変わらぬ「維新の会」の本質、流転する「民意」
この間、自分なりの未来への見通しと決意から、介護労働者の組織化の活動に重点を置いてきた。「維新政治」のデタラメさ加減を批判するだけでは大阪の政治的・社会的関係を転換することは困難であると感じている。問題は、時代の転換に向けた展望を語ることが求められる。また、展望を語り得ても、現状では、その実践主体が明確ではない。
かつて、大阪における反差別人権・平和運動や労働者の権利を守る運動の中心は、解放同盟、自治労、教組であり、旧総評系の全国金属や全港湾などの戦闘的労組であった。共産党も一定の役割を果たしていたが、解放運動や障がい者運動の方針を巡る対立から反差別人権の闘いには、党派的な利害から差別を助長するキャンペーンを展開し、人びとの連帯と共同の意識を創り出すことを阻害してきた。国鉄や電電公社の分割民営化などで公労協運動の解体、そして、総評の解体による労働戦線の右への再編と進んだ。
こうして大阪の労働者・市民運動の後退が1990年代に急速に進んだ。橋下徹と大阪維新の会は、この後退を見透かしたかのように、反差別人権や労働者の権利を守る運動・組織を強権的に屈服させてきたのである。だから、改革の展望を語るとともに、実践主体を何所に求め、どう生み出していくかを検討する必要もある。
そんなこんなで、私たちが2012年~2013年に「橋下現象研究会」(代表・杉村昌昭)で行ってきた出版活動(参考文献参照)を見直す作業から始めた。橋下徹の独特な個性によって立ち上がってきた「大阪維新の会」の政治的・文化的な本質的批判は、7~8年前の「橋下現象研究会」の論考によってほぼ言いつくされていると確認できた。しかし、問題は、「橋下現象」を巻き起こしながら大阪維新の会は、政党として少なくとも大阪では自民党を凌ぐ政党として定着している。
『さらば、虚構のトリックスター「橋下現象」徹底検証』で島和博が、「問題は橋下ではなく(彼を支える)『民意』である」と喝破した。彼らを支持する「民意」のありように切り込み、民意を転換する、すなわち、時代を転換する展望を語らねばならない。
安倍失政で吉村人気、でも「維新」の悪業は消えない
吉村大阪府知事への評価が、最近急上昇したという。小池都知事を凌ぐ急上昇であると。
安倍政権の新型コロナ対策は、独断専行の全国一斉休校、役に立たずの「アベノマスク」配布で税金無駄使い、自宅でくつろぐ動画配信で間抜けぶり、中小企業事業持続化給付金の電通へ丸投げ、感染拡大の中でGo Toトラベルの朝令暮改等など無能・無策・無責任、恥知らずぶりは、もはや誰の眼にも明らかとなっている。これに比して、連日テレビに登場して、「大阪モデル」と銘打って対策を次から次へと打ち出してきた吉村大阪府知事の支持率が急上昇。その影響もあってか、東京都知事選で維新の候補が予想外の得票を得た。「維新強し」と政界・マスコミ界でも評判が高まっている。
しかし、その一時の栄光は、大阪でもコロナ感染者が急増し、連日、過去最高の感染者数を繰り返し打ち出し、吉村自身も「感染第2波か」と認めざるを得ない事態の中で、その栄光はすぼみ始めている。所詮、小手先のテクニックで新型コロナウイルスに対抗できるはずもないのだ。新型コロナ渦によって、揺さぶられ、露呈し始めた今日の社会の深刻な分裂のありようを手軽に解決できるはずもないからである。
新型コロナ渦で問われ始めた課題についは、後に検討するとして、「決定でき、責任を負う統治機構」(「維新八策」)と強引に維新の会が進めてきた二つの象徴的事例をまず、見てみよう。
6月19日、二つのことが終結を迎えた。
一つは、「大阪都構想」の最終案が、大阪府・大阪市の法定協議会で採決され、11月1日に住民投票が実施される条件ができ上ったことで、これは後で触れる。
もう一つは、大阪市が、大阪地裁で大阪人権博物館(「リバティおおさか」)に市有地の明け渡しなどを求めた裁判が「和解」決着したことである。和解といっても、大阪人権博物館の解体・撤去を博物館側に認めさる形での「和解」である。
リバティおおさかは、他に見られない人権問題の総合博物館であった。差別や障がい者差別、アイヌ差別、性差別、在日コリア問題、沖縄戦、被爆・原発問題やハンセン病、水俣病などの人権問題の交流拠点としての活動を行ってきた。とりわけ、関西圏の小中学校には、人権学習に機会と場を提供する大きな役割を果たしても来た。
