Some Like It Hot

お熱いのがお好きな映画ファンtakのつぶやき。
キネマ旬報社主催映画検定2級合格。

心の旅

2023-02-26 | 映画(か行)

◼️「心の旅/Regarding Henly」(1991年・アメリカ)

監督=マイク・ニコルズ
主演=ハリソン・フォード アネット・ベニング ビル・ナン ミッキー・アレン

仕事に没頭する敏腕弁護士ヘンリー。勝訴に導く雄弁な語り口を映画はまず冒頭で見せつける。医療過誤訴訟と思われる法廷で、被告席のいかにもか弱そうな老夫婦をカメラは見せた後、ヘンリーは「彼らが招いたことです」と冷たく言い放ち病院側を勝訴に導く。家庭では家族を顧みず、妻が買ったテーブルに文句を言い、娘にも威圧的な態度をとる。短い時間で主人公の性格と立場を明確に示してくれる。悪役イメージがあまりないハリソン・フォードが嫌なヤツとして現れるのだ。マイク・ニコルズ監督、さすがに最初の掴みは見事。

ある晩、煙草を買いに外出した先で強盗に遭遇し、銃弾に倒れるヘンリー。一命はとりとめたものの、記憶を失ってしまい、彼にとって家族は知らない人でしかない。リハビリを助けてくれる明るい理学療法士ブラッドレー(「天使にラブソングを…」の刑事役ビル・ナン)が、唯一心を許せる存在だ。しかし娘との触れ合いから記憶が戻り始めたヘンリーは、自宅に戻ることを決心する。今までとは全く違う優しい人柄のヘンリーは、過去と向き合い始める。

主人公が記憶を失う話は、いかに記憶を取り戻して元の生活に戻るのかに主眼が置かれるのが典型。周囲が思い出させようと必死になるのは、テレビドラマでもよく見かけるシーンだ。だけど、世間で評判のよい記憶喪失ものってそんな簡単な話ではないはずだ。ハリウッドクラシックの「心の旅路」は、本来の記憶を取り戻してからがドラマティック。アキ・カウリスマキの「過去のない男」は、記憶喪失後の日常がとってもユーモラス。記憶は失っても生きていく日々は毎日やってくる。

この「心の旅」もただの記憶喪失ものじゃない。J・J・エイブラムスが脚本を手がけた本作は、記憶を失う前の自分に戻るのではなく人間性を取り戻す物語だ。そこには世間で成功者として称えられているハイソな人々や社会に対する皮肉や批判が込められている。過去の自分を知れば知るほど嫌いになるヘンリーに、ブラッドリーが「そのうち本当の自分が見つかるさ」と言う。事故後のヘンリーが"なりたい自分"となる物語。ファンタジーと言われればそれまで。だけど、日々いろんなことに追われてる身には、幸せって何だろ?と振り返るにはいい機会をくれる映画だと思うのだ。

音楽担当はハンス・ジマーだが、デイブ・グルーシンぽいしゃれた劇伴。






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銀河鉄道999

2023-02-21 | 映画(か行)

◼️「銀河鉄道999/The Galaxy Express 999」(1979年・日本)

監督=りんたろう
声の出演=野沢雅子 池田昌子 肝付兼太 井上真樹夫 麻上洋子

松本零士作品には「宇宙戦艦ヤマト」以来夢中になった。スポ根や屈強な男子が殴り合うようなコミックに馴染めなかった少年にとって「銀河鉄道999」は、作品世界を空想することでさらにイマジネーションが広がるのがたまらない魅力だった。テレビシリーズは小学校高学年の頃に放送開始。最終回は中学の部活で放送時間に間に合わないから、学校隣の文房具屋さんで「おばちゃん!お願いだからテレビつけて!999の最終回見せて!」と頼み込んで友達と一緒に見たっけ(恥)。

さてその劇場版。公開されたのは中学1年の夏休みだった。叔父に連れて行ってもらったのだが、なんと「エイリアン」第1作とハシゴ鑑賞する羽目になる。「私はあなたの青春の幻影」「さらば少年の日よ」に涙した数時間後、不気味なクリーチャーと流血に少年は絶句した😱。リドリー・スコットとH・R・ギーガーに感動をグチャグチャにされた少年は、さらに銀河鉄道999、松本零士作品に夢中になるのだったw。

