自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

悪も善なり・悪の意義

2013年07月22日 | 健康と直結する”一元論”について

 

 ひふみ神示第九帖  平成25年7月22日

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再び 以下、ひふみ神示の内容から抜粋)青文字が

原文よりの引用となります。

 

”霊・力・体の三つがよりよく調和する処に真実

があり、生命が滞りなく働く。

これは根源からの存在の、あり様(よう)

であるが、”動き弥栄する道程”において、具体的

にどのような形をとるかというと、複霊、複力、

複体 という三つの 動き をなす。

 

霊の立場よりすれば、霊は’善’であって、体は’悪’、

体の立場よりすれば、体は’善’であって、

霊は’悪’、あるいは、存在しないものとして

無視される立場にある。”(一二三神示)

 

ところが、賢者は言う。

悪あればこそ、善が善として救われ、そこに

悪の存在の意義があると。悪があるからこそ、

’弥栄’という考え方が存在する。 

善あればこそ、悪は悪の御用を為し得るので

ある。

 

”悪は悪善として、神の中に、善は善悪として、

神の中に栄える。力がそこに現れ、呼吸し、

脈うちて、生命する。 地上人は、地上物質界

のみの立場では悪なく、生命なく、生前界との

交流によって初めて悪善としての力に生き、

弥栄してゆく。

 

地上人は死後の世界に通じなければならぬ。

死後の世界との関連により、複数的善悪に

おかれる。善悪の立場におかれる場合が多い

ために、(人は)地上における司宰神として

の力を自ら与えられるのである。”(一二三神示)

 

人は善悪の世界におかれるから、自ら考えて、

何をなすべきかという判断力によって、自主的

決断による行動をとることができる。

 

”善悪の生かされ、御用の悪として、許されている

のは、かかる理由によるものである。

善のみにては、力として進展せず、無と同じこと

となり、悪のみにても、また、同様である。

 

ゆえに神は悪を除かんとはなし給わず、悪を悪

として正しく生かさんと為し給うのである。

なぜならば、悪もまた、神の音力の顕れの一面

なるが故である。悪を除いて善ばかりの世と

為さんとするは、地上的物質的方向、法則下に

総てを当てはめんとなす、限られたる科学的

平面的行為であって、その行為こそ、悪その

ものである。”(一二三神示)

 

神示を受けた、天明の啓示には、

”物質界にとって、体は善であって、霊は

悪である”という前提のもとに、悪と善を

ここで語っている。

 

”霊は悪”という言い回しはピンとこない方も

いるかもしれないが、物質界においては

現代の科学万能時代を背景として、

”霊という概念”は、想像もしくは非科学的

というレッテルを貼られるという意味で、

’悪’という強い表現をしているのだろうか。

 

”霊人のもつ、想念の本は、神であり、神の

もつ想念の本は大歓喜である。

ゆえに、地上人は霊人によって、すべての

行為の本をなし、霊人は神により、

神は大歓喜により、総ての行為の本となす。

 

ゆえに地上人そのもののみの行為なるもの

はない。いずれも、神よりの内流による、歓喜の

顕れであることを知らねばならぬ。

 

歓喜の内奥より、湧き出るものは、霊に属し、

外部より発するものは体に属する。

霊に属するものは常に上位に属し、体い属する

ものは、常に下位に属するのであるが

体的歓喜と霊的歓喜の軽重の差はない。

しかし、差のない立場に於いて、差を造り

ださなければ、力を生み出すことはできず、

弥栄はありえない。

 

 即ち善をつくり、力をうみだすところ

に悪の御用がある。動きがあるがゆえに、

反動があり、そこに力が生まれてくる”

(ひふみ神示)

 

’反動’こそ、”力”であるというのは興味深い。

地面との摩擦があるから、足を前に出して

前進する力になって、進むという肉体動作に、

それが喩えられるだろう。

 

”霊にのみ、傾いてもならぬが、強く動か

なければならない。体のみに傾いてもならぬ

が、強く力しなければならない。

悪があってもならぬが、悪が働かねばならない。”

(ひふみ神示)

 

悪が働く・・とは? 実際の悪として現象に

現れなくては、摩擦としての力になることは

できず、善が現象化する働きの助けに

ならないということだろう。

 

”常に、動き栄ゆく、大和の 〇を中心と

する上下、左右、前後に円をかき、中心に

、【点】を置いた立体的動きの中に呼吸

しなければならない。”(ひふみ神示)

 

ここで書かれている〇の中心に点を置いた

姿が、仏教でいうえところの、物の実相、

’空’ の存在形象と考えられる。つまり、

点の所が’空’であり、その点を持った〇の

形、点を中心とした拡がり、言い換えれば、

点の表現物が、色(しき)つまり、物質や

現象をさすのだろう

 

ここまでは ひふみ神示第17巻のジシン

の巻から引用した。昭和20年9月10日

から10月30日までの記録である。

さらに第28巻 時は経て、昭和27年

3月3日から8日までに書かれた夏の巻を

見てみると、 今日挙げたブログの内容を

もっと簡潔にまとめた神示が載せられて

いる。

 

第七帖]

神も人間も同じであると申してあろう。

同じであるが違うと申してあろう。

それは、大神の中に神を生み、神の中に

人民をうんだためぞ。 

自分の中に、自分新しく生むときは、

自分と同じカタのものを生む。

 

第24帖]

すべて世の中の出来事はそれ相当に意義あるぞ。

意義ないものは、在存許されん。

それを人間心で、邪と見、悪と感ずるから、

狭い低い立場でいるから、いつまでたっても、

堂々巡り。 

それを毒とするか、薬とするかは各々の立場

により、考え方や処理方法や、いろいろの運び方に

よって知るのであるから心せねばならんぞ。

今 に 一生懸命になりてくだされよ。

 

 参考書(引用文)

 ”ひふみ神示” 2011年 岡本天明著 

太陽出版 

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岡本天明氏について

1897年(明治30年)12月4日 - 1963年(昭和38年)4月7日

画家神道家、また、神典研究家である。

岡山県倉敷市玉島出身。

本名は信之、天明は「雅号」である。

信之は1944年(昭和19年)に千葉県印旛郡

公津村台方(現・成田市台方)の麻賀多神社

末社である天之日津久神社を参拝する。

その直後、同神社の社務所で

日月神示』(別名:『ひふみ神示』、

一二三神示』)を自動書記する。

 

この自動書記現象は約17年間にわたって続き後に

全39巻(本巻38巻、補巻1巻)にまとめられた。

なお書かれた文体は漢数字とカナ文字と記号

などからなり、書記した 天明自身、

当初はまったく読めなかったといわれる。

(以上 ウィキぺディアより抜粋)

 

 

 

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