自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

松下幸之助氏(2)

2013年12月01日 | 廻りまわって”心の浄化”につながるかも・・・

 アンパンマンの由来と松下氏の決意        平成25年12月1日

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アンパンマンの生みの親 やなせたかし(漫画)画伯が

この秋、他界された。

アンパンマンは 自分の身を食べさせてでも

救うという 新しい自己犠牲型ヒーローだった。

アンパンマンが誕生するきっかけは、

戦争の食糧が過度に不足していた体験だと、インタヴュー

でヤナセ氏は答えている。

食糧が極度に不足していた時代、

ひもじい人には食糧を与えることが

最重要だと 自らの体験から 感じ入ったことが

原点になっているという。

そういう意味で、自分を犠牲にしても アンパンマンは

一人でも ひもじさで苦しむ人を助けるのだという

優しく強い気持ちのヒーローだった。

物質的に必要な物が享受できる、平和な

世の中を目指して生まれたヒーローでもあった。

 

松下電器の創始者、松下幸之助氏も 

PHP誌を刊行した。

そのの立ち上げの背後にある、松下氏の信念も

アンパンマンと共通しているものがあった。

それは、ともに、繁栄し、物質的に

豊かな社会への供給源として会社が尽力することが 

ある意味で使命と思っておられたからだ。

                 

昨日からの続きであるが、松下氏は、新しい小さな

しかし、自分の夢を達成する第一歩になる工場を

立ち上げる。

ソケット製造工場であった。

 

ソケットの製造に着手しようとしたが、

先立つ資金が無い。

当時 松下氏の財産は、退職金33円20銭、

会社の積立金42円、貯金20円、

合計100円足らず。

そこで、友人知人から100円借りて、

自宅の平屋の2畳と4畳半の半分を

土間にして、工場とし、寝るところもまともに無い

狭いスペースで、ソケットの製造に入った。

 

四苦八苦して、大正6年10月初めての

少数のソケットが出来上がる。

売り込みたくても売り先がわからない。

行き当たりばったりで、電気やに掛け合ってみる。

しかし、注文は取れなかった。

“10日間 大阪市内を駆けずり回り、

やっと、100個ほど売れ、10円足らずの

売り上げを得ただけであった。

しかもこのソケットは各方面でまず、

タダ という意見であった。

4か月かかって、10円の売り上げ。

さらに、今後改良の研究を続けねばならない”

となると、関係者が不安がるのは

もっともである。

 

‘一応見切りをつけて、各自がまず、自活の

道を求めよう’と言いだした。

結局、人を犠牲に強いるわけにはいかず、

私と井植だけがこの仕事に残ることになった。 

もっとも、この間は全く困り切って、私も家内も着物は

全部質屋に入れる始末だった。“

 

最後まで残った井植氏は、松下氏の奥様の弟で、

其の後、三洋電機株式会社の社長になる人である。

しかし、幸運が訪れた。

12月に入り、在る電気商会から思いがけない注文

が飛び込む。

扇風機のがい盤、1千枚の注文だ。

今までの陶器がい盤を練り物に変えてみようと、

ある扇風機メーカーが電気商会に注文してきたものの

請けとしての話だった。

 

懸命に造った見本が合格して、この注文製品を

作り上げることで80円の初めての利益を計上できた。

 

“ソケットは失敗したが、

がい盤の注文が続いて得られたので、

業は細々ながら続けられ、翌年(大正7年)

本格的に電気器具の工夫、制作をしたいと

市内大関町に16円50銭の家を借りて

住むことになった。“

 

こうして、順調に制作は進められ、

アタッチメント・プラグが当たり、

2灯用差し込みブラグが成功する。

 

大正11年には町工場として70坪の敷地に建設。

東京にも進出。

自転車ランプの製造、販売。

昭和時代に入り電熱部門。アイロン製造。

角型ランプ製造。

などの商品で松下電気の基礎が出来上がっていくのだが、

不況時代を迎える。

松下氏はこのときを回想して

わたしにはこれがいろいろの面でかえって、

プラスになった”

と書いている。

                    

昭和2年、銀行パニックで企業は被害を受ける。

当時15銀行を取引銀行としていた松下電機は、

15銀行支払停止”の新聞見出しを見て、打撃を受ける。

しかし、これを契機に住友銀行と結ばれる機縁になったという。

 

昭和4年末には、政府の引き締め政策により、

在庫を倉庫に入りきらないほど抱え込む事態になったが、

“生産は即日半減するが、従業員は一人も減らさない”

