自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

エミール大師が語る、宗教が造る迷信

2013年11月13日 | 健康と直結する”一元論”について

イエスとピラト:赦しと事実   平成25年11月13日

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 著者はしがきから

わたしは1894年に極東を訪れた

11人の調査団の一員であった。

3年半にわたる極東滞在中、

ヒマラヤの大師たちに接触した。

大師は私たちが 

偉大なる法則の働きを

実証されるのを実際に見るために、

大師がたの生活の中に親しく

入り込むことを許してくれた。

私のノートを今ここに、

“極東における、大師たちの生活と教え”

と題して、発表するが、そこに盛られた内容を

そのまま受け入れるか、否認するかは、

読者の自由である。

 

 

さらにイエスの霊は調査隊に語り続けた:

以下 本文より引用する。

 

”彼らが本当にあるがままの私を知るのなら

きっと、私と握手をしたくなるだろうし、また、することもできるのだ。

もしも、一切の迷信や信条を捨ててあるがままの私たちを知るのなら、

貴方たちのように我々(イエスの家族)と話しをすることもできよう。

 

私たちはいつでも、ご覧のとおりであって、再会、宴はなんと素晴らしい

ことだろう。

あなたたちは、私たちを長い間、神秘の枠でとして取り囲んできた。

だから、疑惑と不信とが支配するようになったのも無理はない。

 

貴方たちが 肖像や偶像を多く造れば作るほど、

そうして、私たち(イエスやマリアのこと)を死で取り囲み、

私たち自身以外の誰か(司祭や教会のこと)を通さなければ私たちに

近づけない仕組みにすればするほど、疑惑と陰影とは、いよいよ深く、

迷信という裂け目はいよいよ超えがたいものとなろう

 

もし、あなたたちが大胆に私たちと 握手して’私はあなたを知っていますよ’

とでも言えば、すべての人々があるがままの私たちを見て、

その通りであることを、知ることができる。

私たちは全世界を愛するがゆえに、私たちには何の神秘もない。

私たちの愛する人々もまた、然りである。

私の一生の中、十字架の上で終わった部分を見て、それ以上の大部分で

生きていた私を忘れているのが大方の人だ。

 

十字架の真実、人間は一見 激しい死に方をした後でさえも、

生き通しであるということを、まったく忘れてしまっている。

 

生命を破壊することはできない。

生命は永久に続くものであって、義をもって生きた生命は

決して退化することはない。

 

また、過ぎゆくものでもない。

肉体でさえ不死身とすることができ、決して変化することもなくなる。

愛するかの ピラト*1が 自分の手を洗って

’かの男(イエスのこと)を去らしめよ。

汝ら自らの手もて、彼を十字架につけよ。

我、彼に罪を見出さざればなり。’

と言ったが、その時、彼(ピラト)は、自分がどんな歴史をつくり

つつあるか、どんな予言を果たしつつあるかを、ほとんど知らなかった。

 

実はその時は私以上に彼と大衆の方が苦しんだのである。

しかし、私たち一同がこうして、同じこの場所に立っているように、

それはすべて過ぎ去ったことであり、忘れ去り、許されているのである。”

すると、二人の人物が出てきて、イエスの抱擁を受けた。

 

キリストはそのうちの一人の肩に手をやって、

次のように述べた:

’この愛する同胞は、わざわざ私と一緒にやってきてくれた。

それからこの人は(二人目の人をさしながら)真理の目が開かれるまでは、

その人よりもいろいろの道を歩んできたが、一旦、完全に目が開くと

すぐにやってきたのである。

 

彼はもう一人の兄弟と同じく真理に忠実であり

私たちは他のすべての人々に対すると同じように彼を愛している。”*2

 

それからもう一人がゆっくりと前に進み出て暫く立っていると、

イエスは手を差し伸べて”愛するピラトよ。”と言われた。

ピラトは キリストの霊に抱擁で挨拶を交わすと、口を開いて次のように語った。

それは、キリストを磔にかけるドラマの重要人物としての彼の胸中を

よく表している:

 

”あの日、軽々しくも、ああゆう、宣告をして、

肩の重荷を降ろしはしたものの、それからというものは、

私は長い年月を苦労し、懊悩しました。

我々は物質界に有る間は、自分の責任を転嫁しようとして、

不必要な重荷をどれだけ、他人に負わしていることか。

そしてそのことを悟る人が何と少ないことか・・

我々が自分の重荷を回避して、他人に転嫁しようとすればするほど、

重荷は強く我々にのしかかってくるものであると悟るのは、

我々の目が真理に開かれたときだけです。

 

