教育カウンセラーの独り言

今起こっている日本の教育の諸問題と受験競争の低年齢化している実態を見据えます。

質問通告「遅い」とぼやき=菅首相

2011年01月29日 21時51分07秒 | 国際・政治
 28日の参院本会議での代表質問をめぐり、菅直人首相が同日の閣議前に、みんなの党の川田龍平氏からの質問通告が遅いとぼやく場面があった。首相は本会議の答弁で、質問内容を早めに伝えるよう川田氏に求めたが、民主党も野党時代は通告の遅さを指摘されていただけに、理解を得るのは容易ではなさそうだ。  閣議前の写真撮影時に、首相は「一番遅い人は(午前)8時35分に(質問の)全文がきた。今、一生懸命読んでいたところだ」と苦笑しながら各閣僚に語った。その後の本会議では、「ちゃんと答弁の準備ができる時間に質問を出してもらいたい」と川田氏に協力を要請した。 首相は4日の年頭記者会見でも、国会質疑の24時間前までに質問要旨を政府側に示すべきだと強調。今国会では野党質問への答弁漏れが相次ぎ、陳謝を繰り返している。2011年1月28日(金)16:03[時事通信社]

「2日前通告」 民主さっそく“遅刻”

産経新聞2011年1月26日(水)08:00

 民主党は国会質問について、質問する前々日の正午までに政府側に内容を通告するルールの徹底を与野党に提案しているが、26日の衆院本会議で菅直人首相の施政方針演説への代表質問を行う民主党幹部が、さっそくこのルールを破ったことが25日、明らかになった。 民主党の岡田克也幹事長は18日、与野党に対して、国会審議の充実を理由にこのルールの徹底を呼びかけた。 しかし、26日に代表質問に立つ民主党の城島光力政調会長代理が、政府側に質問内容を伝えたのは25日夕だった。また、首相は年頭記者会見で、せめて「質疑の24時間前までに質問要旨を示す」ことを要望していたが、これもクリアしなかったことになる。 城島氏の事務所は「ルールはこれから与野党で協議して明確化することだ」としているが、自民党幹部は「野党に呼びかけるなら、自分たちが率先垂範するのが筋だろうに」とあきれている。

人の振り見て我が振り治せと言いま民主党も野党時代は通告の遅さを指摘されていたのに政権を取った途端自分達のしていたことを 忘れているのでは有りませんか。菅直人首相が同日の閣議前に、みんなの党の川田龍平氏からの質問通告が遅いとぼやいても26日に代表質問に立った民主党の城島光力政調会長代理が、政府側に質問内容を伝えたのは25日夕だったので、野党を批判するのはおかしいとのでは有りませんか。菅総理大臣が。ちゃんと答弁の準備ができる時間に質問を出してもらいたい」と川田氏に協力を要請したのはりだ問題です。総理大臣は、内閣の最高責任者です。参議院であれ、衆議院であれどんな野党の代表質問にも質問要旨を出されていなくて答弁することが、内閣総理大臣としての責務であり、政治のブロの大切な仕事では有りませんか。今国会では野党質問への答弁漏れが相次ぎ、陳謝を繰り返しているようでは総理大臣としての「言論の府」と言われている国会伊での内閣総理大臣の責任を果たしていません。、「将の将たる器」ではが無いと思います。故田中角栄総理大臣は、高等小学校卒業の叩き上げ政治家で、角さんと庶民に親しまれた、「コンピュータ付きブルドーザー」と形容される知識量・実行力で知られた。国会の答弁でも漢字を読み違えたことは有りませんでしたね。書も上手でした。故早坂茂三氏(1930年6月25日 - 2004年6月20日)は、日本政治評論家北海道函館市恵比須町出身。田中角栄元内閣総理大臣の政務秘書を23年間務めた。秘書辞任後は、多くの著書を出した早坂茂三出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)によりますと夜遅くまで一生懸命自分で勉強していたと言われています。香具師のような独特の皆さんと言うだみ声での裏には、東京大学出身のキャリヤ官僚相手に太刀打ちする為の努力と研究の熱心さが有ったと言うことです。菅直人総理大臣は、東京工業大学理学部物理学科卒業で田中角栄氏より学歴では数段上です。今国会では野党質問への答弁漏れが相次ぎ、陳謝を繰り返しているなどおかしいことでは有りませんか。