東映動画の、いや日本映画の大傑作の一つ。あの上映時間の中に途方もない物語のエッセンスを綺麗に収めたことがまず見事。松本零士センセイの訃報を聞いた晩に改めて観たのだが、無駄が全くないことに驚かされる。原作からセレクトされたエピソードがうまく構成されていて、劇場版だけの新たな展開も加えられている。それらのどこが欠けても言葉足らずになるし、映画の魅力が損なわれてしまう。見せ場をつなぐパートも登場人物を掘り下げるのに重要な描写があり、全く飽きさせることはない。

ハーロック登場場面のカッコよさ、アンタレスの男気。ほんとにいい台詞がいっぱい。

この映画で鉄郎が着てたロング丈の緑色のジャケット。真似したくて、似たデザインのデニムジャケットをオーバーサイズで着ていたことを思い出した(恥)。それだけ当時の僕はこの作品に愛着があったのだろ。

松本零士センセイのご冥福をお祈りします。







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荒野の七人

2023-01-31 | 映画(か行)

◼️「荒野の七人/The Magnificent Seven」(1960年・アメリカ)

監督=ジョン・スタージェス
主演=ユル・ブリンナー スティーブ・マックイーン ジェームズ・コバーン イーライ・ウォラック

初めて観たのは中学生の頃。家にこれまでより少し画面の大きなテレビがやって来た日だった。と言っても、今の50型ワイドの大画面とは違う。その半分くらいのサイズのブラウン管テレビだ。でも画面大きいなと感じるのは最初の数分だけ。すぐに慣れてしまって大きさの恩恵などどこへやら。それでも軽快なエルマー・バーンステインの主題曲が流れるオープニングはしっかりと記憶に焼きついた。

黒澤明の「七人の侍」を西部劇に翻案した作品であることは、いまさら申し上げることではない。ただドンパチを楽しく観ていた中坊の頃とは違って、そうした知識も主演俳優の他の作品も知っているし、自分自身も年齢を重ねているから、今観ると響くところが違う。

「戦わないお父さんたちは卑怯者だ」
と言う子供にチャールズ・ブロンソンが、お父さんは立派だと諭す場面。
「俺にはロバと畑に向き合って家族を守る勇気なんてない。親父さんは立派な人だ」
すごい人だと慕う村人たちに、ユル・ブリンナーが言い放つひと言。
「俺は銃の撃ち方を知っているだけだ」
アウトローの生き様がちょっとした台詞でじーんとしみる。そんな寂しさを引きずった後で、あのラストの台詞。
「勝ったのは農民だ。俺たちはいつも敗北者だ」
オリジナルあってのことではあるけれど、いい台詞がいっぱい。大人になるといっそう胸に響く気がする。名言集のような映画。

先日、職場の頼れる大先輩にいろいろ指南してもらっている時に、その方がボソッと言った。
「この業務を長くやってたというだけですから」
謙虚なひと言だけど、かっけー…🥹
経験値が吐かせるそのひと言に「荒野の七人」のユル・ブリンナーが重なった私(どんな脳内変換をしているのだろうかw)。

七人全員がヒーローじゃなくて、それぞれに弱さも抱えているキャラクターづくりが効いている。村人たちが何が最善かで迷う様子も印象的だ。正義って曖昧なもので、それぞれの正義があることを大人になるにつれて僕らは実感してきたからかもな。クラシック映画に触れると、大切なことを学びなおしているような気持ちになる。







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恋に落ちたら…

2023-01-24 | 映画(か行)

◼️「恋に落ちたら…/Mad Dog and Glory」(1993年・アメリカ)

