穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

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2022-04-06 07:46:18 | 書評

 このシリーズの最初のほうで指摘したことだが、殺された画家がアゾート(数体の切断死体によるマネキン制作)についてのメモ、作者はノートとか小説と書いているが、のことだ。島田氏は犯人がアトリエの引き出しにあったノートを見て、それをなぞって後の連続殺人を実行した可能性もあるという説が世間の好事家の間にあると書いている。かの躁鬱症の尊敬すべき御手洗ホームズも黙って聞いている。
 私は先のアップでこのノートは犯人が書いてわざと残した可能性があり、警察が筆跡鑑定もしなかった(島田氏の小説を読むとそうとれる)のは不自然非常識であると指摘しておいた。いわんや島田氏がすっとぼけているのは呆れたと書いた。
 もしこれが島田氏の意図的隠蔽なら詐欺であるとも書いた。まったくフェアプレイに反していると書いた。これだけでこの小説の評価は0点になる。そして、あにはからんや、最後の時子の告白の手紙で「私が書きました」と告白させている。
 これまでに書いてきたようにこの小説には小学生でもわかるような幼稚な、読者に対するはぐらかしが多い。警察の捜査活動は小説の筋が通るように「いかにも無能な印象を与えるように」捻じ曲げられている。前回触れたように一枝殺しの際に刑事竹腰を色仕掛けにかけたことなど。更に、この事件では時子が殺害した五人の死体が物置に隠してあるのに、警察は物置を捜索していない。ちょっと考えられない。

動機について、
時子の異母姉妹や義母から受けた差別、いじめ、それに画家に離別された生母に対する冷たい態度などが理由になっているが、凄惨な大量親族殺人の動機としては弱すぎる。だから最後に時子の告白のなかで数行であっさりと処理されている。なんだか殺人の詳細凄惨な記述に比較してチグハグだ。これが「本格推理小説」の中興の祖というのも、狐につままれた印象だ。
 そうそう、時子の偽装死体が時子と判定された決め手が足の爪がバレーの練習で変形していたというのがある。差別され、いじめられた継子に、当時日本人がほとんど子供に受けさせていないバレーの練習に通わせるだろうか。これも時子の死体ではなくて別人のものであることが分かったことになっている。犯人の時子が自分も死んだように見せかけたというのだ。これも結果から後付けをしたつもりなのだろう。日本語ではこれを「頭かくして尻隠さず」という。