『皇太子ご夫妻の長女で学習院初等科に通う愛子さま(8)が、同学年の児童の「乱暴な振る舞い」が原因で登校できなくなっている――と宮内庁の野村一成・東宮大夫が発表したことで、海外メディアやネット上で「いじめ」などと論評されている。野村大夫は12日の定例会見で、「相手の児童への配慮が足りなかったのでは」との質問に「重く受け止めている」と答え、「(発表の仕方に)批判があるのは承知している。心苦しく思っている」と述べた。 発端は5日の野村大夫の定例会見。同日会見を開いた学習院側とは問題の経緯や原因についての認識にずれがあった。児童や学校が批判にさらされたことを受け、天皇、皇后両陛下が児童への配慮を求める異例の発言をしていた。 野村大夫は「公人たる愛子さまの様子を紹介するのは大事な点だと思っている」と釈明。発表には学校の了解を得ていたとしながら、学校側と「十分認識が共有できていなかった」と認めた。現在は通学先の学習院初等科と緊密な連絡を取りながら、不安要因を除く努力をしている、と述べた。アフリカ訪問中の皇太子さまの帰国を待ってご夫妻の判断を仰ぐという。』アサヒコム
宮内庁の野村一成・東宮大夫が発表したことで、海宮内庁の野村一成・東宮大夫が発表したことで、海外メディアやネット上で「いじめ」などと論評されたり、野村大夫は12日の定例会見で、「相手の児童への配慮が足りなかったのでは」との質問に「重く受け止めている」と答え、「(発表の仕方に)批判があるのは承知している。心苦しく思っている」と述べられていますが。愛子様に乱暴狼藉をしたにせよ、いじめにあわれたにせよ宮内庁として調査し、会見で発表されたのは当然の権利です。野村一成・東宮大夫は、心苦しく思われる思われる必要はなく、職務上の責任を果たされただけです。愛子様が乱暴を受けられたのは事実なのですから、乱暴を働いた相手方児童への配慮が足りなかったとは思えません。海外からのメディアやネットからいじめと論評されても日本国への内政干渉です。海外のメディアの論評に感心するような昨今のマスコミもマスコミで、このような日本のマスコミの報道姿勢には日本人として、憂国の念を持たざるを得ません。海外のマスコミの論調や評価に左右される舶来信奉者所謂欧米崇拝者が、日本人としての魂を忘れたのマスコミ人が多いのも問題です。今の政治家まで内政干渉だと勇気を持って発言する日本人としての自覚のある気骨ある政治家もいません。海外の国々に目を奪われて、日本の事を思わぬ代弁者やロビストばかりで日本の政治も良くなりません。今は、過去の言葉、死語のようになっています日本の「民族自決権」も考えるべきです。今や自民党のAA研や社会党や共産党でも言いませんね。 大韓民国出身の国際法学者で言う人もいました。地域の民族自決権を主張していますが。今の日本の学校では、暴力事件やいじめによる自殺が増えて続けています。今回の出来事も含めてまして日本の学校教育の場で、「善・悪」のけじめをつける大切さが忘れられているのだと思います。正しいことは正しい、悪いことは悪いと児童に学習院の先生方は教えるべきです。そうしないと同じようなことが又起こると思います。いじられるほうが悪いのでは、物の道理からも外れています。どうしてこのような間違った考えの人間が戦後増えたのでしょうか。如何し物の道理の分からない人間としか思えません。心理療法家もいるのですから、頭がおかしいとしか言いようか有りません。自らの頭を心理カウンセラーに治して貰いなさいと言いたいです。いじめることは悪いと学校で教えないと学習院初等科でも他の公立小学校でもこのような乱暴やいじめは無くなりません。政治抜きの教育問題ではなく、学校教育中で忘れられている正論と筋を通す大切さです。宮内庁の野村一成・東宮大夫も今回の出来事を通じて今の日本の学校教育の現状を良くする為にも毅然とした姿勢で、右顧左眄されずに正義を通す為に今回の真相を明らかにし国民の負託に応えて頂きたいと思います。国民も愛子様が不登校におなりにならないか心配しています。今回の会見は、学習院の承認も得ているのですから何ら発表も手続き上も問題が無いと思います。愛子様には、何も問題はお有りにならないのですから乱暴狼藉を働いた児童が、あくまで無礼で悪いのです。事実の是非を明らかにするのは当然では有りませんか。愛子様以外の同級生も乱暴を受けた可能性も有ります。学習院初等科としての学校としての責任が有ると思います。