監督=ジョン・マクノートン
主演=ロバート・デ・ニーロ ユマ・サーマン ビル・マーレイ デヴィッド・カルーソー

"mad dog"と署内で呼ばれる中年刑事ウェイン。ちょっと臆病者で独り身。彼は強盗に人質に取られていた男フランクを助けたが、フランクは表向きはスタンダップコメディアン、裏はギャングのボスだった。すると、命の恩人であるウェインを1週間世話をするようにとフランクに命じられた美女グローリーがやって来る。ギャングから刑事への便宜を受け入れてよいのか、一方でグローリーへの愛情を感じ始め、映画は終盤に向けて男の葛藤のドラマになっていく。

"mad dog"は狂犬の意味だが、"勇敢な"と言う使い方もあるとか。冴えない刑事である主人公が、自分はどう行動すべきか思い悩み、"もっと勇敢だったら"とそんな自分を思い浮かべるシーンも出てくるから、ここでは後者の意味なんだろう。警察という厳しい職場で、臆病な刑事が同僚に"勇敢"と呼ばれるってイジメじゃないのか。それとも彼を鼓舞してるのか。少なくとも狂犬の意味でそう呼ばれてるとは思えない。加納錠治(「ドーベルマン刑事」)じゃないんだからな。

しかしながら、シリアスな作風でもなく、恋愛劇でもなく、友情になり得なかった男のドラマでもなく、かと言ってコメディ色が強くもなく、全体として振り切れてないからどこを着地点にして納得していいのか観ていて迷ってしまう。ビル・マーレイは憎まれ役なのかもしれないけど憎みきれないし。

一方、素敵なシーンがあれこれある。長身のビル・マーレイとデ・ニーロが机を挟んでのメンズトーク、長めのベッドシーンのほてった表情、同僚がウェインのためにボコボコになるのも厭わない兄弟仁義。趣味の写真を認めてもらった嬉しさとか。

自分がもっと勇敢なら…と自分に自信を持てない中年男が、映画の最後に拳で立ち向かう。そこまでの葛藤のドラマは同世代になっちまった今の自分には、すごくわかるところもある。窓辺でグローリーを抱きしめる場面や、Just A Gigoloを歌いながら現場検証をする場面(なんて不真面目な…)なんて、痛々しくも見えるけれど、あの年齢で恋心に火がついたら狂うよなぁ…と妙な納得をしてしまう自分がいる。物足りない映画かもしれないけど、今の年齢だから響く部分はとても好き。







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クライ・マッチョ

2022-12-24 | 映画(か行)

◼️「クライ・マッチョ/Cry Macho」(2021年・アメリカ)

監督=クリント・イーストウッド  
主演=クリント・イーストウッド  エドゥアルド・ミネット ドワイト・ヨーカム

クリント・イーストウッド翁の新作が公開されるたびに、"これが最後になるかもしれない"と覚悟にも似た気持ちでスクリーンやディスプレイに向かう。「グラン・トリノ」も「運び屋」もそうだった。監督に専念するのではなく、助演で若手をサポートするのでもない。あくまでスクリーンのど真ん中に立ち続ける。健康上難しいとか、老醜を晒したくない映画スターもいるだろう。しかし90歳を超える今でもイーストウッドは、男の生き方をスクリーンで演じ続ける。それだけで神々しい。

かつてロデオスターとして活躍した主人公マイクは、恩義のある元雇い主からメキシコにいる10代の息子ラフォを連れ帰って欲しいと頼まれる。ラフォは母親の親権下にあるため誘拐にもなる。ラフォは家を出て、闘鶏で生活費を稼ぎながらストリートで暮らしていた。カウボーイや強い男に憧れるラフォは、父親の元に行きたいとマイクに告げる。しかしアメリカ国境へと向かう旅は多難なものとなった。

男が本当に強いとはどういうことなのか。タイトルにもあり、ラフォが闘鶏にも名付けた"マッチョ"は肉体的な力強さをイメージしがちだ。ところがマイクはラフォに言う。
「マッチョは過大評価されすぎだ。」

イーストウッド監督作は異なるものを対比させながら、その変化や意味をにじませる演出がよくある。本作でもそれは発揮されている。ラフォにとっての父親と母親。彼が憧れる力強や富を持つ父と、男遊びに興じる母親。アメリカとメキシコ。父が持つ富がある国、アメ公マイクは経済的にも劣るメキシコにやって来た。少年と老人。少年が憧れる強さと、それがない老人。

