自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

一人で戦後処理~永瀬隆先生を偲ぶ

2014年04月17日 | 廻りまわって”心の浄化”につながるかも・・・

先生を主役の1人としての、イギリス映画ロードショー     2014・4・17

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前書き)この記事と次の記事に出てきます永瀬隆先生は、直接、

自然治癒力セラピー協会とは関係はありません。

しかし、私どもに多大な影響を与えてくださった方として、、

今回、永瀬先生を主人公とする映画が完成したようですので、

そのお知らせをさせていただきます。

国際読売平和賞もおとりになったほど、戦後処理をただ一人で 

できる範囲でもくもくと私財をなげうって奥様とともども、続けて

こられました。

人間の未熟さ、素晴らしさ、平和、戦争、罪と赦し、などなど、

多くの課題を先生自らの生き様から、私たちに教示してくださいました。

 

 

2014年3月14日の夕刊に 次のような記事が出ていた:

”安倍晋三首相は14日午前の参院予算委員会で慰安婦問題をめぐる

1993年の河野洋平官房長官談話について’安倍内閣で見直すことは

考えていない’と述べたという。

つまり、慰安婦の問題は象徴的で、日本軍の行った他国の一般市民

を苦しめた諸々の”非人間的行動”は、すでに謝罪を表明しているから

それ以上、それ以下でもなく、現状維持のままということらしい。

 

戦争の傷跡は今もまだ、生々しく世界のどこかで、誰かに、

忘れられず、癒されず、残っていることに思いを馳せる記事だった。 

 

私たちの多くは戦争を知らない世代である。戦争が何故この地球上

に絶えないのか?

内戦・紛争を含めて、今も地球のどこかで誰かが傷ついている。

 

戦争が何故起きるか?あるスピリチュアリストは

"蒸発した水蒸気が雲をつくり飽和点で雨になるように、人類の

憎しみの想念の塊(かたまり)が或るとき、飽和点に達して、

地球上のどこかでそのエネルギーが噴煙をあげる形を

とるから戦争になる" と言っていた.

つまり、戦争の種は私たち一人ひとりの心のねたみ、怨み、

悲しみなどの想念が関与しているという。

これも一理ある。

 

戦争は、平和な日本に住んでいると、遠い話題のような気もするが、

今日ご紹介する映画をご覧になると、何かを考えるきっかけに

なるかと思う。

ヒューマニズムについて?戦争の不条理について?そして、人の心

の不可思議さについて?

 

今月19日から全国でロードショーされる映画がある。

今日と次回にわたって、このお話しをさせていただきたい。

題名は レイルウェイ~運命の旅路~。

アカデミー賞受賞俳優、コリン・ファーズ と ニコール・

キッドマンが主演を務め 日本からは 真田広之が出演している。

実話をもとにしている。

 

第二次世界大戦、戦場にかける橋(*1) という映画でも有名

になったタイ国カンチャナブリで インドインパール作戦

日本軍の軍事物資輸送用に着手された、ビルマまでの鉄道

(タイメン鉄道)に、従事した連合軍捕虜の話だ。

その時に日本軍の通訳をしてかかわっていた永瀬隆氏と主人公

ロマクス氏との関係がこの映画の鍵を握る。

日本人兵士たちの非人道的な捕虜への暴行・暴言・仕打ちに対して、

元捕虜だった主人公は、憎しみ・悲しみ、屈辱を忘れられず、

苦悩し、精神的疾患で苦しむ前半。

後半は永瀬氏との邂逅の下りにおよび、目をそむけたくなる捕虜

時代の赤裸々な拷問を深く凝視して、抉り(えぐり)取って観客

に見せる。

それはまるで、他の細胞すべてを飲み込んでいく癌細胞のような、

醜悪な憎しみによって、壊疽された肉片をつきつける側、

つきつけられる観客側の双方の溜息の中で、映画は進行ていくか

のようだ。

 

筆者は、この映画の試写会に2回お誘いを受けた。一度目に拝見

したときは、後半脚色されている部分、つまり、私が知っている

永瀬氏の体験とは異なるところに、かなり抵抗を感じた。

永瀬先生をよく知っている人たちは、’この映画を先生にお見せする

前に先生があの世に旅立たれてしまい、それは、ある意味、

良かったかもしれない’と語り、もし、先生がご覧になったら、

’わしは、あんな風にふるまっておらんぞ’とおっしゃるに

違いないと思った。

 

しかし、二度目に見た試写会は それも、テーマを追求する

あまりの演出と心得て冷静にしも、映画に吸い込まれていく

自分を発見した。

悲惨な戦争体験が、人に与えた苦悩苦悶の大きさと、それが最後

の最期で、これほど美しい花を咲かせる結末に、涙した。

永瀬先生の、決して私たちに見せなかった心奥の慟哭が伝わった。

日本軍の一人として、同じ人間同士の心を持つ捕虜に対する

拷問を見続け、捕虜とともに苦しんでいたという事実に

涙があふれた。

 

 

 永瀬先生とその役になる真田氏

 

