『 群馬県桐生市で、私立桐生一高1年、星野智君(15)が暴行を受け死亡した事件で、星野君が自分のプロフィルサイトに「ギターをやっている奴にろくな奴はいない」などと書き込んだことから、バンド活動をしていた無職少年(15)とトラブルになっていたことが23日、県警桐生署の調べで分かった。同署で犯行に至る経緯を調べている。 少年は6月に同高を自主退学するまで、星野君と同級生だった。 同高は23日、臨時休校とし、24日の終業式で全校生徒に事件の経緯などを説明する方針。 一方、星野君の父親は「口数が少なく静かな子で、自分からけんかするとは思えない。まだまだやりたいことがあっただろうに」と涙を流しながら話した。』 産経新聞
星野君が自分のプロフィルサイトに「ギターをやっている奴にろくな奴はいない」などと書き込んだとの新聞記事を読みまして、エレキの神様寺内タケシさんのことを思い出しました。下に寺内タケシさんのことを書き込ませて頂きました。
『寺内 タケシ(てらうち たけし、本名:寺内武、1939年1月17日 - )は、日本のギタリスト。茨城県土浦市出身、関東学院大学工学部電気工学科卒。通称「エレキの神様」である。また、「テリー」の愛称でも親しまれている。座右の銘は「ギターは弾かなきゃ音が出ない」。1962年に「寺内タケシとブルージーンズ」を結成、1500校近い高校を回り、コンサートを開いている。ロシア、アメリカ、ブラジルなど世界でも公演を続けている。
寺内タケシとエレキ禁止令への対抗と社会的貢献
第一期ブルージーンズ結成後しばらくして、エレキギターのバンドは不良少年の温床だという声が多くなってきた。世間のエレキへの抵抗感が強まるにつれ、寺内達の活動は困難になる。また、各教育現場でのエレキギターの使用禁止も行われ、高校生から寺内に悲愴な手紙が届くようになった。それを受けて、寺内は各地の高校を渡り歩き、そこの校長と話をしてエレキの良さを認めてもらおうとしたが、ほとんどは門前払いで、話を聞いてくれたのは100校中3校だけだった。落ち込む寺内は、原点回帰のため故郷の茨城に帰った。そして母校の土浦三高を訪ねると、校長は寺内を温かく迎え入れ、エレキの良さを理解し、寺内はブルージーンズと共に母校で演奏した。これが現在1500校を超えようとしている「ハイスクールコンサート」の第1校目であった。そのさなかの1967年に「レッツゴー運命」(ベートーヴェンの「運命」のリメイク。1967年11月30日発行のレコード・マンスリーのシングルチャートで5位を記録)で第9回日本レコード大賞編曲賞を受賞すると、それまでエレキに反対していた人たちは、口々にエレキのすばらしさを語るようになった。そして寺内がなぜそれまでエレキに反対したかと聞くと理由を答えられず謝罪することしかできなかったという。1976年にはソ連に住んでいて寺内の大ファンだという白血病に苦しんでいる8才の少女に生演奏を聴かせるために3千万円の赤字と寺内企画の倒産を覚悟で8月ブルージーンズのソ連ツアーを決行した。この最中、9月6日に起こったミグ25事件にもひるまず、52日間に及んだこのツアーで観客42万人を動員、大成功に終わった。後に1981年(45日間、観客130万人)、1984年(43日間、観客57万人)にもソ連ツアーを行っている。この功績が認められ1981年12月22日には日本国際連合協会から感謝状と国際連合が発行したピースメダル(ちなみに国連平和賞ではない。当時のマスコミが、ピースメダルと国連平和賞を混同して報道したため、誤解される原因となった)、84年には文化功労賞と音楽功労賞をそれぞれ授与された。なお、この年にはブラジル、アルゼンチンでもツアーを行っている。1981年には四年後に開かれたつくば万博のグランドプロデューサーに就任、万博の基本構想から会場のレイアウト、テーマ・ソングの作曲、万博に参加する予定の国でのコンサート・ツアー、常磐高速道路・一般道路の整備、宿泊施設、鉄道から会場周辺の上下水道の整備、VIPの接遇、跡地の再利用など多岐に渡る仕事を全て無報酬でこなした(これに際して千葉県知事から月200万円の報酬を提示されたが断ったという。)エレキが世間に認められるようになると、本格的にハイスクールコンサートをはじめとする活動を積極的に行うようになり、1978年に第20回日本レコード大賞企画賞、2000年にはハイスクールコンサート1000校達成の功績に対しスポニチ文化芸術大賞、同年5月には中曽根文部大臣(当時)から感謝状が授与された。