追手から目立たないために、マイクがいかにもアメリカ人な服装からメキシコ庶民の服装に変える。そのあたりから対比は和らぎを見せ始める。ラフォが考えるマッチョでない老人マイクが、野生馬を馴らしたり、周囲の人々に優しさを見せながら、次々と生きる術を示す。老人だからこそ知っている生きる知恵と経験、人間力。それはイーストウッドのフィルモグラフィーにも重なって見える。50代の頃に一度主演のオファーがあった脚本だったと聞く。当時の自分にはまだ早いと断ったが、よりによって90歳を超えてその役を演ずるとは。

安らぎを感じるラストシーンにホッとする。人生の終わりが近づく中であんなふうに寄り添える人が現れるって素敵だ。

僕には男として憧れる伯父がいる。70代で再婚し、周りの人々の面倒まで看た。健康でボケてもせず、けっこうな年齢まで車を乗り回し、最期まで趣味を満喫し、人を楽しませ自分も楽しんでいた。90代で先日亡くなったのだが、借金も財産もきれいに残さなかった。見習いたいと思っている方だ。そんな気持ちがあったから「クライ・マッチョ」の老人が僕にはやたらカッコよく見えたのかもしれないな。




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キャメラを止めるな!

2022-12-04 | 映画(か行)

◼️「キャメラを止めるな!/Final Cut」(2022年・フランス)

監督=ミシェル・アザナヴィシウス
主演=ロマン・デュリス ベレニス・ベジョ グレゴリー・ガドポワ フィナガン・オールドフィールド

ミシェル・アザナヴィシウス監督は、これまで「アーティスト」「グッバイ・ゴダール!」と映画への愛を示してくれた。特に「アーティスト」はサイレント+モノクロで撮られ、クラシックへのリスペクトあふれる秀作だった。あの年はハリウッド誕生125周年のメモリアルイヤー。なのに肝心のアメリカでは、相変わらずアメコミヒーローを共演させて騒いでいるだけ。そんな年に「アーティスト」をぶつけてきたアザナヴィシウス監督。こいつは過去の映画人に並々ならぬ敬意をもってる人物に違いない。そう思ったものだ。

そんなアザナヴィシウス監督が選んだのは、あの「カメラを止めるな!」のリメイク。フランス人はアニメにお相撲と日本文化好きだしねー、ヒットした日本のゾンビ映画をやってみたかったんでしょ、と思うかもしれない。でもよりによってアザナヴィシウス監督だぞ。30分余ノーカットでゾンビ映画を撮る人々のドラマ(ネタバレ?もういいよねw)に、彼は映画に携わる人々への共感と敬意を感じたからに他ならない。そこに"愛"があるんよ(あのCMの大地真央風に読んでください)。

お話はオリジナルの通り。というか、フランスで日本版のリメイクを撮らせるお話。きっちり続編になっている。日本人プロデューサー(どんぐりさん🤣)の意向で、役名までオリジナル通りw。ケン、チナツ、ヒグラシ、ホソダと名前が飛び交う違和感がおかしい。日本語吹替版で観たのだが、オリジナルで聞く度にイラっ💢とした「よろしくデース」がなかったのはとっても嬉しいw。

監督役がロマン・デュリスというのがナイス。「タイピスト!」や「彼は秘密の女ともだち」など、窮地に立たされながらも愛と善意に支えられて乗り切ってきた彼を、僕ら映画ファンは観てきた。今回もまさにそんな役柄。娘との関係にほんのり感動。

俯瞰ショットを撮るラストシーンは、オリジナルにあった緊迫感とは違って、ほっこりした優しさを感じる。フランス映画の伝統は人間模様だもんね。オリジナルとは比べられないけれど、これはこれで良作。その根底あるのは映画を愛して止まない心。





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婚約者の友人

2022-10-12 | 映画(か行)





◼️「婚約者の友人/Frantz」(2016年・ドイツ=フランス)