筆者がタイにかかわって、すでに数十年たつ。永瀬先生とタイで

お会いした当時は、バンコックの大学で日本語を教えていた。

そもそも、タイとのかかわり合いの発端は、永瀬先生とのご縁だった。

先生と初めてお会いしたときは岡山だった。その時、数十回の

タイへの慰問訪問をしていた先生に誘われて、タイへの慰問旅行や

元捕虜との和解の再会の場などに参加した。 

その頃、元捕虜のレオ・ローリング氏に、永瀬先生を通して

お会いした。

この映画にも、主人公が回想するシーンで出てくる残虐な

連合軍に対する拷問の絵はレオ・ローリング氏の手によるものだ。

レオさんとは岡山でお会いして、彼の拷問の絵を主体と

した本を拝見したことがある。

その本は、戦争当時、捕虜となって、タイメン鉄道建設に

従事していたレオさんが、赤痢に悩まされながら、皮と骨に

なった体に鞭打って、昼間は日本軍の命ずる肉体労働に従事、

いた時間、草や根っこの汁などを利用して 密かに当時の

状況を克明に描き記録とし、それ永瀬先生が日本で

自費翻訳出版したものだった(注2)。

 

 

3年前、永瀬先生の亡くなるひと月前、岡山のご実家にお見舞い

に行った際、絞り出すような声で”もう一度、この部分

(上記本のタイメン鉄道建設のシーン)を監修して、ローリング

氏の絵をつけて、世に問うて欲しいのじゃ” 

とおっしゃった言葉が最後の先生のこの世でお言葉となった.

 

さて、この映画は1918年生まれの 主人公、エリック・ロマクス

捕虜となり、タイメン鉄道の建設に従事。

その際、日本軍に受けた拷問や非人道的虐待がもとで生還しても、

フラッシュバックが続き、精神的後遺症と日本軍に対する憎しみ

で悩み続ける日々が前半は描かれている。

その事情を知らず 結婚した妻のパトリシア夫人。

 

夫に対する深い愛と 夫の傷をいやすための夫人が戦争の傷跡

ともいえる夫の苦悩を共有していきながら、献身的に協力して

いく二人の絆が描かれる。

 

後半は、もし、生き残りの日本兵と生涯出会うことができたら

滅多打ちに殺してやりた”、と思い続けていた主人公が

日本軍の生き残り、永瀬氏の存在を知り、その揺れ動く心

と、カンチャナブリで永瀬先生と合うまでの葛藤と苦悩が

絵が描かれ、最後に、二人の、邂逅というクライマックスシーンに続く。

 

この映画の試写会にあたって、北海道大学教授山口二郎氏は

”戦争における人間の罪をどのように記憶し、

その罪をいかにして許すか、

深く考えるために、今、まさに必見の映画だ”と述べている。

 

阿倍首相のブログ冒頭の言葉も、この映画の試写会後とても平面的

に感じられてしまった。

 

戦争地獄の絵図の中で、どのような傷をお互いに与え忍んできたの

か知ろうとする努力は、真の平和を造るために決して無駄な

ことではないだろう。

いまだ戦争の傷跡に苦悶している、人達の心に謙虚に理解を

もって対することはどういうことなのかと、それぞれの立場で、

私たち一人ひとりが考えなおすことが大切だというメッセージ

をこの映画から受けとったような気がする。

 

 

nagase先生

 

 

*1) 戦場にかける橋

1957年に公開された英・米合作の戦争映画。 

第二次世界大戦中の1943年のタイとビルマの国境付近

にある捕虜収容所を無体に、

日本軍の捕虜となった英国軍兵士らと、強制的に

タイメン鉄道建設に従事させようとする

日本人大佐の対立と交流が描かれている。

第30回 アカデミー賞作品賞を受賞。

(*2) ”泰麺鉄道の奴隷たち”

("And The Dawn Came Up Like Thunder")  

         レオ・ローリングズ絵と文  永瀬隆訳  

発行所:青山英語学院 昭和55年

  

 1980年貴重な限定版の一冊を、永瀬先生(*3)からいただき、

倉敷のアイヴィー・スクエアでローリング氏と

お会いして、サインを頂戴した。

 

(*3) 永瀬 隆 (ながせ たかし)氏

1918~2012]1943年タイメン鉄道造作戦要員として

タイ国駐屯軍司令部に充用。

1964年からタイ巡礼を始める。以後毎年行う

1965年、タイからの留学生受け入れ開始

1976年、クワイ河鉄橋で元連合軍捕虜と初めての和解の再会を果たす

1986年、クワイ河平和寺院建立、クワイ河平和基金設立

1991年、ロマクス・パトリシア夫人から手紙を受け取る

1993年、ロマクス氏と再会

1995年、クワイ河鉄橋で第二回目の元捕虜たちとの再会

2002年、英国政府から特別感謝状授与

2005年 読売国際協力賞受賞

2006年、クワイ河鉄橋付近にタイ人有志による永瀬氏の銅像完成。

2008年、山陽新聞賞受賞

2009年、最期の巡礼に妻桂子さんと出かける。

 

 

 

