今度のタイトルはコピペかもしれない。木田元氏におなじようなタイトルの本があったような(新潮文庫方面で)。前回平凡社の『形而上学入門』のなかの「形而上学の根本の問い」について書くと約束したが、この本を大分読み散らかしたので順不同で木田氏流拾い読みでいくことにした。
巻末にある木田氏の解説によるとこれはハイデッガーの講義録だそうで自分で気に入った自信のある講義を集めて本にした物だという。木田氏によるとハイデッガーは著書(いわゆる書き下ろしかな)より講義録の方が面白いというのだな。
このブログで前に創文社だったかの、全集で根拠律について書いた部分(たしか第二十*巻)をよんで「ひどい文章だね、翻訳のせいかもしれないけど」と書いたことが有る。今回木田氏の解説を見て買ってみたという訳である。巻頭論文の題が「なぜ存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか」なのだが、これはライプニッツが命題化した根拠律のテーゼだしね。前に全集で読んだのは違う講義録だったこともあるし、どれ試しにと買ってみた。
読み散らかしたところでまず「こりゃドイツの本居宣長だな」という印象である。なんでもかんでもギリシャ語の語源を探れば分かる(問題が)というので古代ギリシャ語の語源学のオンパレードである。それが彼の思想に合致するのか、それから彼の学説が導きだされたのか、たまたまなのか分からないが。大分強引なところがあるようだ。我田引水とか牽強付会気味のように感じる所も有る。
他の号で触れるかも知れないがハイデガーには相当強引な所が有るようだ。ギリシャ悲劇「オイデプス王」を存在と仮象の説明に引用している箇所があるが相当に無理が有る。
本居宣長も上代の古事記の日本語の意味をマニアックに集めて理論を形成し、古事記を解釈した訳である。ことだま学者であった。この本を拾い読みしてハイデッガーとそっくりだと思った次第である。
本居宣長のことはさておき、なぜ古典ギリシャ語を探るといいのか、理由が全く説明していない。まさか古いからいいというわけでもあるまい。ギリシャ哲学が古今に卓絶しているのはギリシャ語のためだとでも言うのだろうか。
いずれにせよ、古ギリシャ語の語源を探る理由を「開示」すべきではないか。逆に私は「なるほど、これこれこういうわけかな」と見当がついて、いずれ説明が出てくるだろうと楽しみに読んでいた。当たればうれしいしね。ところがいつまでたっても説明なし。
語源遊びが好きらしいが、それに関連して気になった点が二つほど有る。ヨーロッパ言語では古代ギリシャ語とドイツ語がもっとも哲学に適したすぐれた言語であるそうだ。ここでも理由の説明はまったくなし。
二つ目はハイデッガーの博識あるいは勉強家の証明なのかも知れないが、「インド・ヨウロッパ語族」として古代インドのサンスクリット語を援用している。勉強家だと言わざるをえないが、サンスクリット語の知識がないから当方には正否は判断しようがない。