監督=フランソワ・オゾン
主演=ピエール・ニネ パウラ・ベーア エルンスト・ストッツナー マリエ・グルーバー

フランソワ・オゾン監督がエルンスト・ルビッチ監督のクラシック「私の殺した男」をリメイクした作品。僕はオリジナルを先に観たのだが、オリジナルにある場面、台詞をより深く掘り下げて再構築したオゾン監督のセンスに圧倒される。後半はそう来たかっ!と切ない物語にしんみりしながらも、次に何がくるのかワクワクしている自分がディスプレイの前にいる。これは映画館で没頭して観たかったかも。

第一次世界大戦の独仏戦で息子を失った老夫婦と息子の許嫁アンナ。彼女たちが住む町にフランス人の男性アドリアンがやって来る。彼は戦争で亡くなったフランツの墓に花を手向ける。フランツの母とアンナは彼を呼び出し、フランツとの関係を問いただすと、彼は友人だと答えた。息子を殺したフランス人だと嫌っていた父も彼を受け入れ、アンナも次第に好意を感じ始めていた。しかし周囲の反応は冷たい。そんな中、アドリアンはアンナに本当のことを話したい、と告げる。その真実とは。

オリジナルは彼が何のためにドイツを訪れたかは映画冒頭で明確に示される。彼の葛藤と、帰還兵の悲しみと苦しみ、そして彼がついた「嘘」を彼女がどう受け止めて「許し」を与えるか否かが描かれる。1930年代という製作時期を考えると、戦後の心の問題をここまで掘り下げていることに驚かされる秀作だ。

オゾン監督版は彼がドイツを訪れた理由をひた隠しに隠す。それ故にこの映画の宣伝や触れ込みは"ミステリー仕立て"めいたものになっていた。友人だと名乗った彼の話で家族とアンナが思い浮かべる情景は、彼とフランツが美術館を楽しんだり、バイオリンを奏でる姿。オゾン作品をあれこれ観ていると、あぁ、BL話に行っちゃうのかな…と早合点してしまうかも。問題は彼が真実を告白してからだ。アンナはそれを受け入れない。オリジナルでも簡単に受け入れて「許し」に繋がった訳ではないけれど、オゾン版はそこから先に彼女がつき続ける「嘘」に着目して、そこに切り込んでいくのだ。

映画後半は、「許し」の気持ちを込めた彼への手紙の返事が、アンナの元に返送されてしまうところから始まる。ここから先はオリジナルには登場しない展開だ。アンナはアドリアンを探すために一人パリへと旅立つ。きっと幸せになってくれると信じて送り出す老夫婦。紆余曲折を経て二人は再会するが、そこには感情を強く揺さぶる新たな展開が待っている。

前後半の対比も見事。後半はフランス国内でのドイツ人への感情が露骨に示される。フランツの父が口にする台詞はオリジナルにも出てくる。
「息子が死んでビールを飲む。フランス人は息子が死んでワインを飲む。若者たちに武器を持たせたのは誰だ?俺たち大人じゃないか。」
心を揺さぶる名言で戦争を端的に言い表している。フランス側が描かれることで、反感だけをむき出しにする戦後の状況が悲しく感じられる。そして、勧められる結婚という対比も。

この物語のフランス人男性は、真実を告げて「許し」を得たい。近づく為に「嘘」をついただけ。しかしオゾン版の女性アンナは、後半「嘘」をつき続けることになる。両親のように慕うフランツの父母を気付けたくない一心からアドリアンの真実を告げない「嘘」。それはオリジナルの彼女もそれを選んだ。しかし、アンナはさらに自分の気持ちにも「嘘」をつき続けることになる。

「"許す"と伝えるために来てくれたのに」
とアドリアンは言う。でもアンナの気持ちはそれだけではない。そこをアドリアンの家族に見透かされたアンナは、「彼を困らせないで」と言われる。「困らせているのはフランツです」と答える。それは確かに真実。でもそれは「嘘」。神父に告白するシーンがオリジナルとは違う使われ方をしていることに驚くし、「嘘」が彼女にとってどれだけの重荷になっているのかが伝わる。オリジナルへのリスペクトを感じさせる見事な改変だ。