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究極のセラピー極意

2014年04月15日 | ハワイの浄化の言葉”ホ・オポノポノ”

ガンジス河に水を注ぎ祈るとき・・・・   2014・4・15

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すでに, ホ・オポノポノ の記事関連を投稿して一か月。

この不思議なメソッドには、私たちが今すぐでも

はじめられ、かつ 深淵な真理潜んでいることを

否めない気がする。

それはちょうど、ガンジス河に入り、禊ぎする信仰篤き 

インドの人々のしぐさの中にも感じる

彼らは シヴァ神の髪の毛の流れとされる、聖なる

ガンジスに禊ぎをし、浄め、水つぼから

聖水を太陽に向かって注ぎ、花を浮かべる。

 

シヴァ神はそんな彼らたちに、こう答えるだろう:

 

”私の水で私を清めることは不可能だ。私はもう、清める

必要はない。私にささげているその供え物は、すべて私

が汝に与えたものではないか。

私にたいして供え物をして、願い事をたてることは、

人のものを人に返してその見返りを願うような矛盾

したことだということを。

 

私の清らかな聖水は、汝自身の浄めのために使うのだ。

汝が清まり、汝自身になったとき、そこに汝の中に

私を見出すことだろう。”

 

さて、ハワイのホ・オポノポノを一躍有名にした心理学者

ヒューレン博士も その清めのプロセスは 自分の神格

に戻ることであって、神格を清める事ではないという。

そのために、唱えられる魔法の4つの言葉、

ごめんなさい

赦してください。

愛しています

ありがとう。

 

最初の二つのフレーズ、”ごめんなさい。許してください”は、

一体、誰に対して謝るのか?その答えが以下だ。

 

”神格[スダ注:人間の本質である、本来の神に等しい清浄な

性質)は あなた自身であり、ホ・オポノポノをして、清めて、

もらう必要はない。現象のあなた自信にその必要があるのだ。”

 

ここが難しい。まず、博士はこの言葉を相手(問題の当事者や

原因)に対して唱えるのではなく、自分自身に唱えよという。

その心は? ’”考え方は共有されたエネジーを清める事。”’

 

誰に謝るのか?

’”神格はすでにあなたに無償の愛を降り注いでいる。しかし、

あなたはそうではない。真のあなたはゼロ・リミッツに見出

される。そこは、混じりけのない愛の存在点。

 

だから、’ごめんなさい。’’赦してください。’と 繰り返し

となえること。あなたはそれによって、混じりけのない愛の

状態にいることを妨げているプログラムを清めることができる。”

 

ヒューレン博士とともに働くスタッフが、友人から相談の

メールをもらった。それを読むと、胸がよじれるほどの辛さが

伝わってきた。それには次のように苦悩が書かれていた。

 

”あなたの本を読んで、あなたのブログも毎日のように見て

ベストを尽くしているのに、それでも何をやっても、だめで

不幸せな私。一体どうすればよいの?”

 

~泥沼から抜け出せずに苦しんでいる人をどうやったら

救えるのか?~と、悩んだスタッフは、ヒューレン博士

だったらどうしただろうと考えた。そして、次のように、

一つの結論を出した。

 

”ホ・オポノポノに従えば、自分自身を清めるほかない。

私のもとにやって来る人達、メールを書いてよこした友人

も含めて、私は彼らとプログラムを共有しているのだ。

私ができることは私を清めるだけ。自分を清めれば 

彼らも浄められる。共有するプログラムを清めれば、

彼らは人という存在から自らを高揚することができる。

最近、私がしているのはそればかりだ。

 

だから、私はただひたすら、

"I love you"

"I am sorry "

"Please forgive me"

"Thank you"

と唱えるのだ。 あとは神格にゆだねるのみ。相手と。

とことん話合ったり、寄り添ったりしないが、それが、

薄情だとは思わない。 

 

むしろ私にできる至高の心づくしなのだ。

そして、今、この文章を書いているまさにこの瞬間

にも私はそうしている。”

 

これは、理屈ではない。実行のみの施術だ。

いつでもどこでも、どんな状況でも始められる、

究極の癒しを与える、セラピーの一つのような

気がしてならない

 

 

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9年目の黒魔術の終焉

2014年04月13日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

黒魔術をかけた本人と出会った!?  2014・4・13

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この記事が発表される頃、たぶん、無事に日本に着いて、留守中溜まっている諸事の後始末に負わ

れていることだろう。

今はまだ、デリー。間もなくデリーを離れようとしている。

 

ええかっこしい という言葉がある。こうして、自分の私的事実を書いていると、ドロドロした部

分を隠して、読者の皆様に抵抗なく受け入れられる事実と言葉を選んでいる自分を発見する。

 

デリーでの人間関係について記しているが、いつもスムースに展開していたわけではない。

人間臭い部分、それも、陰湿な陰険な出来事もあったし、いまだに付き合いのある家族をして、警

察が絡んだ事件に巻き込まれたこともあったのだ。 だが、時がたつと、すべて清浄化された川の

流れのように、何でもなくなっているのが不思議だ。

 