その折、S字結腸ガンで入院し、手術を控えていた2002年2月18日にブルージーンズのボーカルをつとめる長男章が覚せい剤取締法で逮捕され、寺内は大きなショックを受ける。2月17日の退院(この時医師は「再発の可能性は500%無い」と太鼓判を押したという)直後の3月3日に痛む身体に鞭を打って緊急謝罪会見を開き「厳しく法の裁きを受けて、刑に服し、きれいになって社会復帰してもらいたい」とコメントした。そして4月11日、神奈川県民ホールにて「不死鳥テリー!蘇る!コンサート」をブルージーンズを従えて敢行、完全復活を果たし、以後現在まで依然と変わらぬ精力的な活動を行っている。2004年12月、エレキギターへの優れた演奏と青少年への情操教育への貢献が認められ、文化庁より長官表彰を受けた。2005年6月には衆議院第一別館において、国会議員をはじめ関係者を集め「ハイスクールコンサート国会報告会」を開催した。2006年11月、中学生対象のコンサートも始めるが、12月にうっ血性心不全と肺炎のため入院し2007年1月17日にカテーテル導入手術を受け1月22日に退院し、10日後にはまた演奏活動に復帰している。さらにこのとき持病だった不整脈もついでに治療したため、呼吸が改善されてギターのタッチもさらによくなったという。心臓も「15歳から20代の心臓」とお墨付きをもらったそうである(参照)。編集] 事業家として寺内は事業家としての一面も持っている。横浜市内に大手ゼネコンと共同で10階建てのマンションを多数建造し、基本的な設計、ラフ図面は自らこなす。また、母校の関東学院大学の土木工学と土木建築の講座も持っている。また、1995年1月17日に起こった阪神淡路大震災(奇しくも寺内の誕生日であった)でパニックになった現場で救助活動が遅れた反省を踏まえ、反省からパニック現場への誘導を適切にしたいという、市町村関係者の声を元にトヨタテクノクラフトと共同で災害対策車「非常災害用音響本部車」を開発、寺内が電器屋の息子のノウハウをここでも生かして設計を担当、さらに開発費用として2億5千万円を投資した。この車は2年後の1997年5月に完成した。余談だが開発最中、行川アイランドでの屋外コンサート終了後に音響実験を行ったところ周りに民家がないはずなのにあまりの音の大きさに住民が驚いて殺到する事態となってしまった。この時、当の寺内は愛車のベンツでどこまで音が届いているかを確かめに遠くまで出ていたが、かなり遠くまで音がしっかり届いたことを確認して意気揚々と戻ってきたところ住民から大目玉を食らった。しかし寺内はその場で平謝りを繰り返しながらも実験が成功した事に満足していたという。」寺内タケシ・出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用
「ギターをやっているやつにろくな奴はいないというのは」偏った見方ですよ。今有名になっているグループでも、無名時代は路上で演奏していた時もあったのですから。総ての物事、固定意的観念で見たら大きな間違いを起こします。若者らしく有りません。発想の転換をすべきです。人には、それぞれの道が有ります。自分の夢と希望をあきらめないで、自分の道を歩んで欲しいと思います。何でも見てやろう、してやろうの気持ちを持って何にでも若者らしく、人の真似をしないで挑戦して欲しいと思います。旧国鉄十合・そごう信二総裁の「挑戦する気持ちの無いやつは若者でも老人で、老人でも挑戦し続けるやつは若者です。」を書かせて頂きました。挑戦する精神、其れが若さの特権です。星野智君に暴行を加え死に至らしめた同級生は人間として許されないことをしました。お子さんを突然亡くされたお父さんの気持ちを思いますと胸が痛みます。星野智君の御冥福を心からお祈り申し上げます。ギターを愛する心があるなら、同級生の命の貴さや人の気持ちも良く分かる筈です。音楽を愛する人間に、人としての素直なやさしいや人の命の貴さが分からないとは思えません。私は、インターネット時代だからこそ言葉を選ぶべきだと思います。日本語の言葉の他の外国語より、難しく意味が深く、人により取り様が違うと思います。言葉の意味も考えながらプログに書き込む必要があると思います。人の意見を批判するの自由ですが。人の本名を無断でプログに書き、自分の名前も名乗らない卑怯者もいます。人の道に反するのでは有りませんか。人の意見をしつこく批判するのなら自分の本名も名乗り、メール・アドレスも書き込むべきです。余りにも人の道に外れた人間がいるのにも驚きます。プログを書いている人の「基本的人権を尊重」すべきことは当然のマナーでは有りませんか。