乃木希典大将 は『日露戦争時において乃木は子息を無くし、多くの犠牲者を出したことから、責任を取るために切腹を申し出ていたが、明治天皇から制止され、子供を無くした分、自分の子供だと思って育てるようにと学習院の院長を命ぜられた。その際「自分が死ぬまで死ぬことはまかりならん」と言われた通り、明治天皇崩御に合わせ殉死した。』たエビソードが有ります。『明治40年(1907年) - 学習院院長として皇族子弟の教育に従事。昭和天皇も厳しくしつけられたと言われています。』学習院院長をされていた精錬潔白で、曲がったことが大嫌いで、生真面目と正直な性格の乃木将軍なら 『授業中に先生の話を聞かずに騒ぐ児童が増え、授業が成立しない学級崩壊状態に。ひどい児童は勝手に立ち歩いたり、廊下にまで出て行って走り回ったりしていた。』と言う学習院初等科の現状を天国から見ていて誠に申し訳ないと嘆かれていると思います。戦前の学校なら、先生に児童は全員その場で殴り飛ばされて、廊下に立たされて問題を行動を起こした児童の保護者はすぐに呼び出しで、児童は謹慎後退学処分になるのではないでしょうか。私の小・中学校の先生方は生徒に殴られず、上手に生徒を叩いた戦前生まれの先生が多かったので学級崩壊などとても考えれません。先生のほうが、戦争体験や陸海軍の軍隊経験も有り生徒より俄然強かったと思います。軍人精神で、規律と礼儀を重んじた明治人の乃木将軍が生徒を御覧になると直ぐに教育の指導の問題点を直ぐに察知されると思います。この児童達の行動はもちろん言語同断と言われるでしょうし、情けない「ていたらくぶり」とお怒りになるでしょうね。学習する以前の教えを受ける生徒としての心構えも出来ていないと言われるでしょう。勉強以外の躾けとモラルを軽んじた日頃の生徒指導法の結果であると学習院初等科の先生方の総て責任と言われると思います。高度な舶来の教育理論よりも、教育の精神と常識が忘れられている今日の日本の学校です。「善・悪」の判断や思慮分別が出来ないような子供達を育てたのでは、伝統ある良家の子女の学習院ではなくなりますよ。宮内庁の野村一成東宮大夫の今回の会見や発表に相手の児童への配慮が足りなかったのでも悪いのではなく、学習院側にこそ元々の責任が有るのです。責任の所在を明らかにしないで、うやむやにするのは教育者とし卑怯です。子供達の教育に悪い影響を及ぼしますよ。宮内庁の野村一成・東宮大夫は、今回の出来事の道を見出し、愛子様が安心して通学出来るますように気骨を持って、あくまで筋を通して頑張って下さい。こんな状況では誰も安心して名門学習院初等科にお子さんを預けられないのでは有りませか。朝にブログに書き込んだ内容が私の操作ミスで消えましたので、内容が違うことになりましたのでお詫び申し上げます。亡き父の大正2年3月13日は誕生日ですので、父の死ぬまで尊敬していました乃木将軍の資料を下記に転載させて頂きました。太平洋戦争で、大東亜戦争と戦前の人は言いますが七年間旧日本帝国陸軍の中支派遣軍、嵐兵団の一員として最前線で従軍した父は、他人を殴るな言い七年間初年兵や年下の部下を殴ったことが一度も無い事が自慢だと言いました。同年兵がほとんど戦死したと言いましたが、元気な時は京都の戦友会嵐友会には、参加していました。私も父に殴られた事が一度も有りませんでした。真面目な偏こつで、戦後戦死した戦友に申し訳ないと軍人勅諭の質素を旨とすべしを守っていました。私に乃木将軍の話や野戦の最前線での戦争体験や軍人勅諭の意味も教えてくれましたので今日は下に書かせて頂きました。
乃木神社ホームページwww.nogijinja.or.jp 御神徳より一部引用させて頂きました。 | |
学習院院長 乃木学院院長の一日は生徒や職員と共に朝は生徒よりも早く4時半頃に起床、塩で歯を磨き、顔、手足、体を洗う。軍人としての心掛けから、余分な水は決して使わない。それが済むと、寄宿舎6寮の巡視。雨が降っても雪が降っても一日も欠かすことがない。初夏から晩秋には、それに草刈が加わる。終わって自室に戻り読書(音読)。午前7時に生徒と共に朝食。親しく声を掛け、姿勢の悪い者には注意を与える。7時半登校、8時の授業開始後は公務のかたわら各教室を巡視。一教室につき、始めから終わりまでの約1時間、後ろに厳然と立って授業を傍聴し、生徒の勉強ぶりを観察する。昼食は職員と共に職員食堂でとる。午後には武課、体操が行われ、運動場に立って生徒を注視する。