改訂版 : インナーチャイルドの語りかける言葉もむなしく? 2015年 4.29
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前置き)
私事の話で、皆様のお時間を取っている。
自分の中のインナーチャイルドと呼ばれる純粋な部分と
現在意識の中の恐れの表出との葛藤・・真理と宇宙意識に
つながる超越的直観で、自分の主軸を保っていたが、
その葛藤が大きくなって、バランスが崩れ、自分がバラバラ
に切り裂かれたような奇妙な不安定感を、母の全面的介護
を通じて味わった。
そしてそれがとても苦しかった~と正直に申し上げたい。
ところで、そのアンバランスは、どこから生まれてきて
いるのだろう?
大腿骨骨折で、ボルトをいれる手術の入院中 母は、
血圧の薬と精神安定剤を与えられていました。
安定剤を飲んでいても、興奮すると、暴れて、車椅子を
ひっくり返すほどの力で ”帰りたい!” と喚き散らす
興奮状態に辟易している話を、ナースから指摘されました。
”安定剤 取ってもらっていますけど、彦田さんには
効果ないようで・・
そんなのに、家に連れて帰って大丈夫ですか?”
と看護婦長のMさんが心配そうに私の顔を見て聞く。
”安定剤を取らなくても、愛情剤 と 安心剤 を上げれば、
自然と症状はなくなります”と 私(の中のアートマ意識)
は心で呟いていました。
先にも書きましたが、2月初旬、母は胸骨を折っています。
その時は、昼間のケア施設で転倒した際、脳卒中または、
脳梗塞がおきたようです。
よだれが出て、左右の手の所作の不均衡、ストローも唇半分が
軽く麻痺しているので うまく吸えず、飲んだものがこぼれ、
顔面もゆがんでいました。
当時の母を見た、何人かのケアにかかわる方達からも、、
”軽い脳梗塞ではないですか?”
と、指摘されました。
胸骨を折っただけなのに、体の下半身に、神経がゆき
わたっていません。
脚はふらつき、腰がたちませんでした。
当時(肋骨を折った際)、母を自宅に連れて帰って介護を
していましたが、母は歩きたい一心で いざって 部屋を
移動しながら、次第に、つたい歩きをこころみ、3月中旬
まで(私がインド行を決意する頃まで)には、三階までの
階段を何とか登れるようになっていました。
この体験は、母の自然治癒力と 母の歩きたいという意思の
が身体能力発揮を発揮させる力を、証明してくれていましたから、
今回の、大腿骨手術後も自宅に引き取り介護を続ける自信は
ありました。
看護婦長が心配しているような、”寝たきりになる”ということは
あまり、考えられなかったのです。
”ほんとうに大丈夫ですね。でもよかった。
最後は’やっぱり 見れません’という家族の人も、多々いますので、
心変わりするかと思っていました。”
と看護婦長のMさんは、私が母を自宅で介護するという決心が
固いので、安心したように笑顔になりました。
こうして退院できたものの、退院後 それなりの問題が浮上。
人は、アートマ意識を自分の本領として持っていますが、
普段は現在意識が主体になっていますから、母の認知スイッチ
がはいると、心身ともに乱れる母に、こちらも対応が難しい
ときが多々ありました。
介護に疲れてくると、”糞(くそ)”!と舌打ちしたことが何度
あったことでしょう。
一方、子供のころから母に対して変わらない、私の天使の
ような純粋な部分が、そんな悪態をつく”私”に、何かを常に
囁き続けてました。
その声は、 母を”見捨てる”ことができるはずはない
と囁くのです。
そのインナーチャイルドの声は、赤子の時、母乳を含ませて
くれた母はマリア様のように愛深かったということを、
思い出させるのです。
母と真正面から向き合って、やっと、そのことを、”今の私”も、
確認できたようです。
その純粋意識を、行動にすぐ結びつけるためには、こびりついて
しまった錆(さび)やホコリのような、過去のマイナスの記憶を
丹念に 放ち去っていくという作業が必要でした。
その作業に不可欠なものが、愛 であるということを、
アートマ意識が教えてくれていましたが、
’想い’と’現実’と’行動’には、まだまだ大きな隔たりがあり、
混乱する毎日でした。
’現在意識の声’は、呟きます
~母の介護で24時間拘束されて、これまでのような自由な
時間がとられてしまう、
しかも、夜は眠れない緊張感でヘトヘトになりながら
”いつまでこれが続くのだろう?” という不安感を抱きながらの
介護生活はもうゴメンだ!。
体的にも限界だ!~と。
すると、また、別の声が聞こえる~インナーチャイルド
の声でしょう。
”あのやさしい関係に戻れる” あの頃の優しい関係を
取り戻そうよ!!