ところが、橋下が大阪府知事時代に、展示内容が「暗い、陰気」などとの印象評価を行い、大阪府・大阪市からの運営助成金の削減・停止などの脅しを使って、展示内容の変更をしつこく求めた。大阪市長になってからは、2015年に無償提供していた市有地から立ち退きと賃料相当の損害金の支払いを求める訴訟を起こしたのである。
言うまでもなく、差別や戦争の現実は、それ自体悲惨なものであり、明るくはない。むしろ目を背けたくなる。しかし、差別や犯した歴史的過ちを直視することなくして、その現象や負の遺産を克服していく人々の営みを生み出していくことはできない。橋下のリバティおおさかの展示内容と活動に対する難癖は、過去の過ちや差別の現実を覆い隠すことの要求であり、それは、結局、大阪人権博物館の解体にまで行きついた。
橋下が維新代表から顧問に退いた後も、こうした差別や犯した歴史的過ちを直視せず、向き合うことを拒否する姿勢は、松井・吉村が仕切る大阪維新の会でも継続される基本姿勢である。朝鮮学校に私学助成を行わず、学校の体育活動などに貸していた公園の使用を取り上げるなどの攻撃の手を止めていない。従軍慰安婦の少女像の設置に抗議し、サンフランシスコとの姉妹都市解消もしかりである。
他の地方と比較して在日朝鮮・韓国人が多数居住し、中国、韓国、ベトナムなどの東南アジア諸国から観光客や移住労働者が増加していることを考えれば、維新の差別的・排外主義的な基本姿勢は許されず、速やかに改めるべきである。
2015年案より悪い2020年都構想案
次に、「大阪都構想」の問題である。
これは、2015年5月に大阪市の住民投票で否決されたものだ。恥ずかしげもなく、大阪維新の会の「一丁目一番地」だとして、再度持ち出してきたのである。府市の機能を広域機能と基礎自治機能に再編すること、二重行政を制度的に解消し都市の成長を担う広域自治体(大阪府)と住民に身近な基礎自治体(特別区)の役割分担を徹底させるとしている。
今回、6月19日の法定協議会でまとめられた政令都市・大阪市を廃止・分割する案は、結論から言えば、5年前の提案と基本的に同じ性格のものであるが、より悪さが目立つ。基本的に同じ性格であるというのは、一つには、住民に身近な基礎自治体だとする特別区は、基礎自治体としての機能を発揮することが大幅に阻害され、前回の5特別区案より、4特別区にする今回の案の方が、悪さがさらに目立つのである。
詳しくは「『大阪都構想』ハンドブック」(参考文献参照)の解説書を参照されたいが、ここでは、幾つかの問題点のみを紹介する。
四つの特別区の人口を見ると、 北区:約75万人、中央区:約71万人、天王寺区:約64万人、淀川区:約60万人である。政令指定都市の堺市:約84万人よりは人口規模は小さいが、中核都市・東大阪市:約50万人より多い。政令都市・岡山市が約72万人、静岡市は約70万人で、人口規模からすると、ほぼ同じである。
特別区は住民に近い「ニア・イズ・ベター」で、住民の意向が基礎自治体である特別区に反映されやすいという。しかし、特別区の議員の数は、これまでの大阪市の各区の議席数と同じ数を4つの特別区に割り振っただけで、淀川区が18人、北区が23人、中央区が22人、天王寺区が19人。議員一人当たりの人口は、それぞれ、33,106人、32,573人、30,849人、33,498人である。人口規模の似ている地方自治体と比較すると、議員一人当たりの人口は、人口規模が淀川区とほぼ同じの杉並区は11,857人、北区は、熊本市で15,293人、中央区が、岡山市で15,418人、天王寺区が、足立区で15,300人であり、議員数は同様の規模の自治体の半分以下で少なすぎる。基礎自治体の議会機能として重要な各種委員会活動もこの議員数では、困難を極め、住民の意向を議会に反映する活動もおろそかになりかねない。
また、とんでもなく奇妙な問題は、特別区の庁舎である。中の島庁舎(現市役所)に北区が本庁舎として入るが、他の2区、淀川区と天王寺区も同居することになる。特別区の庁舎新設費用を節約するためであるが、各特別区はタコ足庁舎に職員を分散配置することになる。淀川右岸に沿って行政区が広がる淀川区は、中の島庁舎から離れており、水害や地震・津波の防災の活動の機能が危ぶまれ、住民の安全を確保する行政責任が無視された計画であることを示している。
