穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

何故「力への意志」をとりあげるか

2015-03-22 07:37:53 | ハイデッガー

進行形書評:ポジション・リポート ハイデッガー「ニーチェ1」120ページ

ハイデッガーのニーチェ講義では「力(権力)への意志」を取り上げる。

なぜ、「力への意志」を取り上げるかは20ページから24ページまでに要領よくまとめられている。ハイデッガーの文章らしくなく、分かりやすい。まるで大学生の履歴書の様にニーチェの著作歴を要約している。

ニーチェには多数の著作が有るが、まとまった思想体系を述べた作品は無い。彼の著作活動の最後の十年間は彼の思想体系(本堂)をまとめようとした時機である。これは彼の残したメモからわかる。注: 

しかし、彼はまとめる前に発狂してしまった。「力への意志」は体系構成の過程で彼が残した膨大なメモ、断片を死後関係者がまとめた遺稿集である。その体裁も複数回改訂されている。現在の版(すなわちハイデッガーがこの講義をした時)は比較的妥当な編集であろうとハイデッガーは推測している。

注:友人オーベルバックあてのニーチェの手紙(1884年4月7日);

「私のツァラトゥストラによって私の哲学のための柱廊を建てておいたから、いよいよこの哲学の::本堂::の竣工に次の5年間を費やす決心がついたからだ」 

ニーチェはこの予定していた5年後の1月に発狂している。つまり5年前にたてた計画満期の直前に精神に破綻をきたした。べつにそれだけのことだが妙な因縁を感じる。

まあどうでもいいことかもしれないが、後世の関係者の判断が多分に入った遺稿集を中心に批評をするのには一抹の不安定性を感じない訳ではない。もっとも、ハイデッガーはふんだんにニーチェの公刊された作品からの引用も援用しており、整合性は保つ様にはしているのだろうが、整理されていなかった遺稿集を中心に検討を加えるというのはどんなものだろうか。

没後百年後はもうすぎたが、二百年後に新しい資料が見つかるというのはままあることではある。