老子

第3部 「道」をなぞらえる[第14章から第25章]第十七章

白文

大上下知有之。其次親而譽之。其次畏之。其次侮之。
信不足焉。有不信焉。
悠兮其貴言。功成事遂。百姓皆謂我自然。

書き下し文

大上は下之れ有るを知るのみ。其の次は親しみて之を譽(ほ)む。

其の次は之を畏(おそ)れ、其の次は之を侮る。

信足らざれば、信ぜられざる有り。

悠として其れ言を貴(わす)れ、功成り事遂げて、百姓、皆な我れを自然と謂う。

老子の翻訳、第十七章でござる。 原文太上下知有之。其次親而譽之。其次畏之。其次侮 ...blog.mage8.com/roushi-17 より一部引用

意味

最上の指導者は誰れも知らない。

その次の指導者は人々に親近感があり、ほめたたえられる。

その次の者は人々に畏れられる。

最下等の指導者は人々に軽蔑される。

指導者が充分に誠実を示さないと、人々の信頼は得られない。

気をつけて、言葉の価値を高めよ。

仕事が行われ、事業が成しとげられたとき、それはひとりでにそうなったのだと人々はいうだろう。

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田中角栄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

田中 (たなか かくえい、1918年(大正7年)5月4日 - 1993年(平成5年)12月16日)は、日本政治家衆議院議員(16期)、郵政大臣第12代)、大蔵大臣(第676869代)、通商産業大臣第33代)、内閣総理大臣(第6465代)などを歴任した。

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概略

高等教育を受けていないという学歴で首相まで上り詰めたことから「今太閤」と呼ばれる一方、「コンピュータ付きブルドーザー」と形容される知識量・実行力で知られた。自民党最大派閥であった田中派(木曜クラブ)を率いつつ、巧みな官僚操縦術を見せつけるなど、党人政治家でありながら官僚政治家の長所を併せ持った稀有な存在であった。大正生まれとして初の内閣総理大臣である。首相在任中には、中華人民共和国との間の日中国交正常化日中記者交換協定金大中事件第一次オイルショックなどの政治課題に対応。日本列島改造論で一世を風靡したが、後にその政策が狂乱物価を招いたことや、金脈問題への批判によって首相を辞職。さらにアメリカ航空機製造大手のロッキード社による全日空への航空機売込みに絡む収賄事件である「ロッキード事件」で逮捕され自民党を離党した。

首相退任後やロッキード事件による逮捕後も田中派を通じて政局に対する影響力を保ち続け、マスコミは「(目白の)闇将軍」の異名を名付けた。

道路法の全面改正や、道路港湾空港などの整備を行う各々の特別会計法や日本列島改造論によるグリーンピアなど、衆議院議員として100本を超える議員立法を成立させ、戦後の日本の社会基盤整備に正負両面にわたる大きな影響を残した。また、社会基盤整備を直接担当する建設省運輸省、大臣として着任していた通商産業省郵政省などに強い影響力を持ち、政治家による官僚統制の象徴、族議員の嚆矢となった。

経歴

小学校卒業まで

新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現・柏崎市)に父・田中角次、母・フメの二男として生まれる。田中家は農家だが父・角次は牛馬商、祖父・捨吉は農業の傍ら宮大工を業としていた。角栄の幼少年時代に父角次がコイ養魚業、種牛の輸入で相次いで失敗し家産が傾き極貧下の生活を余儀なくされる。幼いころ吃音があり、浪花節を練習して矯正した。

1933年昭和8年)、二田高等小学校卒業。田中自身は「中央工学校」卒と明記していたが、大蔵大臣就任時の挨拶に見られるように「高小卒業」を一つのアピールにしていたこともあり、今日に至るまでこのイメージが強い。