住民自治と住民サービスの点で特に問題になるのは、政令指定都市・大阪市が統一的に行ってきた事業の多くが、一部事務組合によって運営されることである。住民の状態や要求を勘案して施策の実施が求められる介護保険も一部事務組合によって運営される。事務組合の意思決定は、各特別区から選出される議員によってなされるが、基礎自治体である特別区それぞれの意思を事務組合に反映させることは相当困難で、各区の意見が異なった場合には、意見の調整はほとんど不可能である。
住民にとって切実な福祉や教育などのサービスが、基礎自治体である特別区から一部事務組合に移され、住民から手の届かない「中2階」に宙吊りとなる。「ニア・イズ・ベター」という特別区制の掛け声とは真逆な実態で、沢山の一部事務組合の設置は、二重行政の解消どころか、三重行政の出現となる。
さらに、特別区の財政について財源不足はない、と説明されるが、各区の税収と支出は、それぞれの区によって、格差が大きい。しかも、新型コロナの状況下で税収が大きく減ることが予測されるが、そうした新しい事態への検討はなされていない。財政的にも破綻の可能性が大きい。従って、福祉、教育をはじめとする住民サービスの低下は必至であり、「ニア・イズ・ベター」とはなり得ない特別区制なのである。
大阪市の廃止で万博とカジノ開発財源のひねり出し
二つ目に、基本的には前回案と同じ性格であるのは、広域行政を大阪府に一元化し、司令塔を一本にし、都市の成長を図るとしていることである。その成長戦略なるものは前回と変わりがない。新型コロナ感染症の世界的拡がりの中で、従来型の経済成長が大きく揺らいでいる中では、この成長戦略の失敗が予測されるのに、である。
今回案も「大阪都構想」を大阪維新の会の「一丁目一番地」だと主張して来たのは、政令都市・大阪市の持っている税収と財産及び都市計画の権限等を大阪府に吸い上げることが必要だと考えたからである。大阪府の財源は、新関西空港関連の開発などの巨大開発推進の結果、成長戦略を実現するのに必要な財源がない。その財源捻出の手立てが、大阪市の持つ<金>と<権限>を吸い上げることである。
二重行政を解消するとして強引に推進された大阪市立大学と府立大学の統合――(国立大学に伍して)国際競争に勝てる「国際人材」を育成する公立大学構想――の舞台裏を見れば、経営が苦しい府大と伝統と財力を持つ市大を統合することであった。この統合過程では、人文科学の基礎的テーマである人権や哲学・思想が排除・抑制されてもいる。統合推進の上山信一らの顧問にとって、国際競争に勝てる「国際人材」育成には意味がないと取り除きたい学問・研究であったからだ。
排除・解体する施策とは別に、維新の会が考える今後の大阪の成長戦略は、新関西空港と結びついたIR・カジノと2025年大阪万博しか目立ったものはない。万博について言えば、従来のサブテーマ「多様で心身ともに健康な生き方」「持続可能な社会・経済システム」をメインテーマである「いのち輝く未来社会のデザイン」(Designing Future Society for Our Lives)の「いのち」に焦点を当て、「いのちを救う」「いのちに力を与える」「いのちをつなぐ」の3つに変更した。大阪の数少ない伝統産業・製薬業の成長とリンクした企画へと収斂されてきたのだ。
万博の夢洲会場への交通アクセス整備のためには、IR・カジノの誘致が不可欠である。IR・カジノに乗り出す資本に、その交通アクセス整備費用を負担させる計画であったからだ。しかし、今回の新型コロナ感染症の世界的流行によって、世界のカジノ業界では新規投資を躊躇する機運が広がっている。いずれにしても、万博もカジノも国際集客都市・大阪を目指すものと考えられて来た。しかし、世界的な新型コロナ感染症の渦の拡がりによって、国際集客都市の夢は、風前の灯となってきた。
どうして? 都構想で揺れる自民と公明
