『佐用共立病院(兵庫県佐用町)http://www9.ocn.ne.jp/~kyorituで患者6人の肋骨(ろっこつ)が折られた事件で、傷害容疑で逮捕された元看護師の羽室沙百理(さおり)容疑者(26)は、ダミーだった病院の防犯カメラに本物が増設されて以降、患者に危害を加えていないことが病院などへの取材で分かった。病院は「看護師らはカメラがダミーだとは知らなかった」としているが、県警佐用署は、羽室容疑者が病院の防犯体制強化を知って暴行を控えたとみている。 病院などによると、ダミーカメラは連続骨折が起きる以前から病棟の廊下などに設置されていた。病院は08年12月に1人目の患者の骨折を確認。以降も相次ぎ、09年1月19日には2人の骨折を確認したことから、同28日から順次、廊下や重症患者の病室に計12台の本物のカメラを設置した。また、佐用署も病院からの相談を受け、同27日に捜査を本格化。19日以降は新たな骨折者はなかった。 羽室容疑者は調べに対し、「患者が感謝の気持ちを示してくれない」などと供述しているという。』3月14日2時33分配信毎日新聞
病院に入院して患者6人が肋骨を折られたのでは堪りません。何の為に病院に入院しているか本当に意味が有りません。病室に防犯カメラが取り付けられているのは、看護師の人手不足で入院している患者さんに目を行き届かせる為のようでした。亡き母の亡き叔母が入院していた大阪市内の戦前から有る中津のS総合病院の入院していた病室の大部屋の真ん中天井に360度回転する防犯カメラがいつも回り、ナースステイショーンで看護師さんがテレビで見ていました。亡き叔母は、病院に入院しているのに 四六時中監視されている見たいと言っていました。病院は、強制収容所では有りません。患者の人権と言うより、入院患者の気持です。『羽室容疑者は調べに対し、「患者が感謝の気持ちを示してくれない」などと供述しているという。』ますが、患者のほうは入院ストレスや精神的なイライラ、わがままになったりしがちです。患者再度から見れば好き好んで病院に入っている人はいないので患者のさん気持も理解して欲しいと思います。看護師さんは、冷静に判断出来る人が多いと思います。口に出さなくても看護師さんの患者対する思い伝わっているのではないのでないでしょうか。ナイチンゲールの看護精神で医療現場の御仕事は激務で大変ですが、健康に注意して頑張って頂きたいと思います。
☆フローレンス・ナイチンゲール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フローレンス・ナイティンゲイル(Florence Nightingale, ナイタンゲイルとも、1820年5月12日 - 1910年8月13日)はイギリスの看護師、社会起業家、統計学者、看護教育学者。近代看護教育の生みの親。病院建築でも非凡な才能を発揮した。ギリシア哲学についても造詣が深く、オックスフォード大学のプラトン学者、ベンジャミン・ジョウェット(w:Benjamin Jowett)とも親しく交流した。彼女自身が負傷兵たちに奉仕したのはクリミア戦争の2年だけであり、むしろその象徴的献身や統計に基づく医療衛生改革で名声を得た。彼女自身はクリミア戦争で熱病にかかり37歳(1857年)の頃から虚脱状態になやまされ残り55年間は病床の日々を送った。
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人物概要
裕福なジェントリの家庭である両親の2年間の新婚旅行中にトスカーナ大公国の首都フィレンツェで生まれ、フローレンス(フィレンツェの英語読み)と名づけられる。幼少期は、贅の限りを尽くした教育(フランス語・ギリシャ語・イタリア語(姉妹とも読み書き話しができた)、ラテン語(聖書や哲学の勉強の基礎となるものとして学ぶ)などの外国語、ギリシア哲学(プラトン)・数学・天文学・経済学・歴史(イギリス、外国)、美術、音楽、絵画、英語(英文法、作文)、地理、心理学、詩や小説などの文学)が施される。しかし、慈善訪問の際に接した貧しい農民の悲惨な生活を目の当たりにするうちに、徐々に人々に奉仕する仕事に就きたいと考えるようになる。また6歳のころから白日夢癖・食卓恐怖症(社会恐怖の一種)となったといわれている。[要出典]