上京

  • 1934年(昭和9年)3月 - 上京。住み込みで井上工業に働きながら、神田の中央工学校土木科(夜間部)に通う。途中海軍兵学校への入学を真剣に考えたこともあったが、以下のように実業の道に入った。
  • 1936年(昭和11年)3月 - 中央工学校土木科を卒業。建築技師として自活。
  • 1937年(昭和12年) - 「共栄建築事務所」を設立する。
  • 1939年(昭和14年)4月 - 応召、満州国で兵役に就く。
  • 1940年(昭和15年)3月 - 陸軍騎兵上等兵となる。
  • 1941年(昭和16年)
    • 2月 - 大病を患い内地へ帰還。
    • 10月 - 治癒と共に除隊。東京の飯田橋で田中建築事務所を開設。
  • 1942年(昭和17年)
    • 3月 - 事務所の家主の娘、坂本はなと結婚。
    • 11月 - 長男正法が誕生(1947年9月、4歳で死亡)
  • 1943年(昭和18年)12月 - 田中土建工業を設立。理研工業(理化学研究所の産業部門)などの仕事で急成長する。
  • 1944年(昭和19年)1月 - 長女眞紀子が誕生。
  • 1945年(昭和20年)8月 - 第二次世界大戦敗戦。滞在していた朝鮮半島から引き揚げる(最後は理研工業移転の仕事で大田(たいでん、テジョン)にいた)。田中土建工業は戦災を免れる。

初出馬から首相就任まで

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そして誰もいなくなった new!!

2011年01月29日 21時20分45秒 | 国際・政治

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2011年01月29日

そして誰もいなくなった

 以下は今日の「天木直人のメールマガジン」で配信した一例です。

□■□■【反骨の元外交官が世界と日本の真実をリアルタイム解説】
■□■
□■ 天木直人のメールマガジン2011年1月29日発行 第60号
■  
 =============================================================

  そして誰もいなくなった 
                
 ==============================================================

 エジプトの反政府運動は激しさを増している。

 正直言ってここまで拡大するとは私も予想していなかった。

 なにしろムバラク政権はこれまであらゆる危機を乗り越えてきたからだ。

 米国の絶大な支援を背にしてきたからだ。

 いまでも私はエジプトがチュニジアのような民衆革命にまで行き着くとは
思っていない。

 米国はいざとなればムバラクを切り捨てて親米政権を打ちたてようとする
だろう。

 それが私が期待する真の民衆革命でないことは明らかだ。

 真の民衆革命でなければ単なる政権交代だ。大勢に影響はない。

 しかし、私がここで言いたい事はエジプトの将来ではない。

 米国に強固に支えられてきた政権が世界中で次々と交代しつつあると
いう現実だ。

 気がついたら日本だけが唯一、最強の対米従属国となっているかもしれ
ない。

 そしてそんな日本が不幸な国であることは言うまでもない。

 今朝(1月29日)の早朝のテレビ番組(みのもんたのサタデー
ずばっと!)でエジプト情勢が取り上げられた時、民主党議員がひとこと
つぶやいていたのが印象的だった。

 ここまで米国に支持されていたムバラク政権でもこんな事になるんですね、
といった趣旨の言葉を、驚きとも不安ともつかない表情で漏らしていた。

 おそらく彼は国際政治には疎い議員なのだろう。ましてや中東情勢は何も
知らないのだろう。

 そしてそんな彼こそ日本の一般国民の素朴な考えを代弁しているに違いない。

 しかし現実の国際政治はそうではない。

 もはや米国に支持されていれば大丈夫だという時代は、世界では終わりつつ
あるのだ。

 むしろ米国の従属国こそが次ぎ次ぎと倒れて行っている。

 それは米国の支配が終わったということではない。

 それどころか米国はあらゆる手を使って世界を支配し続けようとするだろう。

 そんな米国の支配から脱却することの困難さを世界は知っている。

 それでも世界のあらゆる国とその国民は、自主・自立を求めている。

 その動きが拡がりつつある。

 そしてそれは、それらの国の政治的、経済的発展の当然の帰結なのである。

 国民の覚醒の自然な発露である。

 鳩山首相の末路を同僚として見てきた菅直人という政治家が、同僚を助ける
どころか、それを反面教師として首相になり、首相になったとたんここまで
対米従属に豹変した。

 それが、米国に逆らえば首相になれない、米国の支持さえ得られれば政権は
安泰だ、そう思った末の行動であったとすればあまりにも浅薄だ。

 そしてその誤りが今菅首相を苦しめている。

 果たして日本の国民は世界の国民の潮流と同じように対米自立に目覚める
時がくるのだろうか。

 そうであってほしい。

 気がついたらやがて誰もいなくなった。日本と言う国が最後の対米従属国と
なった。

 歴史にそう記録されないためにも今こそ日本国民は覚醒しなければならない。

 それが後世の世代に対する今を生きる国民の責任であると思う。                                     
                               了

