分の子供以外に食べ盛りの男の子3~4人を同時に養っていた叔母の苦労は並大抵のものではなかった
らしく、また、弟子の皆さんの苦労も半端ではなかったようだ。
その苦労が実り、今では皆立派な棟梁としてまた工務店経営者として名を成している。
「昔の人はそのような苦労を経て力を付けたのですね」と賛辞を送ってから弟子の皆さんの年齢を
聞いて驚いた。
なんと一番弟子の棟梁さんでさえ私よりも年下だった。