次に、心の奥中の、’アートマ意識の声’といえば次のよう
に言います~
”神は人ができない困難はあたえない”
”カルマが残っているから母との今回の関係が生まれている”
”愛の力がキーワード”
しかし、バランスを失った心は、感情の爆発が時には
起きるものです。
母が退院後わずか4日目のこと・・・
主人は自宅と私の実家の往復をしながら 晩御飯からはともに
母と私に寄り添ってくれていました。
前にも書いたように 主人の、情緒不安定の母に対する
緊張感は 彼が一人で母と対峙していた、私の留守中の出来事が、
トラウマとなって、彼の不眠症は続いていました。
夫も”不眠症になる緊張感はもうこりごり、避けたい”と
いう想いが益々強まっていたのでした。
不思議なことに認知症になった母は、こちらの怒りや恐怖、
というマイナス想念の波動を機敏に察知する力は持って
いました。
類は類を呼ぶ、同じ波動の周波数は同じ波動の音に共鳴する。
私たちが不安定になり、母を施設にいつお願いしようか?と
相談していると、母はますます、不穏になり、デーケア―施設
でも落ち着かず、”帰りたい、家に返して”を連発するように
なったと言います。
デーケアから帰宅。夕方から夜。
深夜、にかけて、母の認知症のスイッチはOnになります。
常に、いつか、私たちと離れるという不安があり、その不安が
次の不安を呼ぶのでしょう。
いろいろな変化球を投げてきて、自分に注意を向けさせるよう
になってきました。
ですから、これは悪循環でもあるのです。
そうされれば、こちらも余計に緊張する。
ちょっとした母の気配、言葉や行動に敏感になっているため、
小さな気配でも、とび起きてしまうのです。
母が呟きます。(といっても私たちに聞こえるほどの大きな声で)
”布団がかかっていなくて寒い!”
”喉が渇いたからなんか頂戴!”
”トイレに行きたいけど足が立たない!”
”どこにいるの?!”
”寝苦しい!眠れない!テレビ消して!”
”おなかすいたから、味噌汁飲みたい!”
”もう施設に 入ってもらう時期が来たのだと思う”
退院後 4日目に、主人は私に断言しました。
夜の不眠と緊張が高まって、私も夫も 母をデーケアに送り
出した後も、イライラが沸騰点に達していました。
このような状況では、私たちの間にも 摩擦が生じてきそうな
気配でした。
自分の健康状態を見たとき、気が付きました。
体は痩せたこと以外に足の指がほとんどすべて黒く、
うっ血して、本来の桜色が、どんよりした薄紫色に
変わっていました。
不整脈が続き、寝苦しく、息苦しい夜が続きました。
でも、認知症とはいえ、母を手元から手放す勇気と決断は、
なかなか、できません。
むしろ、そのような最終対処法を考えること自体が、
セラピストとして失格ではないかと、自己嫌悪に陥る
毎日でした。
続く~
優しいクライアントさんのケアーを受けて笑顔の母・・・
こんな母の笑顔を見ていたいとインナーチャイルドは
願ってます