 「天木直人のメールマガジン」はあらゆる政党、政治家から自立し、
反権力、平和主義、対米従属外交批判、弱者の視点で、メディアの
裏にある真実を追求しています。
 日本の状況は世紀末の様相を呈しつつあります。いまこそ真実を見極め
自分自身の正しい考えを持つように努力しなければなりません。
   
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裏切り・裏切り・寝返り…与謝野氏に公開質問状

2011年01月29日 18時47分01秒 | 国際・政治
 『自民党東京都連(会長・石原幹事長)は28日の役員会で、与謝野経済財政相に議員辞職の意思を問う公開質問状を送付したと報告した。 「自民党に投票した有権者に続き、たちあがれ日本に投票した有権者までも裏切り、敵である民主党に寝返った」とし、議員辞職のほか、次期衆院選で民主党から立候補する意思があるかどうかなど8項目について、31日までに回答するよう求める内容だ。 28日の参院本会議の代表質問でも、たちあがれ日本の藤井孝男参院代表が「どのような立派な政策を並べようとも、人間の信頼が失われた中でいい仕事ができるわけがない」と与謝野氏を批判した。 与謝野氏は2009年の衆院選に自民党公認で東京1区から出馬し、同党の比例ブロックで復活当選した。その後、離党(後に除名)し、たちあがれ日本を経て、経財相に就任した。』2011年1月28日(金)17:51讀賣新聞