私は長い間、苦労した後、初めてこの事実に対して目が覚めました。

しかし、目が覚めたその日からの喜びというものは、どんなに大きい

でしょう。“

 

すると、声なき聖歌隊が一斉に歌いだした。

そのメロディーは筆舌のよく、つくしうるものではない~と調査隊の報告書に

書かれている。 

不可視の聖歌隊の讃美歌が鳴り響き、

“おお、神の子、すべては汝をたたえる。彼を言祝ぎ、言祝ぎて彼を称えよ。

彼が報告は人の中にありて、永久につくることなし。見よ、神、常にともにあり“

と歌うのであった。

調査隊は次のように記している:

歌うにつれて、歌詞が部屋の壁に文字となって、浮き上がった

以上は 何も遥かなる霞のかかった、定かならざる情景ではなく、

また、私たちから遠く離れた舞台の上にしつらえられたものでもなく、

皆が皆、現実に室内にいたのである。

現に、私たちは彼らとともに、歩み握手し、その写真も写したのである。

彼らはまさしく、私たちの中に居り、私たちは彼らの周りにいるのである。

彼らと私たちとの間の違いとすれば、タダ、彼らの周りには特殊の光

あることで、この光が 部屋の明るい原因と思われた。

 

何処にも影がない。

彼らの肉体には一種特別な透明なものがあるように思われた。

というのは、彼らに触ったり、その手を握ったりすると

何かしら雲花石骨 の感じがするのである。

それでいて、温かい、親しみ深い輝きがあり、

その温かみは彼らの周囲のすべてに満ち満ちていた。

彼らが部屋から去って行っても、室内には依然として暖かみと光が残っていた。

その後も、私たちがその部屋に入ると、決まって誰かがその事実に気がつく

のであった

そのことがあって、しばらく後の或る日 私たちの一行が

この部屋に集ったことがある。

その前、みんながこの部屋からひしひしと受ける感じについて、

話し合っていると、隊長は私に‘何となく神々しい’と言ったものである。

 

彼のこの言葉は 皆の感じを代弁したようなもので、

全く、その一語に尽きるのであった。

その年の秋、私たちは再び、此処に戻ってきたが、その時も、私たち

とっては、この部屋が聖堂のように思われ、多くの時間をここで過ごした

ものである。

 

話は元に戻って、この方々が次々と部屋を辞去される間、

一同は残っていた。

ピラトは出ていきしなに、私たちの隊長に一緒に

来るようにと合図してくれたので、皆一緒に階段を下り、

裂け目の通路から下の方へ、一段一段降りて行って、

全員下に降り付いた。

 

それから、私たちの村の宿所まで歩いて行き、

そこで真夜中まで語り合った後、まるで、このような

集いなど当たり前でもあるかのように、いつのも

調子で皆散っていったものである。

 

この方々が帰って行かれると、私たちは女将の周りに集まり、

次々と彼女と握手をして、この夜の経験を感謝した。

“わたしの思っていることや、感じたことを精一杯言わして戴くのならば、

これまでの自分の狭い卑俗な考え方を完全に粉砕された~ということです。“

 

とは、一行のある男の言った言葉だが、これはたしかに

私たちの一同の共感をそそった。

私自身としては、自分の思いや感じを言い表して

みようとはしなかったし、亦、記録してみようともしなかった。

それは只、読者の想像に任せるのみである。”

 

イエスが亡くなった後、教会組織が造られ

イエスは磔の銅像になって、祭壇に祀られ畏怖され、現在にいたっている。

ここで、調査隊に語るイエスの霊によれば、

それこそが、皮肉にも、最大の迷信を創り上げる背景になっているのだ

という。

イエスはもっと身近に 真理として、道として

我々のそばにいるのだという、生身の愛をもった人間

のように、今も永遠の命をもって、活躍されている

ということを 強調しているかのようだ。

 

終わり・・・・

 

*1~心ならずもイエスを裁判したユダヤの提督

*2~イエスとともに磔形に処せられた時の二人の事と思われる

*3~十字架上で最後の息を引き取る時の御言葉

 

参考)

 ヒマラヤ聖者の生活研究―自由自在への道 全5巻

 S54年6月5日第五版 ベアード・T・スポールディング著 

仲里誠吉訳 霞が関書房

 

 

 

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