にもかかわらず、ここに来て都構想に共産党と共に反対してきた自民党に分裂・対立がおこった。この分裂・対立は、都構想の本質から見ると大変解り易い。賛成に転じたのは、自民党大阪府議団である。大阪市議団は、大阪市の解体によって、失うものが大きいが、大阪府議員団の側は、大阪市を解体し、財源と権限を大阪府に奪い取ることによって生まれる利益にありつける。大阪の成長戦略といっても、先に述べた創薬と国際集客都市の夢であり、その他は、幾つかの再開発や公共事業である。その利益に目覚め、そこに介在することを選択したのである。
補足して言えば、この間、都構想に反対してきた大阪自民党は、首都圏などの独占資本をバックにした政党の性格とは少し違っていた。大阪の大企業が首都圏へ重点を移していく中で、大阪の地場の中小製造業や商業、あるいは商店街や町会など地域の保守層を依拠基盤としてきた。
他方、維新の会は、東京一極集中に対抗する大阪の経済復興を旗印に、従来の自民党と行政の「癒着」関係に切り込み。大阪市の連合町会への助成金を締め上げ、地域協議会への改組を進めた。また、梅田北再開発・グランフロント大阪において「ナレッジ・キャピタル」を標榜してIT関係やコンサル業界を掘り起こして新しい支持基盤の開拓にも乗り出してきた。その一方で、「官から民へ」を掲げて、ゼネコンの大林組や加島とも、あるいは、京阪電鉄資本などとも特別な関係をつくり、大阪市営地下鉄の民営化なども進めた。こうして、維新の会は、大阪では、自民党を凌ぐ政党として定着してきたのである。
しかし、新型コロナ感染症の拡がりは、明日の世界に不確実性を増大させており、維新の会が描く大阪の成長戦略に同伴しようとする政党・勢力も、自らの未来を獲得することができない迷路にはまることになるであろう。
公明党の都構想へ態度は、揺れ動き続けてきた
公明党は、2015年の住民投票では、党としての態度は明確に示さなかったが、実質は、反対票を多くの党員と支持者が投じた。2017年10月の衆院議員選挙で日本維新の会が議席を14から9に減らして敗北した。それを受けて、法定協議会で公明党は都構想の問題点を鋭く追及する姿勢をとることになった。2019年4月の統一地方選挙で、維新は、松井知事、吉村市長が辞職し、松井が大阪市長へ吉村が大阪府知事に立候補する「クロス戦」に打って出た。首長ダブル選で維新が大勝すると、公明党は方針転換をし、法定協議会で特別区設置協定書の仕上げに協力することとなった。
公明党と維新の関係は、自民党の大阪府議団と市議団の分裂・対立のような政策選択上の問題ではない。政策選択ではなく、自らが獲得している議席を守り、拡大するのに得策であるかどうかという極めて「党利・党略」上の選択なのである。維新は、ことあるたびに、公明党の国会や府議会の有力議員の選挙区に「維新の対立候補を立てるぞ」と恫喝して公明党を屈服させてきた。
双方は、その度に『密約』を交わしてきた。公明党が、地方議会だけでなく、国会にも進出して以降、平和主義などの党の理念・政策よりも議会における議席獲得を上位に置くようになって行った。それは自民党との関係においても同様である。平和の党であるよりも、党の議席を維持・拡大するための党利・党略に基づく「議員組合」化である。
公明党のこうした政策に責任を待たない体質は、党の支持母体である創価学会との間に、あるいは青年部、女性部と上層部と間に亀裂が折に触れ現れ、政党としての活力を失くしていく回路にはまり込んでいくことになる。
新型コロナが暴いた大都市の危うさ
「身を切る改革」「官から民へ」などの維新の会の政治理念は新自由主義そのものである。彼らの進めてきた行政改革は、医療や福祉サービスを削り、経済成長を促進する環境を大資本のために用意することであった。国際競争に勝ち抜くための都市経営である。
面白いことに、コロナの感染拡大が大阪の保健・医療のキャパシティを超え始めた時、橋下徹は自らが進めてきた行政改革で医療や保健をカットしてきたのは間違いであった、とサラリと言ってのけたのである。
日本の安倍政権が取ったコロナ危機回避の「ピークカット戦略」は、感染の拡大によって医療崩壊を招くことを避けるため、クラスター(集団感染)を叩くことを中心にしたものであった。感染症予防法では、感染者は、隔離入院させることになるので、医療崩壊を招かいよう重傷者だけに焦点を当てるためPCR検査の実施数を抑える対応をとった。しかし、PCR検査の抑制は、感染者を積極的に洗い出さないため、逆に、感染への不安だけを押し広げた。「私は、もしかして感染しているのではないか」、「誰が感染しているのかもわからない」と社会不安を生み出してしまった。