与謝野氏は信頼失った」=かつての同志が批判

 たちあがれ日本の藤井孝男参院代表は28日の参院本会議で、同党を離党して菅政権に加わった与謝野馨経済財政担当相について「政治に最も大事なことは信頼だ。政治家としての『信』を失った」と厳しく批判した。  藤井氏は「どのような立派な政策を並べようとも、人間の信頼が失われた中でいい仕事ができるわけがない」と強調した。藤井氏の質問への与謝野氏の答弁はなかった。 2011年1月28日(金)18:03 [時事通信社]
政権ウオッチで、田中秀征 [元経済企画庁長官、福山大学客員教授『政治的なブレが許容範囲を越えた 与謝野氏に問われる政治家としての道義」【田中 秀征 政権ウォッチ】. (ダイヤモンドオンライン第67回 2011年1月20日配信掲載) 2011年1月 21日(金)配信.news.nifty.com/cs/magazine/detail/diamond-20110121-03/1.htm - )で 要するに、政治家としての道義や節操が厳しく問われている。特に民主党打倒を叫んで「たちあがれ日本」を結成したこと。さらに、自民党比例区で当選し、議員在職のまま入閣したことは、今後野党から集中砲火を浴びかねない。首相が期待するように、与謝野氏が内閣の大黒柱として予算を成立させ、税・社会保障の抜本的改革を強力に推進できるとはとても思えない。政権維持のためには「180度のブレ」もあり?問われる民主党選挙公約の意義『 また、海江田万里前経財相を経産相に横滑りさせて与謝野氏を起用した影響も小さくない。長年東京一区で死闘を繰り返してきた両者は不倶戴天の政敵である。首相が与謝野氏起用について海江田氏と相談したとか了解を求めたという話も聞いていない。民主党の政治家は「いつかわが身」と不信感を強めただろう。政治の禁じ手を使ったのであり、首相の政治手法が政権維持のためには「何でもあり」という印象を強めた。 菅首相が、そんなに与謝野氏の財政再建構想に賛同しているなら、なぜ自公政権当時にそれに協力しなかったのか。どう考えても筋が通らない。 野党は、協議を呼びかける前に政権の案を示せと足踏みを揃えている。その通りである。 また、それを与謝野担当相が仕切るとしても、その骨格は首相が自ら明確に示さなければならない。こんな重要な案件を「任せた」として逃げることは許されない。 とりわけ、首相をはじめ民主党は一貫して、すべて税金で賄う最低保障年金を最大の売り物としてきた。この点が特に与謝野氏の自民党路線と違うところだ。この民主党案は一見識であり、これに同調して民主党を支持した人は驚くほど多い。こんな重要公約についても与謝野氏に何も指示することなく起用したのだとしたら、一体、選挙公約は何であったのかという何であったのかということになる。 』与謝野氏に問われる「政治家としての道義」もさることながら、菅直人総理大臣の政治家としての道徳的責任も有ると思います。「海江田万里前経財相を経産相に横滑りさせて与謝野氏を起用した影響も小さくない。長年同じ選挙区の東京一区でお互いに死闘を繰り返してきた両者は不倶戴天の政敵である。首相が与謝野氏起用について海江田氏と相談したとか了解を求めたという話も聞いていない。民主党の政治家は「いつかわが身」と不信感を強めただろう。』 と批判されていますが、政権維持の為には、権謀術策何でも有りで政党間仁義、信義を裏切った政治史上前代未聞の引抜であり、このようなことをした菅首相は、 【将器】大将たるにふさわしい器量・人物、総理大臣の器でしょうか。与謝野馨氏男の美学と賞賛している向きも有りますが。
忠臣は二君に事えず。(ちゅうしんはにくんにつかえず)  忠臣はいったん主君を定めたなら、心を変えて他の主君に仕えたりはしない。『史記・田単でんたん伝』に『忠臣は二君にえず』中国春秋時代、燕の将軍の、燕に仕えれば大きな領土を与えるという申し入れを断って首をつって死んだ、斉の王燭の死に臨んだ時の言葉》忠臣は、いったん主君を定めたのちは、他の人に仕えることはない。』と言う諺を思い出しました。歌人与謝野晶子 さんのお孫さんで、『忠臣を孝子(こうし)の門に求む〔後漢書(韋彪伝)「求忠臣必於孝子之門」〕親に孝養尽くしている者は必ず君主にも忠であるから忠臣求めるならば孝子の家に求めるのがよい。』とても孝子の門の出身とは思えません。
孝子の家の出身とは思えない、たちあがれ日本の同志と代表と東京一区の選挙民を裏切り政治家としての良識無い人物と思います。
今後自分の出世と大臣のポストを得るために政党を渡り歩く政治家が増えて、国民が政治家に信頼を失い失望するのではないでしょうか。故原健三郎衆議院の渡り鳥シリーズ『1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)にかけて、原は、日活映画小林が渡り鳥シリーズでギターを爪弾く姿ギターを持った渡り鳥』の脚本を山崎巌と共同執筆し、同作に始まる「渡り鳥シリーズ」全9作品中4作を含めた15作の原作を執筆したことになっているが、選挙向けや党内活動の肩書きとしてクレジットされたものだった。実際にはいずれも日活のオリジナル作品であり、原はノータッチであることを当時、原のクレジットされた全作品の脚本を執筆した日活の専属脚本家・山崎巌が自著で明らかにしている。原がクレジットされた全作品を製作・配給したのは日活であり、全作品のプロデューサーは、児井英生であった』を思い出しますね。政治家は、自分の政治理念と主義。主張を政界を引退するまで通さないと国民から支持を得られないのでは有りませんか。侍ニッポンの歌では有りませんが人を裏切るのが政治家ならば、昨日自民党 、明日は民主党その日その日の 出来こごろ  どうせおいらは 政界の裏切り者よ 野暮な衆議院議員では国民は大迷惑です。

 

出展 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

日本の政治家
原 健三郎
はら けんざぶろう
生年月日1907年2月6日
出生地兵庫県淡路市
没年月日2004年11月6日(満97歳没)
死没地東京都渋谷区
出身校早稲田大学
オレゴン大学
前職講談社月刊現代編集長
所属政党民主党→)
民主自由党→)
自由党→)
自由民主党
称号従二位
勲一等旭日桐花大綬章
衆議院名誉議員有資格者
政治学士