その後ブレスブリッジ夫妻という有名な旅行家の友人に連れ添われてローマに旅行に出掛ける。そしてローマの保養所の所長をしていたシドニー・ハーバートと友人を介して知り合った。帰国後、ハーバート夫人である、通称リズことエリザベス・ハーバートとも親しい交際が始まる。ナイチンゲールは精神を病んだ姉の看護をするという口実で1851年、ドイツの病院付学園施設カイゼルスベルト学園に滞在する。ここでは、看護婦に対しても教育が行われていた。その後看護師を志し、リズ・ハーバートに紹介されたロンドンの病院へ就職するが、ただし無給で、生活費は、年間500ポンド、数少ない理解者の父が出していた。就職に反対する母、姉と険悪となる。のちに婦人病院長となったナイチンゲールはイギリス各地の病院の状況を調べ、専門的教育を施した看護婦の必要性を訴える。当時、看護婦は、病院で病人の世話をする単なる召使として見られ、専門知識の必要がない職業と考えられていた時代であった。しかし、1854年にクリミア戦争が勃発すると、ロンドンタイムスの特派員ウイリアム・ハワード・ラッセルにより、クリミア戦争の前線での負傷兵の扱いが後方部隊で如何に悲惨な状況であることを伝え始めると、一気に世論は沸騰する。ナイチンゲールも自ら看護婦として従軍する決意を固める。事態を重くみたシドニー・ハーバート戦時大臣は、ナイチンゲールに戦地への従軍を依頼する。11月、ナイチンゲールはシスター24名、職業看護婦14名の計38名の女性を率いて後方基地と病院のあるスクタリに向かった。しかし、兵舎病院は極めて不衛生であり、官僚的な縦割り行政の弊害から必要な物資が供給されていなかった。さらに現地のホール軍医長官らは、縦割り行政を楯に看護婦団の従軍を拒否した。ナイチンゲールらは、病院の便所掃除がどの部署の管轄にもなっていないことに目をつけ、まず便所掃除を始めることによって病院内へ割りこんでいった。しかし味方がいないわけではなかった。ヴィクトリア女王はハーバート戦時大臣に対し、ナイチンゲールからの報告を直接女王に届けるよう命じた。ハーバートはすぐにこれを戦地に送り、病院内に張り出した。ナイチンゲールと看護婦団、そして傷病兵らは元気付けられ、対抗勢力には無言の圧力となった。
スクタリ病院の看護師の総責任者として活躍。後に判明することであるが、着任後に死亡率は上昇(42%)したが、『衛生委員会』の査察で衛生状態の改善により好転した。当時、その働きぶりから「クリミアの天使」とも呼ばれた。看護師を「白衣の天使」と呼ぶのは、ナイチンゲールに由来する。夜回りを欠かさなかったことから、「ランプの貴婦人」とも呼ばれた。ナイチンゲール自身はそういったイメージで見られることを喜んでいなかったようである。本人の言葉としては、「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」が知られる。ナイチンゲールの従軍後の1855年、戦時省と陸軍省が合併すると若干事態は好転した。新陸軍省は衛生委員会を組織し、現地へ調査団を派遣した、そして、ナイチンゲールの報告どおり、病院内を衛生に保つことを命令した。この命令の実施により、2月に約42%まで跳ね上がっていた死者は4月に14.5%、5月に5%になったことが後に判明した。兵舎病院での死者は、大多数が傷ではなく、病院内の不衛生(蔓延する感染症)によるものだったと後に推測された。この間もナイチンゲールは陸軍内の政治的トラブルに巻き込まれる。もっとも大きなものは、ナイチンゲールの辞令の任地に最前線であるクリミア半島が含まれていないことを楯に、ホール軍医長官がその活動を制限したことだった。最終的には、この部分を修正し、女王名の入った新たな辞令が届くが、これは1856年の講和直前であった。
1856年3月30日パリで平和条約が締結される。4月29日クリミア戦争終結。7月16日病院の最後の患者が退院。ナイチンゲールは国民的英雄として祭り上げられることを快く思わず、8月6日スミスという偽名を使用して人知れず帰国した。11月帰国後ナイチンゲールチームはバーリントンホテルに集結し、タロック大佐の克明な報告書を読みながら病院の状況分析を始める。数々の統計資料を作成し、改革のためにつくられた各種委員会に提出した。このためイギリスでは、ナイチンゲールを統計学の先駆者としている。これによる改革は保健制度のみではなく、陸軍全体の組織改革につながった。ナイチンゲールは「自分は(クリミア戦争における英国の)広告塔となる」ことをいとわなかった。しかし、あまりに広告塔として利用されたせいか、戦争終結後はむしろ有名人として扱われるのを嫌うようになる。それが昂じて遺言では、墓標にはイニシャルしか記すのを許さなかった。
ナイチンゲールのこうした態度に影響されてか否か、赤十字国際委員会の創設者の一人であるアンリ・デュナンがナイチンゲールの活動を高く評価していたため、委員会が「傷病者や障害者または紛争や災害の犠牲者に対して、偉大な勇気をもって献身的な活躍をした者や、公衆衛生や看護教育の分野で顕著な活動あるいは創造的・先駆的貢献を果たした看護師」(全世界で隔年(西暦で奇数年)で50人以内)に対して贈る記念章に名前を残している。なお、ナイチンゲールは赤十字社活動には関わっておらず、むしろボランティアによる救護団体の常時組織の設立には真っ向から反対していた。これはマザー・テレサと同様、「構成員の自己犠牲のみに頼る援助活動は決して長続きしない」ということを見抜いていたためである。そして「構成員の奉仕の精神にも頼るが、経済的援助なしにはそれも無力である」という考え方があったからだといわれている。
