穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

”西村賢太”のくだのまき方

2011-02-09 20:22:01 | 西村賢太

西村賢太のキーワードの一つがドストエフスキーと聞いて、何をット思ったろうね。いくら読者がそそっかしくても全人格的に全作家的に両人を=で結んだと早とちりをする読者はいないだろうが。

酔っ払いの長々とした自己主張、演説を書かせたらドストエフスキーの右に出る作家はいない。私がドストエフスキーで一番面白く思う部分である。

たとえば罪と罰の年取った、クビになった老人の小役人が酒場でくだをまくところ。マルメラードフと言ったかな。またスヴィドリガイロフ。それにカラマーゾフの兄弟のドミートリーなどだ。

ところで、最近電車に乗ると前の座席に座った女の顔を右から左に見ていく。「私」が毎晩横付けにして寝たチンチクリンな女というのはどういうイメージかなとサンプリングするのだ。どうもぴったりの女がいない。もう一度端から順に見ていく。女のほうも私の視線に気がついて変態だと思っているらしい。

西村氏も私小説作家を自認するだけでなく、それを自分の宣伝文句、オビ言葉にしているようだからそれはそれでいいが、私が三回にわたって述べてきたキーワードを持った私小説作家はいるのだろうか。彼のユニークさはそっちのほうに有るのではないか。

彼の力のある文章(政治パンフレット作者のような)、エネルギーというのは大正型私小説作家とは異質ではないか。もっとも「彼の」藤沢清造の小説を読めば類似点があるのかもしれない。

復刻がなったら読んでみたい。オイラは古本は読まないからそれまでお預けだ。図書館の本も読まない。文学青年が鼻くそをほじくりながら、頭のふけをかきむしりながら読んだような手あかのついた本は読まないのだ。

もっとも、相当な豪華本全集を企画しているようだからめちゃくちゃ高くなりそうだ。そうなると買えない。西村さん普及版も作ってください。


西村賢太のしゃべり方

2011-02-09 08:33:56 | 西村賢太

二番目のキーワード、落語のまくらとは何のことかわかるまい。ここ何十年と落語を聞いていないから、最近のことは分からない。昔は落語の本筋に入る前に本題と関係ないようなことを少ししゃべる。そして知らぬ間に本筋に入っていく。この部分を「まくら」といった。

昔はテレビやラジオのように時間の制約がないから、気が向けば長々とやる。簡単に切り上げることがある。昨夜飲み過ぎたり、遊郭で遊び過ぎて疲れているときはさっさと切り上げる。

ちょうど相撲の仕切りみたいなものだ。放送中継のないころは仕切り時間の制限もなかったように。

まくらも芸のうちで、うまい落語家のを聞いていると、そこだけでいい心持がしてくる。落語家の目線は下町というよりかは、場末の生活者、そして自由な、反権力的な都市生活者のそれである。いまのテレビの司会やバラエティ番組で田舎者の視聴者相手に銭を荒稼ぎする連中とはわけが違う。

そして、噺家であるから饒舌であり、芸は達者である。西村氏の饒舌達意の文章を読むとそういうことを連想させる、ということ。

氏は江戸川区の出と言うが、決して下町とは言えない。勿論山の手でもない。場末か、あるいは新開地に入るか。

おまけ、「南関東のなまり」と再三いうが、あれは何か。おいらが鼻の詰まったような 「ン」と「グ」 との区別がつかない聞き苦しい言葉を乱暴に「北関東のなまり」と決めつけるようなものか。

南関東といっても、千葉と神奈川では同じではないのではないか。千葉の言葉は多少耳に残っているが、東京の言葉とはまったく違う。神奈川についても同じだろう。西村氏が千葉県との境で育ったというから安房言葉のことかな。

「はな」と文頭にくる。あれは何かね。「もともと」、「最初から」ということかな。ま、なんとなくわかるし、文体を構成する一つだろうからケチをつけているわけではないが、下町ことばではないようだ。


西村賢太のキーワード

2011-02-09 00:19:41 | 西村賢太

世間(文壇)のキーワードは私小説作家

オイラのキーワーズは、不愉快作家、落語のまくら(ただし半世紀以上前)、そしてドストエフスキーである。

ワタシがWikipediaの私小説作家のリストに賛成できないことは前に述べた。私が私小説作家として思い浮かべるのは葛西善蔵、嘉村磯多、川崎長太郎あたり、それに一部の田山花袋の小説である。

それも常識としてである。つまり作品を読まずに世間のイメージを受け売りしているということ。葛西、嘉村、川崎の小説は一、二読んだ記憶がある。川崎氏の小説は雑誌かなんかだったがで読んだと思うが、いずれも内容はまったく記憶にない。ま、そんなもんだ。

不愉快作家というと志賀直哉を思い出す。志賀、西村両氏を不愉快なる言葉で括るのは、生い立ちは対照的であっても、キー・ムードは不愉快の一語である。それも不条理に突然襲ってきて作者の全身全霊を捉えてしまう。西村氏はこのブラックアウト(あるいはフラッシュバック)状態を表現するのがうまい。

読者は何故だか分からない。それでも西村氏は現代作家であるから一生懸命説明しようとするがそれでもよくわからない。不愉快(生理的に言うと吐き気、行動で言うとDVなどの肉体的暴力)モードは「実存」(懐かしい言葉だ)の根源的なモードではある(ショーペンハウアー参照)。

次回は落語のまくらと西村賢太