◼️「トゥルーマン・ショー/The Trueman Show」(1998年・アメリカ)
監督=ピーター・ウィアー
主演=ジム・キャリー エド・ハリス ローラ・リニー ノア・エメリッヒ
ピーター・ウィアー監督は、異文化や異なる価値観が出会うことをテーマにしている方だと思う。少数民族だったり、異国人だったり、独特な先生だったり。そこで生まれるミラクルがこれまでも様々な感動を生んできた。じゃあ、「トゥルーマン・ショー」はどうなのか。
主人公トゥルーマンは、出生から成長、大人になった日々の生活を毎日ライブで放送され続けている人物だ。その型破りな番組企画は、視聴者の覗き見趣味をかき立てたのか全世界で日々視聴、いやモニターされている。本人はその事実を知らない。見世物になっているだけなのだ。プライバシーがないだけではなく、人生に勝手に干渉されて舞台となる島から出ることもできない。感動的な出来事が演出されたり、恋だってお膳立ての出会い。
何だこりゃ。番組製作者は何様だと思ってやがる。胸くそ悪い話だなと思い始めたら、トゥルーマンの日々に"共演"した一人の女性が真実を告げようとする。しかし制作陣に阻止されてしまう。トゥルーマンがイレギュラーな行動をした際にだんだんと見える世界のほころび。外の世界には人権という感覚すらないのか。番組プロデューサーは神にでもなったつもりなのか。そもそも視聴者はどんな気持ちでトゥルーマンの日々を見つめているのだろう。
そして事態が動く。結末は僕の予想を超えた。それは視聴者の反応だ。製作者が創り出した"世界"から外への出口に立ったトゥルーマン。彼が出ていけば、製作者は世界的人気者と番組を失うことになる。そこで主人公が最高のユーモアを交えたいつもの挨拶で答えるラスト。感動的だ。そう、誰がどう思おうと、これは彼の1日でしかないのだから。
そして視聴者が岐路に立つトゥルーマンの選択を喜び讃える。それは決して製作者側に乗せられているからじゃない。年配の視聴者は彼が生まれてから成長を見守ってきたし、世代が違ってもいろんな思いを抱えて過ごす毎日を共有してきた。トゥルーマンはもはや全世界の人々にとって"家族"だったのかもしれない。その後、この番組に依存してきた世界がどう変わったかは分からないし、トゥルーマンがこの先どうなったのかはわからない。でも一人の男性が一歩を踏み出して、世界が声援を送ったのは確かなことだ。
マスコミの思い上がりや、放送をただ鵜呑みにしてしまう視聴者を皮肉るテーマだとは思う。だけどウィアー監督が貫いている(と僕が勝手に思っている)"異なる価値観"という目線で考えるなら、この映画では、作り物の世界と遭遇する主人公がそうだし、作り手と受け手の違いなのかもしれないな、と考えた。多少強引かもしんないけどw。
ただ、この映画の公開当時よりも今は状況が変わっている。番組が作り手から受け手への一方通行ではなくて、いち個人が自ら動画配信して交流すら生まれている時代だ。また、現実はこの映画と同じように(防犯)カメラだらけの街に既になっている。小規模ならこの映画のようなこと出来そうな気すらする。怖いことだ。でも、変わって欲しくないのは視聴者の受け止め方。多くの人に親しまれた人気番組が終わるたびに"××ロス"なんて言葉が飛び交う。それはただ番組を受動してるじゃなくて、共感できる存在を僕らはモニターの中に探していることでもある。その気持ちだけはせめて変わらずに。