「2日前通告」 民主さっそく“遅刻”
民主党は国会質問について、質問する前々日の正午までに政府側に内容を通告するルールの徹底を与野党に提案しているが、26日の衆院本会議で菅直人首相の施政方針演説への代表質問を行う民主党幹部が、さっそくこのルールを破ったことが25日、明らかになった。 民主党の岡田克也幹事長は18日、与野党に対して、国会審議の充実を理由にこのルールの徹底を呼びかけた。 しかし、26日に代表質問に立つ民主党の城島光力政調会長代理が、政府側に質問内容を伝えたのは25日夕だった。また、首相は年頭記者会見で、せめて「質疑の24時間前までに質問要旨を示す」ことを要望していたが、これもクリアしなかったことになる。 城島氏の事務所は「ルールはこれから与野党で協議して明確化することだ」としているが、自民党幹部は「野党に呼びかけるなら、自分たちが率先垂範するのが筋だろうに」とあきれている。
人の振り見て我が振り治せと言いま民主党も野党時代は通告の遅さを指摘されていたのに政権を取った途端自分達のしていたことを 忘れているのでは有りませんか。菅直人首相が同日の閣議前に、みんなの党の川田龍平氏からの質問通告が遅いとぼやいても26日に代表質問に立った民主党の城島光力政調会長代理が、政府側に質問内容を伝えたのは25日夕だったので、野党を批判するのはおかしいとのでは有りませんか。菅総理大臣が。ちゃんと答弁の準備ができる時間に質問を出してもらいたい」と川田氏に協力を要請したのはりだ問題です。総理大臣は、内閣の最高責任者です。参議院であれ、衆議院であれどんな野党の代表質問にも質問要旨を出されていなくて答弁することが、内閣総理大臣としての責務であり、政治のブロの大切な仕事では有りませんか。今国会では野党質問への答弁漏れが相次ぎ、陳謝を繰り返しているようでは総理大臣としての「言論の府」と言われている国会伊での内閣総理大臣の責任を果たしていません。、「将の将たる器」ではが無いと思います。故田中角栄総理大臣は、高等小学校卒業の叩き上げ政治家で、角さんと庶民に親しまれた、「コンピュータ付きブルドーザー」と形容される知識量・実行力で知られた。国会の答弁でも漢字を読み違えたことは有りませんでしたね。書も上手でした。故早坂茂三氏(1930年6月25日 - 2004年6月20日)は、日本の政治評論家。北海道函館市恵比須町出身。田中角栄元内閣総理大臣の政務秘書を23年間務めた。秘書辞任後は、多くの著書を出した早坂茂三出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)によりますと夜遅くまで一生懸命自分で勉強していたと言われています。香具師のような独特の皆さんと言うだみ声での裏には、東京大学出身のキャリヤ官僚相手に太刀打ちする為の努力と研究の熱心さが有ったと言うことです。菅直人総理大臣は、東京工業大学理学部物理学科卒業で田中角栄氏より学歴では数段上です。今国会では野党質問への答弁漏れが相次ぎ、陳謝を繰り返しているなどおかしいことでは有りませんか。
老子
第3部 「道」をなぞらえる[第14章から第25章]第十七章
白文
大上下知有之。其次親而譽之。其次畏之。其次侮之。
信不足焉。有不信焉。
悠兮其貴言。功成事遂。百姓皆謂我自然。
書き下し文
大上は下之れ有るを知るのみ。其の次は親しみて之を譽(ほ)む。
其の次は之を畏(おそ)れ、其の次は之を侮る。
信足らざれば、信ぜられざる有り。
悠として其れ言を貴(わす)れ、功成り事遂げて、百姓、皆な我れを自然と謂う。
老子の翻訳、第十七章でござる。 原文太上下知有之。其次親而譽之。其次畏之。其次侮 ...blog.mage8.com/roushi-17 より一部引用
意味
最上の指導者は誰れも知らない。
その次の指導者は人々に親近感があり、ほめたたえられる。
その次の者は人々に畏れられる。
最下等の指導者は人々に軽蔑される。
指導者が充分に誠実を示さないと、人々の信頼は得られない。
気をつけて、言葉の価値を高めよ。
仕事が行われ、事業が成しとげられたとき、それはひとりでにそうなったのだと人々はいうだろう。