パートカラーになっている構成は、幸福と感じられる場面に色彩がつけられているのではなかろうか。「初恋のきた道」が、愛する人がいたカラーの過去と、いないモノクロの現在に分けたのと同様の表現かと。

あの絵を見つめるラストシーン。
「生きる希望がわきます」
その言葉の真意はうまく言葉にできないけれど、きっとアンナの言葉に「嘘」はない。だって、その場面には色彩が添えられていたのだから。




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気狂いピエロ

2022-10-01 | 映画(か行)

◼️「気狂いピエロ/Pierrot Le Fou」(1965年・フランス)

監督=ジャン・リュック・ゴダール
主演=ジャン・ポール・ベルモンド アンナ・カリーナ

2022年9月13日の夕刻。ゴダールが亡くなったとのニュースがあるぞ、と携帯に通知が届いた。あまたの映画監督がいる中で、わざわざ携帯が教えてくれるくらいだ。映画界への影響の大きさは計り知れない。誰かの死に際して何かコメントするのは決して好きではないのだけれど、それを契機に亡くなった映画人の作品に触れるのは、これまでの映画生活の中で幾度もやってきたことだ。アイコンにゴダールの「男性・女性」を使ってる僕だから、そろそろ何か言わなくちゃ。

「映画ファンあるある」だけど、世間が評価している映画が自分にはピンとこなかった時、これが面白いor良い映画だと思えない自分は大丈夫?と一度は思ったことがあるのではなかろうか。僕にとってその経験はゴダールだった。

初めて観たのは多くの方々が絶賛する「勝手にしやがれ」。
はぁ(深呼吸)、正直言います。
😖大っ嫌い!
ズタズタの編集と細切れの音楽に気分が悪くなり、なんかカッコいいこと言ってるんだけど、もう気持ちが盛り上がらないから何がなんだかわからない。もう二度と観たくない!と「スターシップ・トゥルーパーズ」並に毛嫌い(虫嫌いなんです)して、それ以来ウン十年封印。新作なら大丈夫かも、と仕事帰りにレイトショーで「右側に気をつけろ」を観たけれど、やっぱり良さが理解できなくて。翌日仕事だっちゅうのにオレは一体何をやっているのか、と悲しい気持ちしかなかった。

それを打ち崩したのは、アンナ・カリーナが出演するゴダール作品だった。
「女は女である」
あっ楽しい♪
ちゃんと音楽が流れている(爆)
アルファヴィル
特撮がないのにクールなSF♪
台詞を深読みすると面白い(気がするw)
女と男のいる舗道
ゴダール作品でいちばん好き♡
アンナをただひたすら眺めていたい

そして「気狂いピエロ」にたどり着いた。初見は1996年5月。WOWOWが邦題の表現に配慮して、原題の「ピエロ・ル・フ」のタイトルで放送した録画を観た。その場で理解できるかどうかは抜きにして、あるがままにまずは映画を受け止めて、自分なりに何がいいのか何が気に食わないのかを考える。そこにちゃんと向き合えたのは、このゴダール作品を観たことからだ。でもそれこそが"鑑賞"。音楽の授業でモーツァルトの「魔笛」かなんか聴いて、「どんな場面が浮かびましたか?」と考えたのと同じ。

「気狂いピエロ」は女に振り回されるフェルディナンの姿を追い続ける映画。退屈な日常から逃げ出したかった彼は、再会した昔の恋人マリアンヌと一夜を過ごすが、そこから何者かに狙われて二人の逃避行が始まる。されど緊張感はまるでなくって、南フランスでバカンス気分でくつろいだり、ノートに詩を書いたり。しかし追手は確実に迫りフェルディナンも危機に陥る。その裏には…。