任期1986年7月22日 - 1989年6月2日
天皇昭和天皇

任期1961年6月8日 - 1963年10月23日
議長清瀬一郎

内閣鈴木善幸内閣
任期1980年7月17日 - 1981年11月30日

第30代 労働大臣
内閣第3次佐藤内閣改造内閣
任期1971年7月5日 - 1972年1月28日

選挙区旧兵庫1区→)
旧兵庫2区→)
比例近畿ブロック
当選回数20回
任期1946年4月11日 - 2000年6月2日

その他の職歴
第28代 労働大臣
1968年11月30日 -1970年1月14日

原 健三郎(はら けんざぶろう、1907年2月6日 - 2004年11月6日)は、日本政治家衆議院議員(20期)、衆議院議長(第65代)、衆議院副議長(第43代)を務め、また国務大臣としては労働大臣第28代第30代)、国土庁長官第9代)、北海道開発庁長官第43代)を歴任。

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人物・来歴

位階従二位勲章勲一等旭日桐花大綬章。「ハラケン」の愛称で親しまれ、選挙の度に妻とともに土下座することで有名な名物議員であった[1]

1907年(明治40年)2月6日兵庫県津名郡浅野村北淡町を経て現在は淡路市)に生まれる。洲本中学校を経て1931年早稲田大学政経学部卒業後、アメリカオレゴン大学に留学、卒業。講談社にて雑誌『現代』の編集長を務めたのち、1946年4月に戦後初の総選挙兵庫1区から立候補・初当選し、政界入りした。

1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)にかけて、日活製作・配給、児井英生企画作品の製作に関わり、脚本あるいは原作として15作の映画にクレジットされた[2]。⇒ #フィルモグラフィ

衆議院副議長、労働大臣2回、国土庁北海道開発庁長官、衆院ロッキード問題調査特別委員長、自民党広報委員長、国民運動本部長などを歴任したが1972年第3次佐藤内閣改造内閣労働大臣時には成人式の講演での失言(「感謝の気持ちを忘れ我を押し通したものが養老院にいる、諸君がそうなっては困る」)で、辞任に追い込まれた。このほかにも1980年モスクワ五輪ボイコットの際、それに抗議した選手たちに「この国家の一大事に飛んだり跳ねたりしたいのか」と選手らの気持ちを逆なでするような発言をし、非難を浴びたこともある。労働大臣時代には当時は異例とされていた官公庁の週休二日をはじめて提唱した。

自民党国民運動本部長時代、大相撲の「内閣総理大臣杯」の創設を提案した。これは実現し、現在も続いている。

1986年7月の第106特別国会で「自民300議席」という絶対多数のもと第65代衆議院議長に就任。大型間接税(売上税消費税)導入をめぐる税制改正問題に加えて1988年に発覚したリクルート問題など厳しい国会運営を強いられながらも、第113臨時国会(「税制国会」)での消費税導入を含む税制改革関連6法の成立に尽力した。しかし、1989年の第114通常国会における予算案の強行採決をめぐる混乱により6月に辞任。予算案は憲政史上初めて自民党により単独採決となった。

50年の議員生活から、1996年には尾崎行雄三木武夫に続いて史上3人目となる名誉議員の有資格者となったが、財政難などで同認定されていない。最後の選挙となった1996年10月の第41回衆議院議員総選挙では「ハラケン危うしお助けください」をスローガンに苦しい選挙運動を繰り広げるが、兵庫県第9区では新進党宮本一三に敗れ、比例近畿ブロックで復活当選した。1999年中曽根派から志帥会旗揚げ参加。

2000年衆議院解散を機に20期54年にわたる議員生活に別れを告げ、93歳という衆院歴代第2位(1位は尾崎行雄)の高齢で政界を引退した。銅像を建てるという夢は「財政難」などから野党の同意を得られず、念願を果たすことはなかった。引退後は地元関西のテレビやラジオにコメンテーターとして出演しながら晩年を過ごした。主な出演番組は『迫って!GABURI。』(毎日放送)、『さてはトコトン菊水丸』(MBSラジオ)内の「教えてハラケン」など。

明石海峡大橋の建設にも強い執念を燃やした。架橋が夢物語だと思われていたころには「ハラケン」をもじって「ハシケン」「ホラケン」などとも揶揄されたが、最終的にこれを実現へと導いた。国会に銅像を立てる念願こそ果たせなかったが、明石海峡大橋のたもとにはこの功績を称える銅像が立てられている。

2004年11月6日1時52分、心不全のため東京都渋谷区の自宅で死去した。満97歳。

備考]