田中 角榮(たなか かくえい、1918年(大正7年)5月4日 - 1993年(平成5年)12月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(16期)、郵政大臣(第12代)、大蔵大臣(第67・68・69代)、通商産業大臣(第33代)、内閣総理大臣(第64・65代)などを歴任した。
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概略
高等教育を受けていないという学歴で首相まで上り詰めたことから「今太閤」と呼ばれる一方、「コンピュータ付きブルドーザー」と形容される知識量・実行力で知られた。自民党最大派閥であった田中派(木曜クラブ)を率いつつ、巧みな官僚操縦術を見せつけるなど、党人政治家でありながら官僚政治家の長所を併せ持った稀有な存在であった。大正生まれとして初の内閣総理大臣である。首相在任中には、中華人民共和国との間の日中国交正常化や日中記者交換協定、金大中事件、第一次オイルショックなどの政治課題に対応。日本列島改造論で一世を風靡したが、後にその政策が狂乱物価を招いたことや、金脈問題への批判によって首相を辞職。さらにアメリカの航空機製造大手のロッキード社による全日空への航空機売込みに絡む収賄事件である「ロッキード事件」で逮捕され自民党を離党した。
首相退任後やロッキード事件による逮捕後も田中派を通じて政局に対する影響力を保ち続け、マスコミは「(目白の)闇将軍」の異名を名付けた。
道路法の全面改正や、道路・港湾・空港などの整備を行う各々の特別会計法や日本列島改造論によるグリーンピアなど、衆議院議員として100本を超える議員立法を成立させ、戦後の日本の社会基盤整備に正負両面にわたる大きな影響を残した。また、社会基盤整備を直接担当する建設省や運輸省、大臣として着任していた通商産業省や郵政省などに強い影響力を持ち、政治家による官僚統制の象徴、族議員の嚆矢となった。
経歴
小学校卒業まで
新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現・柏崎市)に父・田中角次、母・フメの二男として生まれる。田中家は農家だが父・角次は牛馬商、祖父・捨吉は農業の傍ら宮大工を業としていた。角栄の幼少年時代に父角次がコイ養魚業、種牛の輸入で相次いで失敗し家産が傾き極貧下の生活を余儀なくされる。幼いころ吃音があり、浪花節を練習して矯正した。
1933年(昭和8年)、二田高等小学校卒業。田中自身は「中央工学校」卒と明記していたが、大蔵大臣就任時の挨拶に見られるように「高小卒業」を一つのアピールにしていたこともあり、今日に至るまでこのイメージが強い。
上京
- 1934年(昭和9年)3月 - 上京。住み込みで井上工業に働きながら、神田の中央工学校土木科(夜間部)に通う。途中海軍兵学校への入学を真剣に考えたこともあったが、以下のように実業の道に入った。
- 1936年(昭和11年)3月 - 中央工学校土木科を卒業。建築技師として自活。
- 1937年(昭和12年) - 「共栄建築事務所」を設立する。
- 1939年(昭和14年)4月 - 応召、満州国で兵役に就く。
- 1940年(昭和15年)3月 - 陸軍騎兵上等兵となる。
- 1941年(昭和16年)
- 2月 - 大病を患い内地へ帰還。
- 10月 - 治癒と共に除隊。東京の飯田橋で田中建築事務所を開設。
- 1942年(昭和17年)
- 3月 - 事務所の家主の娘、坂本はなと結婚。
- 11月 - 長男正法が誕生(1947年9月、4歳で死亡)
- 1943年(昭和18年)12月 - 田中土建工業を設立。理研工業(理化学研究所の産業部門)などの仕事で急成長する。
- 1944年(昭和19年)1月 - 長女眞紀子が誕生。
- 1945年(昭和20年)8月 - 第二次世界大戦敗戦。滞在していた朝鮮半島から引き揚げる(最後は理研工業移転の仕事で大田(たいでん、テジョン)にいた)。田中土建工業は戦災を免れる。
初出馬から首相就任まで
- 1946年(昭和21年)4月 - 第22回衆議院総選挙。政治資金を献金した大麻唯男の勧めにより、進歩党公認で出馬するが、次点で落選。
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- 2011年01月29日
- そして誰もいなくなった new!!