という信念で“工場は半日勤務”とした。

しかし従業員には日給の全額を支給する。

”その代わり全員で休日も廃止して、ストック品の販売に

努力する

と持久戦を開始、

 

世の中の動向を見据えながら、全員一致で販売に努力した。

“その結果、恐ろしいことに、わずか、2か月のうちに

在庫は全部売りつくしてしまい、

再び工場の稼働を旧に復することができた“

と回想している。

 

ラジオ界への進出、乾電池の直営、昭和5年ランプ生産、

と順調に事業が伸びていく中松下氏は一つの反省を持つ。

 

“このころの私には商売に対して、反省が湧いてきた。

今までの、世間通りの商売をやって、何とかうまく

いっていたが、次第にこれでは物足りないという

気持ちがでてきた。

一体、生産者の使命は何だろう?

こんなことを連日夜遅くまで考えた結果、

私なりに一つの信念が生まれた

 

それは簡単に言うと、この世の貧しさを克服すること

である。

社会主義者みたいなことをいうようだが、たとえば、

水道の水はもとより値のあるものだ。

しかし道端の水道を人が飲んでも誰も咎めない。

これは水が豊富だからだ。

 

結局生産者はこの世に物質を見たし、不自由を無くす

のが務めではないか?

こう気がついた私は、昭和7年5月5日を

会社の創業記念日とした。

開業した大正7年から13年もたって、新しい創業記念日

を設けるのは不思議に思われるかもしれないが、

私が使命を知ったときとして、この日を

撰んだのだった。”

と記している。

 

さて、ここからが 松下氏の逆境に強い、本領を発揮する

下りとなる。

そのまま本分を引用する:

”戦時中、資材や機械がなくなってきた中で

軍の生産だけは、なんとか続けていた。

そのうち忘れられないのは、木造船と木製飛行機のことだ。

当時政府に200トンの木造船生産計画があり、

大阪府にもこれを割り当ててきた。”

そこで松下氏は松下造船という会社を作る。

 

”電気屋が舟を造るというのだから、

まことに妙チクリンなものだが、

それでも一日一隻を目標に半年ほどのうちに

工場を建ててしまった。

一心とは恐ろしいもので、町工場の古い機械を

ほごして持ってきたような設備でも、夢中になって、

やっているうちに6日に一隻ずつできるように

なり、終戦までに56隻を水に浮かべた

とある。

 

さらに飛行機を終戦までに三機完成させた。

しかも木製の飛行機で空に飛んだというから驚きだ。

戦後、松下氏にとって、一番つらい”いばらの道”だった

と回想する出来事が待っていた。

占領政策により、経済活動、資産の凍結をはじめ、

社長退陣問題、公職追放A級指定、などなど、

昭和24年にいたるまで活動がほぼ停止

せざる得なかったからだ。


”社長職は 頑張りとおしたものの、

この5年間で事業どころか借金だらけの負債は

10億円に達し、税金でも一時滞納ナンバーワン

に数えられたりした。

結局今までどんな苦しいときでもやらなかった、

人員整理もやむなく断行。


従業員は3千5百人に減ってしまったが、

生涯このときほど、不本意で寂しい思いをしたことはない

この不本意な暮らしの中で、私はPHP運動

というものを始めた。

これは混沌とした世界をなんとか根本的に直したい。

人間性に立脚した、素直な正しいものの観方で

社会の諸問題の本来のあり方を変え、ともに、

繁栄の道を歩みたいと念願して手がけた

peace and happiness through prosperity

(繁栄によって、平和と幸福を)という研究で

今日も続けている。”

と締めくくっている。

 

松下氏の自伝を読みながら ひしひしと伝わるもの。

それは、どんな苦難に負けない不屈の闘志と’災い転じて

福となす’強運と、自分の心の理想に常に正直に真っ直ぐ

に突き進む意思の明確さ、時代を先取りする目 傘下に

いる従業員達への深い愛情、そして 単なる利潤を

求めるだけではない、公への社会的使命感。

 

人生紆余曲折の中、戦後の初めてのリストラに

臨んだ松下氏の一番の”きつい暮らしぶり”の中で

精神的活動に着眼して、PHP研究所を立ち上げる。

その背後の心意気と実行力、そして其の後、生まれた 

小さな小冊子が、戦後の日本人のいろいろな意味での、

心のエールとなってきただろう・・・・

 

まさに PHP誌は ヤナセ氏がアンパンマンにこめた

想いに似て、 松下氏の理想とする平和な社会をつくる

ご自身にとっても志の書だったのだろうと思う。

 

参考;

私の履歴書 日本経済新聞社編 松下幸之助著 昭和38年

 

 

 

 

 

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