1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)にかけて、原は、日活映画『ギターを持った渡り鳥』の脚本を山崎巌と共同執筆し、同作に始まる「渡り鳥シリーズ」全9作品中4作を含めた15作の原作を執筆したことになっているが、選挙向けや党内活動の肩書きとしてクレジットされたものだった。実際にはいずれも日活のオリジナル作品であり、原はノータッチであることを当時、原のクレジットされた全作品の脚本を執筆した日活の専属脚本家・山崎巌が自著で明らかにしている[3][4]。原がクレジットされた全作品を製作・配給したのは日活であり、全作品のプロデューサーは、児井英生であった[2]

関連項目

関連文献

  • 『ハラケン「生涯現役」 元衆議院議長・原健三郎 人生聞き語り』、編著神戸新聞東京支社、出版 神戸新聞総合出版センター、2001年 ISBN 4343001393

脚注

  1. ^ 『連立政治の舞台裏 政界再編・流砂の六年間』、西川孝純、文芸社、1999年 ISBN 4887375662, p.205.
  2. ^ a b 原健三郎日本映画データベース、2010年1月23日閲覧。
  3. ^ 小林信彦「ギターを持った渡り鳥」 - 『2001年映画の旅 ぼくが選んだ20世紀洋画・邦画ベスト200』、小林信彦、文藝春秋、2000年 ISBN 4163568409、p.189
  4. ^ 山崎巌『夢のぬかるみ』、新潮社、1993年 ISBN 4103801026、p.69.

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日韓戦翌朝、韓国籍の父なじられ同級生切りつけ

2011年01月29日 12時33分10秒 | 受験・学校
『 神奈川県小田原市の市立中学校で、1年生の女子生徒(12)が女子の同級生(13)を切り出しナイフ(刃渡り6・3センチ)で切りつけ、背中と左手に約1週間の軽傷を負わせていたことが28日、わかった。小田原署は女子生徒を傷害の非行事実で小田原児童相談所に通告した。 同署や市教委によると、女子生徒は26日午前8時45分頃、授業が始まる前の音楽室で、同級生の背中を工作用ナイフで切りつけた。同級生はとっさにナイフを握り、左手中指に切り傷を負った。この直前、女子生徒の父親が韓国籍であることを複数の男子生徒がからかい、その後、同級生が「お前の席じゃない」と言って女子生徒が座っていた椅子を押したという。 小田原署幹部によると、女子生徒は「サッカーのアジア杯日韓戦の翌朝で、父親が韓国籍であることをなじられた。脅せばいじめがなくなると思い、ナイフを持っていた」と話しているという。』 読売新聞 1月28日(金)21時54分配信最終更新
女子生徒の父親が韓国籍であることを複数の男子生徒がからかい、その後、同級生が「お前の席じゃない」と言って女子生徒が座っていた椅子を押したのが、1年生の女子生徒(12)が女子の同級生(13)を切り出しナイフ(刃渡り6・3センチ)で切りつけ、背中と左手に約1週間の軽傷を負わせた原因です。 物事は、原因が有り、結果が有るのです。女子生徒の父親が韓国籍だからと言ってからかったり、いじめるのは悪いことです。
国際化時代の今日、島国根性を持たずお互いに相手に立場に立ち、考え尊重することが大切です。サッカーのアジア杯日韓戦を応援するサポータのマナーとサッカーの精神では有りませんか。この女子生徒の父親が韓国籍であることを知っていて複数の男子生徒が常日頃からいじめていたのではないでしょうか。、この女生徒の同級生にを切り出しナイフで切りつけ、背中と左手に約1週間の軽傷を負わせていたのは良くないですが、この中学校の生活指導でも人権教育の取り組みが本当になされていたのかと思います。日本人として複数で、同級生の1人の女子生徒を言葉で、じめるような卑怯なことは止めるべきです。多数で1人をいじめて、人間として恥ずかしいと思わないのでしょうか。この中学校の生徒達の人権感覚の無さは、国際時代の世界に通用しない日本人としの品格の無さと国籍が違うからと言って同級生や保護者を差別する心の狭さも感じます。袖振り合うも何かの縁の諺通、一緒に同級生として学ぶのも一生に一度の縁です。友達として仲間としてお互いに仲良く友情を深めるべきです。 

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