大袈裟な表現かもしれないが、筆者を迎え入れてくれた、インド大地、大空に感謝、古い家に感

謝。 今回は、8年間、ベランダの屋根を、天井の亀裂を、扉の不具合を、熱風にさらされていた

んだ壁を 内外から塗り直して、”お疲れ様”という心で修繕することで、ねぎらうことにした。

新しい壁の一区画は 筆者が頼んでもいないのに、ラジンダーさんの芸術的手法によって、日本の

狩野派の琳派風屏風(びょうぶ)にも似た、金色の刷毛でざっとブラッシュした特別仕様の模様が

描かれていた。塗り終わると、こちらの心の壁も、塗りなおされたかのように、気分が一心した。

 

心の一新というには、理由がある。

今日のタイトルの黒魔術の終焉という言葉がそれを顕わしているかもしれない。 この話の発端と

なった人がいる。”その人”に 須田は黒魔術をかけられたと主張する会社関係者がいる。突然、も

う忘れかけた頃、”その人”は私の眼前に姿を思いがけないところであらわした。今回の旅の最後の

あいさつ回りのある場所で昨日、遭遇したのだ。

 

順をおって、お話しをすすめさせていただきたい。今回の旅は目的があってないようなもの・・

インドに招かれ、必要な人に会い、するべき責務を果たしてきたような気持ちだ。必要な人達?

そう、まず、息子と二人だけの生活を始めたGK1地区の隣人パールさんご一家、その際の感慨

は、すでの拙ブログでデリー到着直後の記事に、ご紹介している。

ミセス・パールと 息子夫妻と今回しみじみ、語り合えた。夫を、あるいは、父親を失った悲しみ

から癒えない家族に聖地ヒマラヤの麓の瞑想場にお誘いした。

しかし、お誘いしたものの、今回は、筆者自身がそこへ行く時間が見いだせなかった。

 

次に訪問したのは、筆者の古い知人に当たる、軍人さんのご一家、カプール大将の御宅だ。

20年前にデリーに、最初の家となる一軒家に居を構えた際、インフラが整っておらず、しば

しば、停電するすること、そして、水をタンクにくみ上げる事ができず、深刻な水不足に

陥った。その時の隣人で夏季の水の供給が途絶えたとき、ご自宅の地下のタンクから直接、

ホースを付けて拙宅のタンクに水を入れてくださった、ある意味、命の恩人でもある。

このご夫妻のことも、以前、インドのベジタリアンについての記事で、カプール氏のたくま

しい番犬とともに、ご紹介したことがあるのでご記憶の読者もおられるかもしれない。

奥様のヴィミさんは、ベランダから筆者の姿をみて”まあ!”といって、駈け下りてきた。

20年の歳月が造る溝はそこにはなかった。壁面から滝のような水が流れる室内噴水を備えた

優雅な廣い居間でアフタヌーンティーをいただいた。

突然お邪魔するのは日本ではご法度だが、こちらでは、客人は神様~というインド古来の言

い伝えがあり、昔の友人知人には、おしなべて快く門戸をひらき、心からの歓待をしてくだ

さる習慣がまだ生きている。

 

筆者がデリーを訪れると、必ずお会いするのが、研究生活を送っていた、10年余にわたり、

インドでの保証人になってくださっていたシャハニ氏だ。

この方は、筆者を”ファミリーの一員”と今でも認めてくださる数少ない知人の一人だ。

 

ファミリーといえば、前生で 筆者が自分の娘と姉妹だったと確信している方がいる。

仕事は持たず、巡礼の旅にもっぱら回る日々。アニタの父君だ。父君の義理の父親、つまり

奥様の父上(すでに90歳以上)は 未だにお元気で、自分の城(当時はまだ、諸侯の存在す

る時代だった)、家族を捨ててサイババ師に帰依し、世俗な欲を捨てて、6帖一間程の広さ

のサイババアシュラムの区画内にある小さな質素な部屋に暮らしていた。

 

筆者は、おじい様も父上からも、かわいがっていただいたが、デリーのアニタの家にお邪魔

したときはアニタの母親がいらしていた。

諸公貴族階級出身の母上は、優雅なサリーを身に着けて、気品を漂わせていた。もともと

は、あの、バカヴァッド・ギータ の主人公である、クリシュナ神の生誕地マトラーの王族

の姫である。アニタは、今回筆者と一緒に日本に行きたいと言っていたが、長女の試験とか

ちあってしまった。

 

こうした身分の確立された社会的に裕福な方達ばかりが筆者の友達ではない。運転手やお手

伝いさんなど、雇用関係にあった人とは、なかなか親交を持つまでいたらないものだが、幸

い、筆者は、7年間運転手として勤めてくれたボビーとはいまだに家族づきあいが続いてい

る。

今回も、数度、彼の仕事の休みの日に筆者とタクシーで住所も道もわからないで困っている

筆者の目的地に随行してあちこち、タクシーの運転手に指示しながら、迷うことなく、行き

たい場所を一緒に回ってくれた。彼は”飲んだくれのボビー”と家族中で困りものになってい

た時期、筆者のドライバーになった。道の真ん中で大の字で酔っぱらって、寝てしまい、バ

ケツの水を汲んでもらい、頭からかけて起こしたことがある。それでも愚たん愚たんの酩酊

状態だったので、思わず、女だてらに若者だったボビーを正気に返すよう、頬を平手打ちに

したこともあった。

それでも、なぜか筆者とは信頼関係が生まれた。それまでのドライバーのような、盗みやご

まかしをすることなく、少しずつ、酒の量も減って、真っ当で忠実な文字通り”足”になって

くれた。

右端(向かって)がボビー

 

