穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ハイデガー哲学の瀰漫度

2015-03-30 22:15:10 | ハイデッガー

どうしても気になることがある。「二十世紀最大の哲学者」としての斯界におけるハイデガーの瀰漫度である。尋常とは思われない。ちょっと精神分析のフロイトを思わせる。 

私は第一原理(?)として不健康な瀰漫度に警戒することにしている。それでもその著書を読んで納得すればなんら問題はないのだが、読んでみると(全体のコンマ数パーセントだが)そんな気はしないのだ。

もっとも、これには別解があって、ようするに私にはハイデガーを理解する知能がないのだ、というのである。案外有力な別解かもしれない。某有力大学では別解を採用するかも知れないな。

ヘーゲルによれば、哲学書というのは全部読まなければ書いてあることは分からないのだ、という。著者に対する敬意からしてもそうすべきなのだろう。そうだろうと思うが、とてもそんな時間もないし、そんな酔狂な気持ちも持っていない。書きながら(しゃべりながら:講義の場合)考えが煮詰まってくるというのは分かる気もする。

完璧を期せばヘーゲルの忠告を採用すべきなのだろうが、ちょっと拾い読みをしただけでも7割がたは見当のつくものである。ところがH氏もさるもので底を見せない。

大きな問いが二つある。「存在者への問い」と「存在への問い」である。順序的には存在者の問いが先行する。存在者の中でも特別な,人間(現存在)への問いが先行する。で「存在の時間」ということらしい。問いの根本度では「存在の問い」だが、そういうわけで『存在と時間』で現存在分析をまず、ということらしい。

分からないのはどこに画期的というか独創的なところがあるのか、ということである。言葉というか表現を変えただけでコンベンショナルな西欧哲学の伝統の中にすべて見いだされるものではないのか。私の表現で言えばアルゴリズムに独創的なところがあるとは思えない(前々回の彼岸、此岸の文章を参照)。

『現存在分析』から存在者分析そして存在分析へとシームレスに整合性を保って究明されているのだろうか。

つづく

 


ハイデガーの疑わしい功績

2015-03-30 06:50:48 | ハイデッガー

語源遊びには限界がある。西欧哲学の言葉(概念)は古代初期にギリシャからローマに移植された段階でラテン語に翻訳されている。

つまり厳密な一対一対応かどうか、疑念が残る。そしてそれに新プラトン的な解釈やキリスト教的な考えが反映し、解釈が変形して現代に伝わる。まあ、ハイデガーはそう言っている訳である。

それはほとんどがプラトンのものである。これは初期教父時代の激しい異端闘争でプラトン派が勝利した結果である。

ギリシャの哲学にしてからが、いわゆるソクラテス以前の哲学者の言説はギリシャ時代でも伝聞としてしか残されていない。すなわち主としてアリストテレス以降の文献での引用という形でしか残っていない。ソクラテスそのものからしてプラトンや他の後世の人物の著書のなかで述べられているだけである。まあ、この場合は一次伝聞では有るから少しはましである。

ハイデガーの言い分はもっともの様に見えるが甚だしい片手落ちである。なんといってもプラトンとならんで後期中世西欧哲学(神学)ではアリストテレスの影響が決定的なのだが、アリストテレスの哲学の大部分は11世紀にアラビアから欧州に流入したものである。当時の哲学先進国アラビア文化圏にアリストテレス文献がまとまった形で伝わり、その研究も行われていた。

したがって、ハイデガーのギリシャ >> ローマ >> 近代西欧という図式は 

小流れとして ギリシャ >> ローマ

本流として  ギリシャ >> アラビア >> 西欧中世

として捉えられなければならない。まず考究されなければならないのは、ギリシャ語からアラビア語にどう翻訳されたか。アラビア語からラテン語に翻訳されたときにどういうことが起こったかが研究の対象にならなければならない。寡聞にして才人ハイデガーがアラビア語に造詣があったという話は聞かない。

こういっては何だが、ハイデガーの文献講釈にはどうしても才人臭が気になる。