穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

車谷長吉「贋世捨人」

2011-02-24 20:46:19 | 芥川賞および直木賞

自称「私小説家」、公認「私小説作家」車谷氏の表記の本を読んだ。

前にも書いたが、これが体験を書いたものとすれば(程度問題だが)、氏の生活は普通考えられないように都合よくドラマチックな偶然(小説的必然)が連続して生起する生活だと感心する。

神社でおみくじを引けば大凶が9回も連続する。普通おみくじには神社の営業的配慮から「大凶」なる出現率はニルに近く調節されているのではないか。かりにランダムに混ぜてあっても9回も続くなんてマンガでも説得力がない。

そうかと思うと、都合の良い時に都合のよい人と電車でばったりあうとか。普通の小説でも気になるところだが、私小説と銘打ってあると余計引っかかる。

ま、こんなことは些事だが、一番はぐらかされた気がするのは、何故小説を書くかという作者の衝動というか、性向というか、必然性が全くかんじられないことである。

小説を書くべきかどうかと、悩みに悩むということは分かる。何故小説なのかというのがまったく分からない。大体、どうしても書きたいこと、書きたいテーマ、読者に訴えたいテーマがあって抑えきれないなら、小説を書くべきか、やめるかなんて悩みがどこから出てくるのか。

ぼくなんかから見るとその辺の欠落が非常に奇妙なんだな。

$ ちょいと補足、小説には何故私は小説を書くか、述べよなんていっているのではない。そんなことは一言も触れる必要はない。しかし、執拗に小説を書く生活に入るかどうか、悩んでいると書いてあるから、それより、自分は書きたいことが有るのかどうかを読者に示すことが先ではないか、といっている。

大切なことをおいておいて、妙なことにこだわるなという印象を持ったということ。


あのヒト美人ねぇ

2011-02-24 07:29:26 | 芥川賞および直木賞

おんながそばにいる男に「あのヒト美人ねぇ」とつぶやくときがある。みると美人でもなんでもない。同性の見る目が違うのか。それもあろう。

「あの女のひとは美人だわ、だから私はすごい美人なのよ。わかった」と言いたい場合が多いのだ。

直木賞選者の評に「文章がすばらしい」という趣旨のコメントがかなりある。とくに今回の木内氏の作品に。チラ読みするとま、下手じゃないが、うまいというほどじゃない。

どうも、女の美人コメントと同じに考えたほうがよさそうだ。