小説はバイアグラたらねばならないか。前回紹介した村上龍氏はそういうが、他にもいるね、高樹のぶ子選考委員。内的でも何か変化が起きなければいけないそうだ。小説は催淫剤たれ、というわけだ。
仮にそうだとしても、私小説と言うのはもっともそういう機能を期待しにくい極北にあるジャンルじゃないの。
きとこわにはそんなことを期待していないみたいだけど。私小説だから読者を行動に駆り立てなければならないというテイの理屈はよく分からない。
私が前に西村氏の作品は落語の枕みたいだと言った。枕だから落ちはないわけね。落ちがなければいけないというご教導のようである。