「気狂いピエロ」は裏切りのドラマ。マリアンヌに"ピエロ"と呼ばれてフェルディナンだと毎回訂正するのだけど、彼女にとって彼は自分を楽しませる道化師だった。でもストーリーが特別面白い訳じゃない。むしろ筋書きなんて二の次でよい。この映画の魅力は強烈な色彩。顔に塗りたくる青いペンキ、巻き付けるダイナマイトの黄色と赤。ベルモンドの真っ赤なシャツ、カリーナや彼女の兄役が着るフレンチボーダー、島に渡る小舟の派手な塗装、ところどころに挟まるネオンサイン、サインペンの文字。とにかく絵になる。気に入ったアートを眺めているように心地よい。

そして散文のように散りばめられた映像と言葉の余韻と響きを楽しむこと。"なんかカッコいいこと言ってる"は確かに訳がわからないけれど、ところどころにハートに残る言葉がある。それを"ええやん"と思えたらそれでいいと思うのだ。

言葉をきちんと扱える人ってカッコいい。昔からある粋な言い回しを知っていたり、時には政治用語を皮肉ったり、文学や芝居や映画の言葉を上手に引用できる人は素敵だ。ゴダールの引用は難しいけれど、すべてを理解できなくていい。こんな事を言うと熱心なゴダール好きから、ファッションで映画を観るんじゃねぇと怒られそうだけど、映画の観方なんて人それぞれ。難解なゴダールだけどなんか雰囲気が好きって軽いノリでもアリだと思うのだ。いちばん怒るのはゴダールかもしれないけどw。今なら「勝手にしやがれ」に向き合えるかな。

(ラストの会話)
やっと見つけた
何を?
永遠

自分で選んだ死。ゴダールは永遠を見つけたのだろか。



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昨日・今日・明日

2022-09-10 | 映画(か行)

◼️「昨日・今日・明日/Ieri Oggi Domani」(1963年・イタリア)

監督=ヴィットリオ・デ・シーカ
主演=ソフィア・ローレン マルチェロ・マストロヤンニ ジョヴァンニ・ルドルフィ

父親の机の引き出しから、父が若い頃に観た映画チラシや半券が出てきた(詳しくは「ローマの休日」レビュー参照)。そうした物証(笑)と日頃の言動で、映画スターの好みがなんとなくわかってきた。「ローマの休日」の上映日に赤鉛筆で丸つけて、八千草薫が好きとか言うから、(母と似た)スレンダー好みだとずっと思っていたのだが、どうも父のミューズはソフィア・ローレンなのではないかと疑っている。僕も松本零士の描くスレンダーな女性に惹かれていたくせに、ミューズと公言するのはソフィー・マルソー。男って矛盾を抱える生き物なのだろか💦

ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニ共演のオムニバス艶笑コメディ「昨日・今日・明日」。ずっと気になっていたのだが、今回初めて鑑賞。第1話では、闇タバコを売って失業中の夫と家族を養っているタフな女性を演じている。彼女には不払いの罰金があり、差押えされる前に家財を隠したものだからついに逮捕されることに。イタリアの法律では妊婦と産後6ヶ月の女性は逮捕されない。彼女はこの法律を盾に次々に子供を産み、逮捕を逃れるというお話。夫は毎年増える子供の世話でどんどん疲弊していき、実家の母親に泣きつく。その一方でどんどん美しくなる妻。隣近所の人々とのつながりが観ていて心地よい。とにかく明るく楽しいコメディ。

第2話は社長夫人。ロールスロイスのオープンカーで不倫相手のマストロヤンニとドライブするのだが、その行く先で起こった騒動を描く。貧困家庭の第1話とはガラリと違う毛皮をまとったゴージャスな社長夫人。渋くキメていたつもりのマストロヤンニが、いざトラブルになって役に立たない。それを思いっきり罵る。

甲斐よしひろはかつて「1世紀前のセックスシンボル」という曲で、歌詞のヒロインを
♪ソフィア・ローレン、ラクウェル・ウェルチに負けやしない
♪バストにはエナジー詰まってる
と歌った。なるほど。そこで比較の対象となるソフィア・ローレンの神々しさ。なんかわかってきた気がする。何せ僕ら世代は「ひまわり」の耐える女くらいしか知らないから。

