穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

Six私小説?

2011-02-17 19:46:08 | 芥川賞および直木賞

小説はバイアグラたらねばならないか。前回紹介した村上龍氏はそういうが、他にもいるね、高樹のぶ子選考委員。内的でも何か変化が起きなければいけないそうだ。小説は催淫剤たれ、というわけだ。

仮にそうだとしても、私小説と言うのはもっともそういう機能を期待しにくい極北にあるジャンルじゃないの。

きとこわにはそんなことを期待していないみたいだけど。私小説だから読者を行動に駆り立てなければならないというテイの理屈はよく分からない。

私が前に西村氏の作品は落語の枕みたいだと言った。枕だから落ちはないわけね。落ちがなければいけないというご教導のようである。


Five私小説?

2011-02-17 11:26:45 | 芥川賞および直木賞

六十度読みでは選者の皆さんに申し訳ないので三十度読みで再読。

黒井千次氏の評も一面をつく。川上弘美さんも短いが西村氏の今後に興味を向けているのは面白い。

村上龍の評。「モチーフは古く、文学的手あかにまみれている。現実へのコミットメントが希薄だ」

この評こそ、アナクロニズムで骨董的ではありませんか。全共闘時代のえせモラリスト気取りで年を取っていった文士という感じだ。

村上龍氏はまれにみる悪文書きで読めたものではないが、嫉視もあるのかな。そういえば、村上の「きとこわ」の要約もひどいね。こんなにピントはずれな選者がいるとはね。


Four私小説?

2011-02-17 10:19:51 | 芥川賞および直木賞

ようやく本題にたどりつけそうだ。

その前に一つ、西村賢太「随筆集 一私小説書きの弁」というのがある。(講談社)

私小説論と言うよりか文字通り随筆、短文集だが最後に四頁ほどの本のタイトルになった短文がある。短い中に巷間「私小説」と呼ばれるものについてのなかなか鋭い観察がある。

当ブログでこれまでに述べてきたところと若干内容というよりかニュアンスが違うところもあるようだが、このままにしておこう。

さて、芥川賞選評(文芸春秋三月号)講評である。六十度読み(注)をしたところ、多くの選者は苦役列車を従来型の私小説と片付けている。

注)斜め読みが四十五度読みとすると、それよりもすっ飛ばして読むことを言う。

代表的なのは島田雅彦氏だろう。この人の選評のタイトルが「初めてのおつかい」と言うんだがこれは何のことかな。

苦役列車を従来型の私小説としているようだ。全体に珍妙で的外れ、選評を選評しにくい。

やや見るべきなのは山田詠美さん「私小説が、実は最高に巧妙に仕組まれたただならぬフィクションであると証明したような作品」

宮本輝氏が指摘するように「基礎的に強い文章力があればこその副産物であって、出会いがしらに偶然に生まれた面白さではない」

石原慎太郎氏の評についてはすでに述べた。