全国的にも、医療機関は、医療保険費の伸びを抑制する政策によって、感染症に対応できるキャパの不足は深刻だ。感染症に対する保健・医療への日常的な備えが、行政改革で失われていたのである。この事実について、橋下は、今は政治の責任の場から離れているので、好き勝手な本音を言ったのである。
実際、大阪市では、一か所しか保健所はなくなっていた。大阪府では、保健師は従来の3分の一までに削られていた。この現状で、PCR検査もクラスター対策も保健所が担うことは当然できない相談である。
今日、コロナ対策と経済対策の両立をどう図るかが課題だと言う。おそらく妙案は見つからないであろう。暫くは感染拡大の波が、繰り返し襲ってくる。未知の要素が多い新型コロナへの対応は、これまで取られて来た国や大阪のコロナ危機回避の「ピークカット戦略」が、成功していなかったことは、7月中旬以降の感染者の急増によって証明され、医療崩壊の危機は、また、すぐ足元まで来ているのだ。試行錯誤の取り組みをするしかないであろう。
新型コロナ禍が明らかにし始めていることを世界的・歴史的な視点で、考えて見よう。グローバリズムのサプライチェーンは、いとも簡単に切断され、新自由主義的な世界経済の脆弱さが暴露された。世界が緊密に繋がり合い、ウイルスは世界の隅々に伝播していく(足の速いパンデミック)。しかも、新自由主義の無秩序な開発や地球温暖化による生態系の変化で、20年弱で新型ウイルスが3度も世界に異常出現してきた。無秩序な開発が、人間の生活圏と野生の接近をもたらし、動物から人へウイルス感染が頻発し、それが、世界へ伝播しているのだ。
問題は、ヒト、モノ、カネ、情報の集中する都市、とりわけ国際都市・メガ・シティーである。新自由主義的グローバリズムが生み出したメガ・シティーは、金融・情報を集中・集積して世界を支配する。他方の極に、生産拠点(工場等)、鉱山、農漁村を支配下に置く関係を創り出している(衰退する地方=人口減)。
そのヒト、モノ、カネ、情報を集中するニューヨークやロンドンなど大都市が感染爆発に見舞われた。そして、その都市から、農村・漁村部へウイルスを伝播させている。今、東京や大阪が、中国の武漢のような感染拡大の中心地点になろうとしている。新型コロナ禍は、近世以降の都市の成長・発展の在り方に問いを投げかけているとも言える。
未来を開けない維新とポスト・コロナの展望
ところで、どの都市もメガ・シティーになれる訳ではない。大阪は、どうであろうか。
そもそも、ニューヨーク、上海、シンガポールそして東京等と対抗できる国際競争力を持った大阪の実現を目指すことが、維新の都構想にこだわる理由であった。しかし、当面、大阪が、東京一極集中に対抗できる可能性は薄い。大阪の成長戦略は、結局、万博とカジノに矮小化されている。
既に見たように、世界的な新型コロナ感染症の拡がりによって、国際集客都市の夢は、風前の灯だ。成長戦略が、大きく揺らいでいる。このことをはっきりさせ、都構想が虚妄な構想であることを人々に訴えていくことが住民投票までの私たちの課題となる。
しかし、万が一、住民投票で大阪市廃止/特別区設置に至り着いても、維新政治の「一丁目一番地」の政策は、新型コロナ時代では、看板倒れとなる。
大阪の住民の「民意」は、いわば、維新の会が従来の政治の枠を破って、何かしら改革をしてくれるのでは、という期待である。その期待・希望に応える具体的な絵を維新が描くことができないとすれば、「民意」は分解し、薄れていくことになる。維新にとって、それを回避する道は、新たに道州制や憲法改正を前面に掲げ、全国的な政党活動を展開することと、大阪府に吸い上げた資金と権限を使った新たな都市開発政策を練り直すことであろう。
いずれにしても、新自由主義的グローバリズムが生み出した世界は、新型コロナウイルスの感染拡大で、矛盾と弱点を日々明らかにし続ける。維新政治も、この波を被ることを避けられない。もちろん、私たちもこの波から自由ではない。だから、新型コロナとの「共生」や「新しい生活様式」「ポスト・コロナ」が語られる新しい状況を見ておくことが大切だ。
