恋愛のならいにもれず、短く燃え上がり消滅した。1930年代の前半おそらく1933年から1934年の始めまでがその盛りであったろう。
ハイデガーがヒトラーにみたもの、それは「ドイツ民族」という集合的「現存在」(注)であった。総統は世界歴史上はじめて「覆われた存在の秘密」を二千数百年ぶりに西欧に対して開示する筈であった。そう信じた。
思い出すのはナポレオンがイエーナに占領進駐した時に、ヘーゲルが友人に書送った手紙である。「いま世界精神が馬上で通った」と興奮気味に書いている。ちょうどヘーゲルが「精神現象学」を書き終えたころである。ヒトラーはハイデガーに取っては、ヘーゲルにとってのナポレオンと同じであった。「存在」がドイツに送りつけたものであった。この思いはヘーゲルよりも強かっただろう。ナポレオンはフランス人であり、ヘーゲルは侵略占領されたドイツ人だったのだから。まさにニーチェが熱望し予言した「アンチクリスト」が出現したのだ。
ハイデガーはナチスに「存在という幻」(形而上学入門)を観たのである。「存在という誤謬」を観た(形而上学入門67ページ)のである。
しかし、ハイデガーは終世幻としての、誤謬としての恋人の面影を胸に抱き続けた。現実のナチスに見つけられなかった、いうなれば真性の、急進的な、過激なナチズムを、である。彼は戦後ナチスに付いて沈黙をまもり、反省せず、非難せず、後悔を表明しなかった。日本流に言えば「もののふ」とも言えよう。紅衛兵に脅し上げられてすぐ謝罪するような人間ではなかったのである。
注:現存在というと普通個人を連想する。また人間の本質という普遍的な概念を意味する。民族(的精神)は連想しないが。先に、「形而上学入門」を読んでいて、継ぎ目無く(つまり前後の繋がり無く)突然時事問題が数ページ続く所が複数箇所ある。妙に思っていたが、これは存在あるいは現存在にドイツ民族といった集合的なイメージを持たせ始めていた転換点だったのかも知れない。
参照:「形而上学入門」76−77ページ、81−83ページなど
ドイツ民族を選民とみる考えではヘーゲルとハイデガーは同じである。ヘーゲルは歴史哲学で最高の発展段階(終局)としてゲルマン文化をあげている。ゲルマン文化に世界精神の最高の発展段階をみる。ヘーゲルの頃はドイツという言葉があったのかどうか。少なくともドイツという国名の統一国家は無かったからゲルマン民族という言葉を使ったのだろう。
ハイデガーの場合はどうも上代ギリシャ文化の正当な後継者はドイツ人だと言うことらしい。その根拠として上代ギリシャ語を正統的に継承しているのはドイツ語だという主張(根拠、要検証)がある。