まだ1人大切な人がいた。筆者を”自分の姉”と公言して妻とともに、いつ、お宅に伺って

も、昼食や夕食を取急いで、調理して私用に作ってくれて、歓待してくれるジェッシーさ

ん。

 

ジェッシーさんの家族:向かって右が奥様、左がお嫁さんと愛孫

ジェッシー氏は、愚息にとっても大きな存在になっている。

以前、息子の会社が賄賂目当てで現れる役人で辟易していたとき、拙ブログでもご紹介した 

”私が相談した信頼おける友人Jさん”とはジェッシーさんのことで、弱みに付け込んで、

賂を毎月とりに来ていた公務員に対して、ジェッシー氏の協力で、万全な構えをとることが

できた。

彼は、現在、事業家となって成功しているが筆者が彼と会ったときは 貧に窮していた。

M新聞社の運転手を解雇され 職を失っていたのだ。筆者も 日本人でありながら、彼の立

場の正当性を信じていたので、何度か、M新聞社の日本人支局長と彼の間で、”嫌われ者”

なるのを覚悟で 中間にたって、話し合いを試みた。

 

しかし、結局、折り合いがつかず、10年以上の長きにわたり、裁判で争った結果、勝訴し

た。この件がきっかけで筆者を姉と慕ってくれるようになった。

 

今回の家の修復にあたり、世話になったラジンダーは、20年にわたって、主人の会社で代々

の特派員に給仕してきた日本食の上手な、コックさんシタラム氏とナディ―夫人の長男だ。

 毎年、帰印のたび、御宅に伺い、今は亡きお世話になった二人の慰霊に手を合わせていたが 

ナディ―夫人は、他界する寸前まで筆者のことを懐かしんでくれていたとラジンダーは語っ

た。

”日本にいるマダムに電話して話したい”と 息をひきとる最後の日、ママ(ナディ―夫人)

は周囲の人達に話したという。その言葉の裏にある、お二人と構築できた関係を忘れないよ

 残された家族たちと親しくお付き合いを続けようと 今回心から思い、ラジンダーに冒

頭書いた、壁の色の塗りなおしをはじめとして、修繕の仕事を頼んだ。

 

 

 

 

昨日は、8年ぶりに、インドに嫁いだ日本人Sさんも拙宅を訪ねてくださり、8年ぶりの旧交

をあたためた。

この方のご主人 Nさんはインド政府の芸術庁の官僚だった。筆者のシタールを応援してく

ださり、奥様が日本人だったのでそのご縁もあり、親しくお付き合いをいただいた。

 

1998年6月17日、不思議な出来事があった。よくある、夏の日の怖い話にも似た、それで

いて、懐かしいお話をさせていただこう。

当時、筆者は息子と中東旅行の最中だった。疲れた体をチェックインを済ませた、アンマン

のホテルのベッドに横たえ、休んでいた。ウトウトしかけたころだった。部屋は熱い光が入

らないよう、カーテンをしていたので、薄暗く、心地よい寝入りばな、突然、部屋の片隅で

灯りがともった。良く観ると、つけていなかったテレビが突然ついたのだった。何事が起き

たかと思う暇がないほど、瞬間的に音楽が流れてきた。

つけたの?”と私は言葉を出して、息子を見れば横のベッドで寝ている。リモコンはしか

も、我々のベッドから離れたところに置いてある。

 

音楽が流れてきたが、それは、聞き覚えのあるメロディーだった。突然、明るくなったテレ

ビに”春のうらら~の・・”と メロディーが、隅田川の情景とともに間髪いれず、流れ始め

た。呆然とそのメロディーが耳に入ってくる間に、直観が脳裏に響いた。誰かの訃報だ。

 

”ねえ、Nさん(Sさんのご主人)の身に何かあったのかもしれない”と、テレビの音響で目

覚めた息子に話しかけた。

 

その理由はこうだった。Nさんは、自分の家族にニックネームをつけ、すべてそれが花の名

前だった。奥様をSと呼んだのも、それはヒンディー語で”花の代表各”を意味する言葉だっ

たし、筆者が彼にプレゼントした、子犬は、桜(さくら)と命名され、親しい友人にチュー

リップ、などと、花の名前をつけていた。’春のうららの墨田川、上り下りのフナビト

が・・” この情景は春である。桜の花が咲きそろった墨田川の土手を見ながら、風情ある

船で上り下りする光景をうたっている。

Nさんは、何より、日本をこよなく愛していた。彼の文化庁の職場を訪れたことがあるが、

りっぱな能舞台まで造られていた。日本の文化に精通している人だった。日本人の愛する花

が桜であることも知っていた。きっと、Nさんのメッセージだと感じた。そうでなければ、

中東のオマーンの国のホテルで、寝ていたとき、テレビが突然ついて、しかも、日本の歌唱

を流すなど、ほぼ、あり得ないことだと思った。

 