放課後には剣道が行われ、これは何よりも楽しみとして自ら生徒に稽古をつける。5時に生徒と共に夕食。6時から10時までの生徒の自習時間に自室で読書(音読)。10時の消灯ラッパと共に生徒と同じく床に就く・・・以上が、学習院院長、乃木稀典の一日の生活です。 乃木将軍は、明治40年1月31日から大正元年9月13日までの5年間半、学習院院長(第10代)を務められました。その間、教育者として実践躬行の範を示し続けられたのです。院長就任の翌41年秋、東京の目白に新校舎が建てられ、乃木院長は、立派な院長官舎には 入らず、中等科・高等科の全生徒と共に寄宿舎に入り、彼らと起居を共にしました。酒豪かつ愛煙家であった院長は、一日の務めを終えてから自室で軽く一杯やっても構わないのですが、寮生活中は自制して禁酒禁煙を守りました。院長が教室で直接生徒を指導することはほとんどないからこそ、寮に住み込み、生徒に接する時間をできる限り多くして、顔と氏名を一人残らず覚えるのみならず、一人ひとりの性格や気質をしることにもつとめました。剣道、水泳合宿、遠足等いつも生徒と行動を共にしました。四谷には初等科、赤坂には女子部があって、週に何度かそちらに出向いて公務を統率し、赤坂の自宅に帰るのは 月に1~2度。この生活が殉死の時まで続いたのです。 乃木院長のこうした日常が、年少多感な生徒に多大な感化を及ぼさずにはおきません。学習院の生徒は当時、華族の子弟が大半でしたから、贅沢に甘やかされて育った者が少なくありません。寮生活を不自由・不便に思う者もいましたが、明治天皇の信任も厚い天下の老名将(在任時59~64歳)が生徒と同じ生活をしているので、不平不満を言い様もなく、在任1か月もたたないうちに生徒は乃木院長を慈父のように慕い敬い、皆「うちのおやじ」といい合うようになりました。乃木院長は、郷里の友人に宛てた手紙の中でこう詠んでいます。“寄宿舎で 楽しきことを数ふれば 撃剣 音読 朝飯の味” | |
乃木希典
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乃木 希典 | |
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1849年12月25日 -1912年9月13日 | |
渾名 | 乃木将軍 |
生誕地 | 江戸(長府藩上屋敷) |
所属政体 | 大日本帝国 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1871年 - 1912年 |
最終階級 | 陸軍大将 |
指揮 | 第三軍司令官 |
戦闘/作戦 | 四境戦争 西南戦争 日清戦争 日露戦争 |
賞罰 | 正二位・勲一等・功一級・伯爵 バス勲章(英国) |
廟 | 乃木神社 http://www.nogijinja.or.jp |
乃木 希典(のぎ まれすけ、嘉永2年11月11日(1849年12月25日) - 大正元年(1912年)9月13日)は、日本の武士(長府藩士)、軍人。陸軍大将従二位・勲一等・功一級・伯爵。第10代学習院院長。贈正二位(1916年)。家紋は「市松四つ目結い」。「乃木大将」、「乃木将軍」などの呼称で呼ばれることも多い。東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ、「聖将」と呼ばれた。しかしいわゆる「殉死」の評価についても諸説あるように、司馬遼太郎など「愚将」とする考え方もあるが、これに対する名将論・反論・擁護論も数多くある[1]。
若い頃は放蕩の限りを尽くしたが、ドイツ帝国留学において質実剛健なプロイセン軍人に影響を受け、帰国後は質素な古武士のような生活を旨とするようになったという。当時にしては上背があり、頭部が小振りで、足が長く長靴の軍装が映えた。乃木は他の将官と違い省部経験・政治経験がほとんどなく、軍人としての生涯の多くを司令官として過した。また、明治天皇の後を追った乃木夫妻の殉死は、当時の日本国民に多大な衝撃を与えた。
山口県、栃木県、東京都、北海道など、複数の地に乃木を祀った乃木神社がある。
幾つかの文献で元帥となっているが、乃木が元帥だった事実は無い(元帥の称号を賜る話はあったが、乃木本人が固辞したため)。