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2011年01月29日
そして誰もいなくなった
以下は今日の「天木直人のメールマガジン」で配信した一例です。
□■□■【反骨の元外交官が世界と日本の真実をリアルタイム解説】
■□■
□■ 天木直人のメールマガジン2011年1月29日発行 第60号
■
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そして誰もいなくなった
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エジプトの反政府運動は激しさを増している。
正直言ってここまで拡大するとは私も予想していなかった。
なにしろムバラク政権はこれまであらゆる危機を乗り越えてきたからだ。
米国の絶大な支援を背にしてきたからだ。
いまでも私はエジプトがチュニジアのような民衆革命にまで行き着くとは
思っていない。
米国はいざとなればムバラクを切り捨てて親米政権を打ちたてようとする
だろう。
それが私が期待する真の民衆革命でないことは明らかだ。
真の民衆革命でなければ単なる政権交代だ。大勢に影響はない。
しかし、私がここで言いたい事はエジプトの将来ではない。
米国に強固に支えられてきた政権が世界中で次々と交代しつつあると
いう現実だ。
気がついたら日本だけが唯一、最強の対米従属国となっているかもしれ
ない。
そしてそんな日本が不幸な国であることは言うまでもない。
今朝(1月29日)の早朝のテレビ番組(みのもんたのサタデー
ずばっと!)でエジプト情勢が取り上げられた時、民主党議員がひとこと
つぶやいていたのが印象的だった。
ここまで米国に支持されていたムバラク政権でもこんな事になるんですね、
といった趣旨の言葉を、驚きとも不安ともつかない表情で漏らしていた。
おそらく彼は国際政治には疎い議員なのだろう。ましてや中東情勢は何も
知らないのだろう。
そしてそんな彼こそ日本の一般国民の素朴な考えを代弁しているに違いない。
しかし現実の国際政治はそうではない。
もはや米国に支持されていれば大丈夫だという時代は、世界では終わりつつ
あるのだ。
むしろ米国の従属国こそが次ぎ次ぎと倒れて行っている。
それは米国の支配が終わったということではない。
それどころか米国はあらゆる手を使って世界を支配し続けようとするだろう。
そんな米国の支配から脱却することの困難さを世界は知っている。
それでも世界のあらゆる国とその国民は、自主・自立を求めている。
その動きが拡がりつつある。
そしてそれは、それらの国の政治的、経済的発展の当然の帰結なのである。
国民の覚醒の自然な発露である。
鳩山首相の末路を同僚として見てきた菅直人という政治家が、同僚を助ける
どころか、それを反面教師として首相になり、首相になったとたんここまで
対米従属に豹変した。
それが、米国に逆らえば首相になれない、米国の支持さえ得られれば政権は
安泰だ、そう思った末の行動であったとすればあまりにも浅薄だ。
そしてその誤りが今菅首相を苦しめている。
果たして日本の国民は世界の国民の潮流と同じように対米自立に目覚める
時がくるのだろうか。
そうであってほしい。
気がついたらやがて誰もいなくなった。日本と言う国が最後の対米従属国と
なった。
歴史にそう記録されないためにも今こそ日本国民は覚醒しなければならない。
それが後世の世代に対する今を生きる国民の責任であると思う。
了
「天木直人のメールマガジン」はあらゆる政党、政治家から自立し、
反権力、平和主義、対米従属外交批判、弱者の視点で、メディアの
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日本の状況は世紀末の様相を呈しつつあります。いまこそ真実を見極め
自分自身の正しい考えを持つように努力しなければなりません。
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それ以前のバックナンバーはこちら
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与謝野氏は信頼失った」=かつての同志が批判
孝子の家の出身とは思えない、たちあがれ日本の同志と代表と東京一区の選挙民を裏切り政治家としての良識無い人物と思います。
出展 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
生年月日 1907年2月6日 出生地 兵庫県淡路市 没年月日 2004年11月6日(満97歳没) 死没地 東京都渋谷区 出身校 早稲田大学
オレゴン大学前職 講談社月刊現代編集長 所属政党 (民主党→)
(民主自由党→)
(自由党→)
自由民主党称号 従二位
勲一等旭日桐花大綬章
衆議院名誉議員有資格者
政治学士任期 1986年7月22日 - 1989年6月2日 天皇 昭和天皇 任期 1961年6月8日 - 1963年10月23日 議長 清瀬一郎 内閣 鈴木善幸内閣 任期 1980年7月17日 - 1981年11月30日 内閣 第3次佐藤内閣改造内閣 任期 1971年7月5日 - 1972年1月28日 選挙区 (旧兵庫1区→)
(旧兵庫2区→)
比例近畿ブロック当選回数 20回 任期 1946年4月11日 - 2000年6月2日 第28代 労働大臣
(1968年11月30日 -1970年1月14日)