先日、デリーの家に遊びにいらした、奥様のSさんに アンマンでのこの不思議な出来事を

話した。

驚いたように話を聞いていたが、Sさんはしっかりした口調でゆっくり言葉にした。

”そうですか…その頃、主人は病院で危篤状態、結局 二日後、29日に亡くなったので

す。”

 

さて、最後に記しておきたいのは、これまでこのブログで何度も取り上げた筆者がかけられ

た黒魔術の、主宰者側、つまり、かけた人 との遭遇だ。彼は、以前働いていた会社が、日

本人の社長にとって代わり、その時、マネージャーとして雇われた筆者の下にいたのだが、

旧スタッフが会社を辞めるとほぼ同時に、新しい日本側の経営陣から解雇され、筆者の事を

恨んでいたという。

職を失った疎ましく無念の情で筆者に対して怒りで、ブラックマジックをかけた人物と

偶然の邂逅をするとは、思いもよらないことだった。(拙ブログ、黒魔術 前・後編参照)

 

ある御宅にお茶に招かれ、そこで働く二人の給仕のうち一人がまさにラメ―シュその人だっ

た。

お互い、顔を見交わせて確認しあったが、一瞬 気まずい雰囲気がはしってしかるべきなの

に、あまりにも唐突な出会いだったので、むしろその出会いの印象は淡々としていた。

要人と1時間ほど談笑。失礼するとき、彼がまた、お盆を持って茶器を下げに筆者のそばに

立っていた。

思わず、”あのときはあなたに、大変な想いをかけたようだけど悪かったわね。Iam orry"

と 自然に言葉が口からついて出た。すると、彼は、うつむいて、ヒンズー語で、”まーふ

きーじえ”(赦してください)” と穏やかな顔で返答した。不思議なこと~昔の諸々の怨み

つらみ、誤解、思い込み、などなどが光りの中に、雲散霧消していくような気がした。

 

アパートの部屋を淡い黄色と金色を混ぜて塗り直し、修理する家具はすべて補修したと同時

に、こうした、”古い傷つけあった念”も、補修されたという事なのだろうか?

 

自然治癒力は生命力の発露。その発露のためには、周囲に大いに感謝して、恵みに対して

心の底から生かされている事実をしることから始まるのだろう。

水がある、屋根がある、雨風太陽の日差しをさえぎってもらえる、火があり、食糧が与えら

れ、支えと励ましがある。

一人では生きていけないインドの大地の生活に多くの人達の愛情と手助けと支えがあったこ

と。そして、こうしてインドにいる間も、日本での老いた母を助けてくれる介護関係の人達

や家族の支えがある。生かされ生かす命の重み、すべてすべて、人々すべてが共有している

愛情と共感が この地球の大気の中で、巡り巡って自分自身に、心の潤滑油を与え続けてい

る。

これらが理屈ではなく、自分の心にひたひたと寄せる波のように、デリー滞在の毎日毎日、

いろいろな方達と談笑し、お互いの存在を受け入れて喜びあえる時間の中で噛みしめること

ができた旅となった。

 

 

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殺人犯らが、平和になった・・・

2014年04月11日 | ハワイの浄化の言葉”ホ・オポノポノ”

プロブレム、それは思考そのものに有り  2014・4・11

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今まで 長きにわたり ヒューレン博士の

メソッドを取り上げて来たのには理由がある。

自然治癒力を理屈で語るのは簡単だし、臨床例を引き出して

語ることも一つの方法。

でも”そのための力をどのようにして得るのか?”

と聞かれた場合、自分の中で”本当の自分への自信を見つけて、

’ストン’と腑に落ちるしかない”という抽象的な答えしか

できない。

体験して、納得する。

頭ではなくて ハートでわかる。

理屈や理論ではなくて、共鳴できる感覚は、実は実践以外に

達成できるものではないだろう。

どのような実践なのだろう?

セラピーを受ける。

本を読む。

そのほかにどういう体験をしたらよいのか?

 

 

ヒューレン博士のメソッドを筆者は知り、自分で確かめ

数か月たって、皆様にご紹介することにした。

もう一つの理由は、そのシンプルな考え方だ。

ヒューレン博士のいう、我々の起点となる、

ゼロ地点とは、エゴや理屈の届かない’空’だと述べている。

それは、言い換えれば、アートマ地点であり、

博士の言う”神格”とは”人間の本性”でもあるという

ところは、拙協会の提唱するところと一致する。

 

病とは?どう捉えてられているのだろう?