感染症の流行は、歴史的に見ると新しい時代を用意したと言われる。ペストの流行で、人口の3分の1を失った西ヨーロッパでは、神への信仰が揺らぎルネサンスにいたりついた。イギリスでは、大量死で余った農地に羊を飼い、毛織物工業を発展させて資本主義への道を開いた。
それと同じように、ポスト・コロナは、新しい時代の幕開けだと語られる。しかし、コロナ騒動が、明らかにしたこの世界の実相をしっかりと見定めることが、時代の転換を本当に準備することになる。その実相とは、貧困と格差の現実であり、住む所/仕事の種類などでこの世界が二極化していることだ。アメリカやブラジルの感染拡大と死者は、マイノリティー、移民に集中している。 欧米の介護現場では、院内感染で労働者、高齢者の死者は多数。介護を担う労働者のルーツは旧植民地や東欧からの移民であった。感染症対策の成功例と言われる金融都市国家・シンガポールでは、実は、移民労働者の集団感染が深刻化している。
こうした現実から目をそらして、一部の階層が田園でテレワークの夢を描いている。しかし、都市と農山村、魚村の不均衡には眼もくれない。都市の現場に貼り付いて働く多くの労働者と、テレワークが可能な階層とへ二極に分裂しているのが世界の実像だ。はっきりしたことは、<命と生活を支える労働>である医療、介護、保育、清掃、物流など近代の産業社会で「再生産労働」と言われた労働と、他方で、<テレワーク>ができる金融、事務管理、企画・コンサル、知識・技術開発など新自由主義時代の「落し子」である階層の二極分裂である。
この分裂の現実を踏まえれば、IT技術を使った効率化と感染予防に名を借りたスマート・シティ構築などの「新しい生活様式」は、疑いの目を向けなければならない。位置情報と人との接触をスマホ・アプリで 「見守り」(保護)と「監視」(支配)を進めることは、「自粛警察」のⅠT化でもある。これらが「ポスト・コロナの新時代」なのか?
介護労働の現場から見れば、「再生産労働」といわれ、その多くは、アンペイドワークであり続け、女性と子供、あるいは農村や経済的弱者によって担われた<命と生活を支える労働>の価値が、何よりも優先して見直されるべきだ。「介護の生産性を上げる」として、介護の現場に見守りロボットが導入され、センサーによって排泄のタイミングが見守られ、監視・管理される。それらは、介護人材不足を解消し、高齢者の安全・安心が確保される、とまことしやかに喧伝されている。
今日の 「世界の都市の監視カメラ数」(人口1000人当たり)は、重慶:168.03、深圳:159.09、上海:113.46、天津:92.87、済南:73.82、ロンドン:68.40、武漢:60.49、広州:52.75、北京:39.93、アトランタ:15.56、シンバポール:15.25である。
ジョージ・オーウェルの『1984年』が描いた監視社会は、フーコーが語ったパプテムコン・「生権力」の有り様が、排泄のタイミングまで他者によって監視される過剰なケア(お世話)社会へ向かうことになるのであろうか?
新しい時代の幕開けとは、私たちが、新自由主義の終焉へと時代を導くのか、あるいは、新自由主義の生き残り、延命の道を与えてやるのかのせめぎ合いを通してである。人々が距離を取り合い、記号化されたバーチャル空間の中で繋がり、AIやIT技術をふんだんに使った監視・管理社会に喜んで参画していくのか、それとも一人ひとりの身体的感性を大切にして向き合い、連帯する社会を望むのかが、問われている。
しかし、これらは抽象的な話だ。時代を転換する実践主体の全体像は未だ描けない。私の個人的な立場から言えば、<命と生活を支える労働>の価値と高齢者・障碍者の尊厳が社会的に認知させる闘いの前進を望む。それなくして未来はない、と考える人々の連帯した闘いからポスト・コロナの社会を展望して見たいと考えている。
参考文献
・橋下現象研究会の出版図書は、『さらば、虚構のトリックスター「橋下現象」徹底検証』(2012年12月)、『これでおしまい「橋下劇場」』(2013年6月)。ともにインパクト出版会発行。
・大阪の自治を考える研究会編著 「『大阪都構想』ハンドブック~特別区設置協定書を読み解く」(公人の友社発行、2020年7月)