その男目線で感じる"神々しさ"がいかんなく発揮されたのが第3話。ソフィア・ローレンが演ずるのはコールガールのマーラ。隣りに住む老夫婦の元に神学生の孫ウンベルトがやって来た。お年頃の彼は、お色気ムンムン(死語?)な隣のお姉さんに夢中になってしまう。孫に近づくなと怒るおばあちゃん。ウンベルトはいかにもイタリアの伊達男なスーツ姿で背伸びして現れる。しかし神学校に戻るようにマーラに言われて自暴自棄に。われらがマルチェロは、ずーっとおあずけを喰らう馴染みの男性役。マーラに振り回されているのか、勝手に騒いでいるのか、とにかく落ち着きのないダメ男で笑わせてくれる。僕ら世代にとってマルチェロ・マストロヤンニは、子供の頃に男性化粧品VALCANのCMで見てた渋いイメージ(同世代にしかわかんない?w)が強いから、ストッキングを脱ぐマーラを見てキャーキャーはしゃいでるエロ親父ぶりが面白くて仕方ない。

第3話のヒロインは、男性を虜にするのみならず、少年の憧れでもあり、老婦人から最後は人柄で認められる魅力をもつ女性。スタイルや美貌だけじゃないのだ。3話を通じてソフィア・ローレンの魅力満載の映画だ。これは、わが親父殿も含めて特に男性は夢中になるだろうし、女性にとってもこのバイタリティと美しさは憧れてしまうかも。

「河の女」もよかった、と親父殿は具体的にタイトルを挙げる。改めて親父の机から出てきたチラシを見ると、おお、アンソニー・パーキンスとの共演作があるぞ。タイトルは「楡の木陰の欲望」…聞くだけで悶々としてきそうなタイトルw。



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キングダム2 遥かなる大地へ

2022-08-21 | 映画(か行)


◼️「キングダム2 遥かなる大地へ」(2022年・日本)

監督=佐藤信介
主演=山崎賢人 吉沢亮 橋本環奈 清野菜名

前作もなかなかの出来だったが、第2作はダイナミックなアクションが楽しめる娯楽作となっていた。1作目の時は、山崎賢人くんの喋りが今どきヤンキーにしか聞こえなくて、今ひとつ乗り切れないところもあった。どうも慣れてきたのか(笑)、2作目で王の危機を救いに現れた時は妙な安心感がw。

今回は魏の侵攻に後手に回った秦軍が、既に占領されている丘の陣を奪うべく無謀とも思える攻撃をしかける戦場を描く。ちょっとくどい?と思えるくらいに丁寧な戦況の説明もあり、どのくらい秦軍が窮地に立っているのかが誰にもわかりやすい。それだけにその状況を覆さんと戦い続ける信たちの活躍から目が離せない。

2作目の主軸となるのは信を中心とした成長物語だ。誰よりも強くなって武功をあげると躍起になっている信が、戦場でいかにして戦うのかを知恵として学び、また将としていかに戦を動かすのかを個性的な上官や将軍たちから学んでいく様子が面白い。特に暗殺を学んで育つ一族の娘との出会いは重要な意味を持つ。そして見せ場が二重三重に畳み掛けてくる。

佐藤信介監督作は「図書館戦争」もそうだが、派手な見せ場がありながらも、個である主人公の成長物語と、公である政治的なストーリーの展開のバランスがいい。「キングダム」という題材に出会ったことでその手腕とスタイルの進化が楽しみだ。コロナ禍で大勢のエキストラを使うことも中国でのロケもできない中、大群衆シーンはCGによる合成で完成させたと聞く。僕は違和感なくすんなり映画に入り込めた。

役者陣も個性的なメンバーが原作のイメージを壊さずにいい仕事をしている。今回も大沢たかお演ずる王騎将軍、いいところで登場。アニメ版に寄せたあの喋りで信に語りかける貫禄。復讐に燃える娘を演ずる清野菜名の思い詰めた眼差し。弱々しい伍長には、「カメラを止めるな!」監督役の濱津隆之が好演。来年の続編が楽しみ。

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