序において、ハイデッガーは「この講義は周到な準備をした上で行われた」と書いている。したがって全体の構成には巧妙な仕掛けがあると考えなければならない。
第一部(或は第一章)で「形而上学への根本の問い」としてライプニッツによって命題化された「なぜ一体、存在者があるのか、そして、無があるのではないか?」を考究している。
もっともライプニッツの命題はこれとそっくり同じではない。「存在者があるのか」は普通日本語では「何かがあるのか」と訳される。英語では
“Why is there something rather than nothing ? “
と訳されるようである。ハイデッガーがetwasなどとしないで存在者としたのか、原文ではseiendeらしいが余計な小細工をすると紛らわしくなる。
この問いには歴史上多くの解答が試みられているが、一致した解答はない。ライプニッツの解答は神の存在論的証明に繋がる訳だが、これは目的があってそれに解答を誘導しただけであって、むしろ神学の問題である。
ハイデッガーはどうか。縷々、無慮三百余ページを費やしているが、解答を出していない。解答の試みも無い。ハイデッガーの企みはこうである。
この問いを考えるには先行して「存在とは何か」が問われなければならない、と。そして、上代ギリシャにさかのぼり、語源学的考察や元初哲学者たち残した断片をもとに哲学史的蘊蓄を傾けて彼の存在論に持って行く。
彼の言葉を借りれば「問われ問いかけられているものから問うことへの跳ね返りが生起する。だからこの問いを問うことは、それ自身決していい加減な事象ではなく、一つの特異な事であり、これを我々は出来事と名付ける」(18ページ)。
存在論につなげるのはこの跳ね返りということであろう。だから解答を得ることが出来なくても問うことには意味があるというのだろう。
普通この種の質問は愚問、ないしは奇問とされる。幼い子供が親を悩ます質問である。学童が先生を悩ます問題である。「なぜAなの、あるいはAがあるの:それはBだからよ:なぜBなの:それはCだからよ:なぜCなの・・」と尽きることが無い。普通こういうのを無限退行とか悪無限いう。
親や先生はこういう子供を知恵おくれと見なすことがおおい。そういえば、発明王のエジソンもそういう質問をする子供であったそうである。