この小説はくどくどと長い。ホームズとワトソンの中学生のような会話が目立つ。
それに反して小説では重要な部分の「ツナギ」が弱い。いろいろあるが一つ例示すると、一枝殺しに関する部分で、竹越文次郎と言う刑事を罠にかけるところだが、犯人、もう名前を言ってもいいだろう、時子が道端でサシコミの発作が起こった体を装い、通行人の刑事を家に誘い込むところがある(194ページ)。時子は事前に退庁時の竹脇がこの時刻にこの道を通ることを知っていて、かつ顔も知っていたとある。
最後の告白のところで、彼女は簡単に一行でこう書いている。「私はそれから夢中で計画を練り、方々歩き回りました。竹越さんを『知った』のもその時でございます」(490ページ)。田舎の下っ端の刑事が彼女の「下調べ」のどこで引っかかったのか理解不能ですが。
後にも先にも作者に都合のいい不自然窮まるこの遭遇を説明したところは他にはない。『知った』と言うのにもいろいろな場合がある。男女の体の関係を持ったということも知ったということがあるし、相互に面識があったという場合もある。また、一方が相手を知っていたが相手は知らなかったという場合もある。この場合は最後の場合らしい。
この場合は一方的に彼女が刑事の顔を知り、仕事を知り、退庁時間を知り、帰宅の道筋を知っていたということだ。しかも刑事の告白によると彼は仕事熱心で帰宅は深夜になることが多く、帰宅時間もまちまちだが、その日は七時ころに帰宅することを時子は事前に知っていたことになる。しかも彼女の「たらしこみ」はその日でなければならない。なぜなら彼女はすでに一枝を殺した直後であり、それを隠蔽偽装するための「たらしこみ」はその日でなければ意味を持たない。まことに結構なお話でありますな。
2人の関係を述べているのはここ一か所の一行だけで、ホームズ君の調査ではまったく触れていない。それでも彼は「わかっちゃう」のですね。
御退屈様でした。そろそろこのシリーズを終わりにしようと思いますが、あと一回ほどにする予定でございます。今朝の朝食が不味くなりましたか。申し訳ございません。