疾病も環境も、”すべて自分の心の影である”~と博士は言う。

今 自分自身の周りに現れている現象の

”100%の責任は自己にあり”とする博士は、病でさえ

(自らのみならず、家族や触れ合い、知りあった友人の)

自己責任であると徹底した観方を貫いている。

 

ヒューレン博士の方法、即ち、記憶を清める、

ゼロ地点に持っていくというその方法は功を奏し、

多くの人達の関心を引いた。

それでも、すべてが、博士の意見を賛美したわけではない。

ヒューレン博士がそういう声にこたえて、自らまとめた

文章がある。

 

引用したい。

”真実を語ろう。

1・ 私は数年間、ハワイ州立保健課が運営する

精神科施設、ハワイ州立病院の俸給制職員心理学者として

働いた。

2・ 私は1984年から1987年までの三年間、職員心理学者として 

週20時間、殺人、レイプ、薬物使用、および対人暴行傷害

対物棄損の罪に問われた男性患者を収容する

高度セキュリティーユニットで働いた。

3・ 1984年に私が同ユニットに入ったころ、隔離病室の

すべてが凶暴な患者たちに占有されていた。

4・ 同ユニットないでは、他の患者への暴力を防ぐ目的で

常に数名の患者の足首と手首に金属製拘束具がかけられていた。

5・ 同ユニットないでは、患者による患者や職員への暴力は

日常茶飯事だった。

6・ 患者たちは治療や更生訓練に友好的に従うことはなかった。

7・同ユニットないでの更生訓練活動はなかった。

8・ 同ユニット内での、活動、娯楽、労働はなかった。

9・ 同ユニットに患者の家族が面会訪問することはきわめて

稀だった。

10・精神科医の文書による許可なく、患者が同ユニット外に出る

ことは許されることなく、また、足首、手足の拘束具着用

を義務づけられた。

11・ 同ユニット滞在は、平均的患者で数年間におよび、

年間費用は私の知る限りで三万ドル前後だった

12・ 病棟職員の病気休養率が異常に高かった

13・ 同ユニットの物理的環境が灰褐色で荒んでいた。

14・ 同ユニット職員は基本的に有能で献身的な人々で

更生されていた。

15・ 以上は、おそらく我が国のどこにでもある精神科

ユニットと同様だと思われる

 

私は1987年に同ユニットおよび、施設を退職したとき、

1・隔離病室はもはや使用されていない状態だった。

2・手首・足首の拘束具は使用されていなかった。

3・新規入院の際にありがちだった暴力行為はきわめて稀になった。

4・患者たちは、居住設備整理整頓、労働、ユニット、

および施設退院前の法的義務を含む

自己管理について、責任能力を有していた。

5・ジョギングやテニスなどのオフユニット娯楽活動が

精神科医の許可や拘束具着用を必要をせず、

行われるようになった。

6・車の洗車などのオフユニット労働活動が、精神科医

の許可や拘束具着用を必要とせず、

行われるようになった。

7・オフユニット労働に、クッキーを焼くことや、

靴磨きが追加された。

8・家族の面会訪問が頻繁に行われるようになった。

9・職員の病気休暇はもはや慢性的問題ではなくなった。

10・ユニットの物理的環境は、塗装やメンテナンスと

人々の気遣いによって、著しく改善された。

11・ユニット職員はより積極的に患者の責任能力を

00%に近づける手助けをするようになった。

12・入院から退院までの所要時間が、数年から

数か月へと著しく短縮された。

13・患者と職員双方の生活の質が互いへの気遣い

よって、管理関係から家族的なものへと劇的に変化した

ユニットの職員心理学者としての領分で私がやったことは、

ユニットを訪れる以前、訪れている間、辞した後に、問題

として私が意識的、かつ無意識的に体験する物事について、

その時の私の中で何が起きていようと、ホ・オポノポノ

経由のセルフアイデンティティーによる悔悛、赦し、

変質のプロセスを実践することだった。

ユニットの患者にセラピーやカウンセリングを

行ったことは一度もない。

患者に関する職員会議に出席したこともない。

私は全幅の責任を負って、職員心理学者としての問題

を私の内にもたらしたものを清めることに専念した。

私 ’I AM’ の創造物であり、万人万物とともにある、

不完全なるものは嘘[須田注・迷妄]であり、審判悔悛、激怒、

激昂として再生され、反応する記憶であり、そして、

神は魂に潜む残りの嘘をご存知である。” 

と記している、

 

ヒューレン博士がその病棟で職員として勤務していた

頃を知る人はこう書き添えている。

”精神病院で働いていた彼は、患者のカルテを見た。

患者たちの行動に何等かの反発を感じても彼は

個々に当たろうとはしなかった。

彼自身が体験したフィーリングと取組み、

自分の中にあるものを清めたところ、

患者たちも浄められて癒されたというわけだ。”

 

ここまで読んでもよく理解できない方達も多いだろう。

実際、口に、言葉に出して、ありがとう、ごめんなさい、

赦してね、愛しているよ~と 口ずさんでいただきたい。

何も考えずに・・無意識でもいいから、一度だけでも・・・

心の奥に何かが響いていくのがわかるかもしれなしゅうい

 

 

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モーナ女史 自由を語る

2014年04月09日 | ハワイの浄化の言葉”ホ・オポノポノ”

 自由を獲得する時の自分   2014・4・9

 *********************************

 

 筆者は大師(覚者)から

“人は本質的に自由などない。”

と教わった。

皆、自由を求めているが 自由とは何か?