原 健三郎(はら けんざぶろう、1907年2月6日 - 2004年11月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(20期)、衆議院議長(第65代)、衆議院副議長(第43代)を務め、また国務大臣としては労働大臣(第28代・第30代)、国土庁長官(第9代)、北海道開発庁長官(第43代)を歴任。
人物・来歴
位階は従二位。勲章は勲一等旭日桐花大綬章。「ハラケン」の愛称で親しまれ、選挙の度に妻とともに土下座することで有名な名物議員であった[1]。
1907年(明治40年)2月6日、兵庫県津名郡浅野村(北淡町を経て現在は淡路市)に生まれる。洲本中学校を経て1931年、早稲田大学政経学部卒業後、アメリカのオレゴン大学に留学、卒業。講談社にて雑誌『現代』の編集長を務めたのち、1946年4月に戦後初の総選挙で兵庫1区から立候補・初当選し、政界入りした。
1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)にかけて、日活製作・配給、児井英生企画作品の製作に関わり、脚本あるいは原作として15作の映画にクレジットされた[2]。⇒ #フィルモグラフィ
衆議院副議長、労働大臣2回、国土庁・北海道開発庁長官、衆院ロッキード問題調査特別委員長、自民党広報委員長、国民運動本部長などを歴任したが1972年の第3次佐藤内閣改造内閣労働大臣時には成人式の講演での失言(「感謝の気持ちを忘れ我を押し通したものが養老院にいる、諸君がそうなっては困る」)で、辞任に追い込まれた。このほかにも1980年のモスクワ五輪ボイコットの際、それに抗議した選手たちに「この国家の一大事に飛んだり跳ねたりしたいのか」と選手らの気持ちを逆なでするような発言をし、非難を浴びたこともある。労働大臣時代には当時は異例とされていた官公庁の週休二日をはじめて提唱した。
自民党国民運動本部長時代、大相撲の「内閣総理大臣杯」の創設を提案した。これは実現し、現在も続いている。
1986年7月の第106特別国会で「自民300議席」という絶対多数のもと第65代衆議院議長に就任。大型間接税(売上税・消費税)導入をめぐる税制改正問題に加えて1988年に発覚したリクルート問題など厳しい国会運営を強いられながらも、第113臨時国会(「税制国会」)での消費税導入を含む税制改革関連6法の成立に尽力した。しかし、1989年の第114通常国会における予算案の強行採決をめぐる混乱により6月に辞任。予算案は憲政史上初めて自民党により単独採決となった。
50年の議員生活から、1996年には尾崎行雄、三木武夫に続いて史上3人目となる名誉議員の有資格者となったが、財政難などで同認定されていない。最後の選挙となった1996年10月の第41回衆議院議員総選挙では「ハラケン危うしお助けください」をスローガンに苦しい選挙運動を繰り広げるが、兵庫県第9区では新進党の宮本一三に敗れ、比例近畿ブロックで復活当選した。1999年中曽根派から志帥会旗揚げ参加。
2000年の衆議院解散を機に20期54年にわたる議員生活に別れを告げ、93歳という衆院歴代第2位(1位は尾崎行雄)の高齢で政界を引退した。銅像を建てるという夢は「財政難」などから野党の同意を得られず、念願を果たすことはなかった。引退後は地元関西のテレビやラジオにコメンテーターとして出演しながら晩年を過ごした。主な出演番組は『迫って!GABURI。』(毎日放送)、『さてはトコトン菊水丸』(MBSラジオ)内の「教えてハラケン」など。
明石海峡大橋の建設にも強い執念を燃やした。架橋が夢物語だと思われていたころには「ハラケン」をもじって「ハシケン」「ホラケン」などとも揶揄されたが、最終的にこれを実現へと導いた。国会に銅像を立てる念願こそ果たせなかったが、明石海峡大橋のたもとにはこの功績を称える銅像が立てられている。
2004年11月6日1時52分、心不全のため東京都渋谷区の自宅で死去した。満97歳。
備考]
1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)にかけて、原は、日活映画『ギターを持った渡り鳥』の脚本を山崎巌と共同執筆し、同作に始まる「渡り鳥シリーズ」全9作品中4作を含めた15作の原作を執筆したことになっているが、選挙向けや党内活動の肩書きとしてクレジットされたものだった。実際にはいずれも日活のオリジナル作品であり、原はノータッチであることを当時、原のクレジットされた全作品の脚本を執筆した日活の専属脚本家・山崎巌が自著で明らかにしている[3][4]。原がクレジットされた全作品を製作・配給したのは日活であり、全作品のプロデューサーは、児井英生であった[2]。
関連項目
関連文献
- 『ハラケン「生涯現役」 元衆議院議長・原健三郎 人生聞き語り』、編著神戸新聞東京支社、出版 神戸新聞総合出版センター、2001年 ISBN 4343001393
脚注
- ^ 『連立政治の舞台裏 政界再編・流砂の六年間』、西川孝純、文芸社、1999年 ISBN 4887375662, p.205.
- ^ a b 原健三郎、日本映画データベース、2010年1月23日閲覧。
- ^ 小林信彦「ギターを持った渡り鳥」 - 『2001年映画の旅 ぼくが選んだ20世紀洋画・邦画ベスト200』、小林信彦、文藝春秋、2000年 ISBN 4163568409、p.189
- ^ 山崎巌『夢のぬかるみ』、新潮社、1993年 ISBN 4103801026、p.69.
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