3月10日11時1分配信 毎日新聞
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東京大空襲から65年を迎え慰霊堂に向かって手を合わせる望月謙一郎さん=東京都墨田区の東京都慰霊堂で2010年3月10日午前9時37分、内藤絵美撮影 |
【写真特集】東京大空襲 2時間余りの爆撃で、死者は10万人にのぼった
望月さんの両親と当時14歳と3歳だった弟2人は空襲で死亡した。家族4人の遺骨は見つからず、無縁仏として慰霊堂に眠る。17歳だった望月さんは五反田の軍需工場にいて無事だったが、孤児として生きた戦後のひもじさが忘れられない。 5年ほど前の3月10日。慰霊堂で遺族会のビラを手にして入会。翌年の遺族会総会会場で、遺族が描く空襲画展に足を止めた。生まれ育った「石原町」(現墨田区)や、家族4人が避難した二葉小学校の惨状を描いた絵だった。吸い込まれるように絵に見入った。 作者の堀切正二郎さん(84)=埼玉県草加市=は「熱心に見ている人がいる」と思い、声をかけた。「糊(のり)屋のショウちゃんだよ。望月のケンちゃんかい?」。約60年ぶりの再会だった。 2人が子供時代育った自宅は、わずか30メートルしか離れていなかった。繊維業を営んでいた望月家は、糊販売業の堀切家で糊を毎日買っていた。2人は相撲やベーゴマでよく一緒に遊んでいたという。 その後も交流が続き、空襲画や講演で平和を訴え続ける堀切さんに背中を押され、望月さんは昨年8月に初めて空襲体験について講演した。それまで、家族を捜して焼け野原を歩いたあの日の記憶は誰にも語らずに封印していた。「ずっと重い荷を背負う思いだった」。堀切さんとの出会いがその荷を下ろしてくれた。「戦争反対とただ叫んでも意味がない。戦争経験者は体験を伝え、未経験者は聞くことで平和が続いてほしい」。今はそう思えるようになった。 望月さんは10日、法要の1時間前にグレーのスーツに茶色の帽子姿で会場に到着。慰霊堂の周りを1周し、「65年前とは様変わりしたなあと感じた。慰霊堂の脇の池で弟らとトンボを捕ったり、魚釣りをして遊んだことが目に浮かんだ」とかみしめるように語った。 遺族会は地区ごとの交流会を30回以上開いてきた。大空襲以来の再会を果たす遺族や、心にしまい込んできた体験談を語り始める人が増えている。星野会長は「遺族にとって残された時間は少なく、今日は最後の節目の日になるかもしれない。遺族の思いを今後も次世代に伝えていきたい」と話した。』毎日新聞
◇東京大空襲
1945(昭和20)年3月10日午前0時過ぎ、東京の深川、本所、浅草など下町地域に、米軍機約300機が焼夷(しょうい)弾約33万発を投下した。被害地域は約30平方キロに及び、死者約10万人、負傷者約40万人、焼失家屋約27万戸に上った。この後、米軍の無差別爆撃は全国各地で本格化した。
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