ほとんど一般的な場合、

それは単なる諸感覚の解放と欲望の充足の

ための歯止めを外すことを意味しているに

過ぎない。

ほんとうの自由?

それは

欲望からも感覚からも解放され、執着が無に

なり 本当の自分自身を自覚したとき。

自分を縛るものが何もなくなるとき。

そういう自分になったとき。

 

その自分とは?

“本来のアートマ”に回帰したときであり

大我意識に人が目覚めたとき、自分の中で

統合が行われたときだ”

と師は教えてくれた。

 

アートマに復帰したその時

病・貧困、不幸・不運も、戦争・不調和の

満ちた現象世界に 居ながらにして

自分の周囲には、調和と愛が自ずから取り巻く

だろうと

 

さて、

モーナ女史も、筆者が教わった大師の言葉を

そのまま彷彿とさせるような事を詩に託している。

 

“ 自由!?

何からの自由なの?

期待や評価、

そんな傷だらけの痛くて苦しい記憶から

自由になる。

そこに命が現れる。

期待や評価なんて全部 幻影。

無限に広がるこの宇宙すべての鏡に

こびりついてしまった

フジツボのような存在だ。

あなたは 今でも、いつだって、完璧。

完璧と感じられないのは、

自由を見失っていたから。

自由とは、愛そのもの。

自由である時、愛に満たされている。

今まで自分や他人に抱いてきた評価や期待を

手放そう。

今まで‘自分’だと勘違いしてきた殻を

手放そう。

すると、本当の自分を取り戻し

宇宙全体と一つになれる。“

さらに 詩は続く:

 

“自由になりたい

 日々のストレスから解放されたい。

 自由になる?

 それは、簡単なこと。

 まずは自由になることを選ぶこと。

 どうやって?

‘社会’というあなたの記憶が造りだした

価値観’を手放すこと。

‘世間’という言葉に

べったりとしがみついてきた執着を

手放せるか?

財産や所有物、への執着から

自由になること“

 

としたうえで、自由を選ぶことの選択肢

を具体的に述べている。

 

“自分以外の存在に

 尊厳をもってかかわり合おう。

 干渉せず、自由を与えよう。

 他人に自然と抱いてきた期待を手放そう。

 我が子を、かけがえのない誰かを、

あなたは自分の執着から自由にさせる

覚悟があるか?“

 

 さらに、

 “自分の思うとおりにコントロールしたいという

その強い欲求を手放す決意がついているのか?“

と 誰でも多かれ少なかれもっている他者への期待”と

他者をコントロールしたい” という心持の放棄を促す。

 

この二つの心持を持っていないと言える

人はどのくらいいるのだろうか?

他者とは 血の繋がっていない人だけを指すの

ではない。

家族の中、組織の中、人と人との交わり、社会で

相手に期待をしないということを実行するのは

案外至難の業だと筆者は思う。

無意識に、期待をかけているから、それが満たされ

ないと、不満になったり怒りになったりする。

 

この二つの資質を人が手放したとき、

怒ることはなく、不満もなく、責めることもなく、

すべて何事も、自分自身の中に責任があると

万事の結果を受け止めることができるのかも

しれない。

この二つの人の弱い習性で起きた人間ドラマは

コントロール劇と呼ばれる。

上司と部下の関係だけでなく、夫婦間、親子間、友人関係、

自分の優越的なエゴ意識や自尊心、

自分が正しいとする基準や価値を相手に

当てはめて考えると、微妙なコントロール劇が

演じられことになる。

 

そういう人間関係ドラマの中で、

女史はさらに、深く突っ込む。

“あなたは何を手放すの?

評価、判断、執着、期待?

エゴ、意思、知性?“

 

最後に上げる’知性’は 人の小賢しい知恵を

さすのだろう。

あるいは、どんなに学識があっても 

自然の中にある”智慧”や宇宙の営みの秩序を

計る”智慧”に比べれば 

些細なものであるのだろう。

 

“ストレスから自由になる?

ストレスはどこにあるの?

それはあなたの心にあるのだよ。

あなたはほんとうに自由になりたいの?

そうなら、もう、自由を外に求めるのは

やめよう

今この瞬間、

何よりも先に解放してあげなくてはいけないもの

それは

あなたの心、

 

内なる世界に置くものは

解放か束縛?

自由か不自由?

どちらかしかない。

あなたの心次第。“

 

そして、解放を選んだ時、自由を選んだ人

その人にこう助言する。

 

それなら、

ただ、一つ一つの記憶を手放していこう。

うずもれていた傷、

恐れを今、手放していこう。“

 

自由になったとき、 わたし” [本来の自分~大我~大いなる愛)

と人間は ”ひとつになる” とモーナ女史はいう。

 

 

参考書: 叡智のしずく SITH・ホ・オポノポノ アジア事務局 2012年

  

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