- 嘉永2年(1849年) - 現在の東京都港区に長州藩(現・山口県)の支藩である長府藩の藩士、乃木希次・乃木寿子(久子表記の文献あり)の三男(長兄・次兄が相次いで夭折したため、事実上の長男)に生まれる。現在、六本木ヒルズになっている長府藩上屋敷が生誕の地。幼少期に母である寿子に躾として火箸で叩かれたことが元で左目がほぼ失明状態となる。
- 安政5年(1858年)- 長府に帰郷。
- 慶応元年(1865年)- 長府藩報国隊に入り奇兵隊に合流し幕府軍と戦う。
- 明治4年(1871年) - 陸軍少佐に任官。
- 明治10年(1877年) - 歩兵第14連隊長心得として西南戦争に参加。軍旗を薩摩軍に奪われた。乃木はこれを終生忘れることはなかった。この事が後に乃木の自刃の遠因となる(軍旗を参照)。
- 明治19年(1886年) - 川上操六らとともにドイツに留学。
- 明治27年(1894年) - 歩兵第1旅団長(陸軍少将)として日清戦争に出征。旅順要塞を一日で陥落させた包囲に加わった。
- 明治28年(1895年) - 第2師団長(陸軍中将)として台湾征討に参加。
- 明治29年(1896年) - 台湾総督に就任。
- 明治31年(1898年) - 台湾統治失敗の責任をとって台湾総督辞職。
- 明治32年(1899年) - 第11師団の初代師団長(中将)に親補せられる。
- 明治37年(1904年) - 休職中の身であったが日露戦争の開戦にともない、第三軍司令官(大将)として旅順攻撃を指揮。2児の勝典が金州南山で、保典が203高地でそれぞれ戦死する。
- 明治40年(1907年) - 学習院院長として皇族子弟の教育に従事。昭和天皇も厳しくしつけられたという。
- 大正元年(1912年) - 明治天皇大葬の9月13日夜、妻静子とともに自刃。享年62。墓所は港区青山霊園。
- 大正5年(1916年) - 裕仁親王の立太子礼に際して、正二位を追贈される。
- 我國の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇躬つから大伴物部の兵ともを率ゐ中國のまつろはぬものともを討ち平け給ひ高御座に即かせられて天下しろしめし給ひしより二千五百有餘年を經ぬ此間世の樣の移り換るに隨ひて兵制の沿革も亦屢なりき古は天皇躬つから軍隊を率ゐ給ふ御制にて時ありては皇后皇太子の代らせ給ふこともありつれと大凡兵權を臣下に委ね給ふことはなかりき中世に至りて文武の制度皆唐國風に傚はせ給ひ六衞府を置き左右馬寮を建て防人なと設けられしかは兵制は整ひたれとも打續ける昇平に狃れて朝廷の政務も漸文弱に流れけれは兵農おのつから二に分れ古の徴兵はいつとなく壯兵の姿に變り遂に武士となり兵馬の權は一向に其武士ともの棟梁たる者に歸し世の亂と共に政治の大權も亦其手に落ち凡七百年の間武家の政治とはなりぬ世の樣の移り換りて斯なれるは人力もて挽回すへきにあらすとはいひなから且は我國體に戻り且は我祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第なりき降りて弘化嘉永の頃より徳川の幕府其政衰へ剩外國の事とも起りて其侮をも受けぬへき勢に迫りけれは朕か皇祖仁孝天皇皇考孝明天皇いたく宸襟を惱し給ひしこそ忝くも又惶けれ然るに朕幼くして天津日嗣を受けし初征夷大将軍其政權を返上し大名小名其版籍を奉還し年を經すして海内一統の世となり古の制度に復しぬ是文武の忠臣良弼ありて朕を輔翼せる功績なり歴世祖宗の專蒼生を憐み給ひし御遺澤なりといへとも併我臣民の其心に順逆の理を辨へ大義の重きを知れるか故にこそあれされは此時に於て兵制を更め我國の光を耀さんと思ひ此十五年か程に陸海軍の制をは今の樣に建定めぬ夫兵馬の大權は朕か統ふる所なれは其司々をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義を存して再中世以降の如き失體なからんことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそされは朕は汝等を股肱と頼み汝等は朕を頭首と仰きてそ其親は特に深かるへき朕か國家を保護して上天の惠に應し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも汝等軍人か其職を盡すと盡さゝるとに由るそかし我國の稜威振はさることあらは汝等能く朕と其憂を共にせよ我武維揚りて其榮を耀さは朕汝等と其譽を偕にすへし汝等皆其職を守り朕と一心になりて力を國家の保護に盡さは我國の蒼生は永く太平の福を受け我國の威烈は大に世界の光華ともなりぬへし朕斯も深く汝等軍人に望むなれは猶訓諭すへき事こそあれいてや之を左に述へむ