超人的な仕事ぶりと必要であれば相手が誰であろうと直言を厭わない果敢な姿勢により、交渉相手となる陸軍・政府関係者はナイチンゲールに敬意を示し、また恐れもした。オールド・バーリントン通りにあったナイチンゲールの住居兼事務所は関係者の間で敬意と揶揄の双方の意味を込めて「小陸軍省」 Little war office とあだ名された。また、戦時中に作られたナイチンゲール基金が45000ポンドに達すると、聖トーマス病院内にナイチンゲール看護学校がつくられる。校長は病院の婦長ウォードローバーが当たったが、運営に関してはナイチンゲールも協力した。その後、同様の各種の養成学校がイギリス内に作られ、現在に近い看護婦養成体制が整い始めた。晩年は年老いた親の看病などに当たるが、1880年に母親が没したあとは活動も少なくなり、1890年以降はずっと自宅にいることが多くなった。現在、聖トーマス病院にナイチンゲール博物館がある。2007年、1890年にロンドンで蝋管に録音された肉声が、東大先端科学技術センターにより公開された。
略歴
- 1820年5月12日 一家の次女として生まれる
- 1847年ローマ旅行
- 1851年、カイゼルスベルト学園に滞在
- 1853年、ロンドンの病院へ就職
- 1854年3月、イギリス、クリミア戦争に自ら志願して38名の看護師を率い従軍
- 1860年、ナイチンゲール看護学校設立
- 1901年、完全に目が見えなくなる。
- 1907年、女性として初めて有功勲章(メリット勲章)を授かる。
- 1910年8月13日永眠。墓石には故人の意思により、ただ「F. N. Born 1820. Died 1910.」(F.N 1820年生 1910年没)とだけ記された。
- 親族 [編集]
- 父 ウィリアム・エドワード・ショア(Shore)( - 1874年)後にウィリアム・エドワード・ナイチンゲール。
- 母 フランシース・スミス( - 1880年)後フランシース・ナイチンゲール、ファニーともいわれる。
- 姉 パースィノピー(パーセノピー、1819年 - )、両シチリア王国の首都ナポリで誕生。名前の由来はナポリの旧名ナポリ(ネアポリス=新しい町)・パルテノペ(植民都市パルテノペのこと。ギリシャ神話にでてくるニンフの名前に由来)による。 旧10ポンド券の裏面はフローレンス・ナイチンゲールが描かれていたが、表面の女王の左に使用されていたユリの花はパースィノピーの描いたものであった。 主な業績専門教育を施した看護師の養成の必要性を説き、ナイチンゲール看護学校を創設した。
- クリミア戦争に従軍し、兵舎病院の衛生改善に努力した。
- 陸軍の衛生改善に協力した。
- イギリスにおける統計学の基礎を築いた。
- 看護にはじめて統計学を持ち込んだ(さらに専門家でない女王が見やすいようにデータの視覚化を行った)。
- 著書『 Notes on Nursing(看護覚え書)』は、広く看護教育の場では古典として読み継がれている。
- ナイチンゲール誓詞 ナイチンゲール誓詞(Nightingale Pledge)は、1893年アメリカ合衆国ミシガン州デトロイト市にあるハーパー病院(Harper Hospital)のファランド看護学校、校長リストラ・グレッター(Lystra Gretter)夫人を委員長とする委員会で、ナイチンゲールの偉業を讃え作成されたものである。ナイチンゲールの看護に対する精神を基とし、医学に携わる看護師としての必要な考え方、心構えを示したものである。医師にとっての「ヒポクラテスの誓い」にならって、看護師の戴帽式や卒業式に、ナイチンゲール誓詞により誓いをたてる。[1]
ナイチンゲール病棟
ナイチンゲールが考案した病院建築。『病院覚え書』(Note on Hospital)に図面入りで記されている。病室は間仕切りなしの200畳の広さをもつワンルーム。
- 患者のベッド1つにつき、1つの窓がセットされる。
- ベッドは病室の左右にそれぞれに15ずつ並んでいる。
- 窓は高い天井まで延びた3層の窓。
- 一番高い3層目の窓を常時開放しておくことで、病室の換気を行う。 また、『病院覚え書』には、患者一人の療養空間として相応しい面積、ベッドの高さやベッドとベッドの間の距離についても、理想的な計算値が述べられている。ナイチンゲール病棟は、当時の聖トーマス病院をはじめとして、世界中の病院建築に取り込まれ、実際の建物として現実的に機能した。
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