- 一 ひとつ、軍人は忠節を盡すを本分とすへし凡生を我國に稟くるもの誰かは國に報ゆるの心なかるへき况して軍人たらん者は此心の固からては物の用に立ち得へしとも思はれす軍人にして報國の心堅固ならさるは如何程技藝に熟し學術に長するも猶偶人にひとしかるへし其隊伍も整ひ節制も正くとも忠節を存せさる軍隊は事に臨みて烏合の衆に同かるへし抑國家を保護し國權を維持するは兵力に在れは兵力の消長は是國運の盛衰なることを辨へ世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕しと覺悟せよ其操を破りて不覺を取り汚名を受くるなかれ
- 一 ひとつ、軍人は禮儀を正くすへし凡軍人には上元帥より下一卒に至るまて其間に官職の階級ありて統屬するのみならす同列同級とても停年に新舊あれは新任の者は舊任のものに服從すへきものそ下級のものは上官の命を承ること實は直に朕か命を承る義なりと心得よ己か隷屬する所にあらすとも上級の者は勿論停年の己より舊きものに對しては總へて敬禮を盡すへし又上級の者は下級のものに向ひ聊も輕侮驕傲の振舞あるへからす公務の爲に威嚴を主とする時は格別なれとも其外は務めて懇に取扱ひ慈愛を專一と心掛け上下一致して王事に勤勞せよ若軍人たるものにして禮儀を紊り上を敬はす下を惠ますして一致の和諧を失ひたらんには啻に軍隊の蠧毒たるのみかは國家の爲にもゆるし難き罪人なるへし
- 一ひとつ、 軍人は武勇を尚ふへし夫武勇は我國にては古よりいとも貴へる所なれは我國の臣民たらんもの武勇なくては叶ふまし况して軍人は戰に臨み敵に當るの職なれは片時も武勇を忘れてよかるへきかさはあれ武勇には大勇あり小勇ありて同からす血氣にはやり粗暴の振舞なとせんは武勇とは謂ひ難し軍人たらむものは常に能く義理を辨へ能く膽力を練り思慮を殫して事を謀るへし小敵たりとも侮らす大敵たりとも懼れす己か武職を盡さむこそ誠の大勇にはあれされは武勇を尚ふものは常々人に接るには温和を第一とし諸人の愛敬を得むと心掛けよ由なき勇を好みて猛威を振ひたらは果は世人も忌嫌ひて豺狼なとの如く思ひなむ心すへきことにこそ
- 一 ひとつ、軍人は信義を重んすへし凡信義を守ること常の道にはあれとわきて軍人は信義なくては一日も隊伍の中に交りてあらんこと難かるへし信とは己か言を踐行ひ義とは己か分を盡すをいふなりされは信義を盡さむと思はゝ始より其事の成し得へきか得へからさるかを審に思考すへし朧氣なる事を假初に諾ひてよしなき關係を結ひ後に至りて信義を立てんとすれは進退谷りて身の措き所に苦むことあり悔ゆとも其詮なし始に能々事の順逆を辨へ理非を考へ其言は所詮踐むへからすと知り其義はとても守るへからすと悟りなは速に止るこそよけれ古より或は小節の信義を立てんとて大綱の順逆を誤り或は公道の理非に踏迷ひて私情の信義を守りあたら英雄豪傑ともか禍に遭ひ身を滅し屍の上の汚名を後世まて遺せること其例尠からぬものを深く警めてやはあるへき
- 一 ひとつ、軍人は質素を旨とすへし凡質素を旨とせされは文弱に流れ輕薄に趨り驕奢華靡の風を好み遂には貪汚に陷りて志も無下に賤くなり節操も武勇も其甲斐なく世人に爪はしきせらるゝ迄に至りぬへし其身生涯の不幸なりといふも中々愚なり此風一たひ軍人の間に起りては彼の傳染病の如く蔓延し士風も兵氣も頓に衰へぬへきこと明なり朕深く之を懼れて曩に免黜條例を施行し畧此事を誡め置きつれと猶も其悪習の出んことを憂ひて心安からねは故に又之を訓ふるそかし汝等軍人ゆめ此訓誡を等閒にな思ひそ
- 右の五ヶ條は軍人たらんもの暫も忽にすへからすさて之を行はんには一の誠心こそ大切なれ抑此五ヶ條は我軍人の精神にして一の誠心は又五ヶ條の精神なり心誠ならされは如何なる嘉言も善行も皆うはへの裝飾にて何の用にかは立つへき心たに誠あれは何事も成るものそかし况してや此五ヶ條は天地の公道人倫の常經なり行ひ易く守り易し汝等軍人能く朕か訓に遵ひて此道を守り行ひ國に報ゆるの務を盡さは日本國の蒼生擧りて之を悦ひなん朕一人の懌のみならんや
- 明治十五年一月四日
- 御名
提供: Wikisource
陸海軍軍人に賜はりたる勅諭(軍人勅諭)
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