自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

ア音の瞑想~チベットポン教

2014年07月16日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

ポン教(チベット)から学ぶ困難の向かい方   2014・7・16

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これまで数回でお話しさせていただいたことに

共通なのは、人生の出来事、人の心、それらすべての

事象は”一過性”で、所詮 過ぎゆくもの。

変化して一所に留まることもない、河の流れのようなもの。

チベットにポン教という、チベット仏教以前に存在していたという

教えがある。

この教えも、密教のように、空観 を持ち、ほとんど、般若心経の

言うところの、、空 とその観念は異なっていないようだ。

このポン教の御坊様は、きっと、悩みを抱えて受け入れがたい人生

に直面している人にこう、箴言するだろう。

”あなたの心の、空(くう)に立ち返ってください。

困難な状況? それを分析するのはやめましょう。

何が原因でこうなったかなどと、考えるのもやめましょう。

ましてや、他者を非難する必要もない。

只、その状況を 客観的な眼で認識して受け入れ、そして

その流れを静かに見守る気持ちになってください。

ポジティブ替えようとか ネガティブな原因を探ろうと

するのではなく、自然に任せる、ゆったりと構えて、雲が

青空に浮かんで流れていくのを観るように、困難が

時とともに、姿を変えていくのを眺めるような気持ちに

なってください。

自然でいること。

リラックスすること。

それが、まず、おどおど、バタバタ、必死にあがいたり、

抵抗したり、急いで働きかけたりすることより、何よりも

大切なことだからです。”

ポン教では一つの瞑想を提案している。

簡単にご紹介したい。

これは、“ア”音の響きによる浄化”方法であり、

これによって、無限の空間への体験を通して悩みや苦しみを

超越できると教える。

(A)は 阿(ア)音の意味を説明している。

(B)(C)は、その音を唱えながら、どのように観想するかを、述べる。

..........................................................

A) 阿 アの音 

この音は在って在りし音、自ら生じて存在する音と言われている。

真言宗で行う観想ア字観のアであり、言霊としてとても

重厚な意味合いを持つといわれる。 

そのアの響きが額のチャクラを共鳴させる振動。

繰り返しこの音を響かせるだけでも空間を開かせる働きを持つともいわれる。

 

B) 空間を作り出そうとしないように。

空(くう)は、内在する本質として、あなたの中に、すでに存在しているのだから。

むしろ、空間に置かれているさまざまな感情や気になる事象が

“ア”の音の波動で一掃されていく様を観じる。

すると、自分の心の中にすでに純粋で無限に広がる空間が見えてくる

不満や自分にかけていると思われる不足した資質を

思い浮かべることはかまいません。

むしろ、それらを意識することで“ア”の音の持つ言霊が 

それらを一掃していくことがわかるはずだ。 

たとえばゾクチェンでは怒りの感情を意識したら

“感情を壊そうとするのではなく、べつのところへたどり着くための道に変えよう”

と意識する。

怒りの感情を 例にとればゾクチェンではこう教える。

“怒りは道になって自分の前に進む道をより明瞭にさせる。

私は今感じている怒りを別の場所に行くための道に変える。

今の状況がさらに大きく成長させるためのきっかけになる” 

怒りのみならず、無関心や憎しみ、さらには嫉妬や疑いなども、

“ア”を唱えながら、静かに見つめ、成長させてくれるための

エネルギーとなっていく。

それら マイナスのエネルギーと思っていたものさえ、

自分の指針をさしてくれる要因なのだと気がつき、

空間の中に安らぐ自分を見つめるためのきっかけであることに気が付くだろう。

 

(C) “ア”を唱えるとき、問題を熟慮したり深く考えて分析しないように。

むしろ、問題を目の前に置き、向き合うだけで十分だ。

“アの響きによって真実を曇らせるものが浄化されたら、

そこに、空間が広がる。

そしてその空間に変わらぬままとどまろう。

痛みや不満、そして怒りを意識しながら繰り返し歌い、

すべての妨げを浄化し空間を開き、広げていこう”

とゾクチェンでは 言うのだ。

 

 要は、判断したり、分析したり、解釈をしながら、苦悩を見つめる

必要はないということだろう。

仏教では中道という言葉がある。

ネガティヴでもなく、ポジティヴでもない。

心の重心を中道に置くのなら、二者選択するような次元を

超えている状態であるといえる。

中道においていないと 右が良いと言われれば、右に傾き

左のほうが良いと言われれば、左に傾くように、心は多かれ少なかれ

かき乱されることになるだろう。

健康も同様といえるだろう。

この薬が良いといわれれば、それを、 こちらの方が良いと言われれば

替えてみたくなるのが人の常だ。

サプリメントは必要と言われれば摂るだろうし、ニンジンジュースが良い

と言われれば、それを飲む。

健康になるための中道心はでは、どこに重心が置かれた状態なのだろう?

自分の体の持つ 自然の生命力と、自分の心にある、無限の可能性を生む

想念だ。

それを信じることが、その時、一番適切な判断を直観で、静かな心、中道の心

から得ることができるのだと思う。

ゾクチェンのこうした瞑想方法も、中道の心に戻るための一つの手段で

あることはいうまでもないだろう。

 

 

 

 

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不垢不浄不増不減

2014年07月13日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

人生万事塞翁が馬  2014・7・13

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ふくふじょう ふぞうふげん・・・・

これは今日のタイトルの般若心経の一節です

 

それと人間万事塞翁が馬とどう関係あるのかというと、

この世は幸不幸、が糸のようにより合わさって、善いと見えれば

悪い結果、悪い結果になったと思えば 良い結果がもたらされる

ということで、

一喜一憂、二つの対照的なポイントを行ったり来たり

する振り子のような感情とともに私たちは生きているという

ところでしょう。

 

般若心経では、汚れ(垢)も 浄もなく、増えたり減ったりすることが

ないのが真理(法)であると言っていますが、

私たちがこの世に生きている限り 感覚機能と感情で揺さぶられている

心がある限り、こうした 感情に左右される観方からなかなか

逸脱できないのも事実です。

 

これは、想像のお話しですが、こういうことが人生にたびたび起こるのだ

と思います。

在るところに、素晴らしい馬と、可愛い息子を愛してやまない男がいました。

息子は父親の期待を受けて 立派な騎手になりますが 反抗期に

行方をくらまします。

父親は愛する息子と愛馬を失い 失意の中で暮らしていると

その愛馬はこれまた美しい雌馬を連れて、息子と一緒に

戻ってきます。

男は今度は有頂天になります。

なぜなら、愛馬はこの美しい雌馬に子供を産ませて、たちまちに

素晴らしい馬の家族が増えて 富が増したからです。

ところが、息子が落馬して、足を折ります。

もう騎手としても活躍できない。

だちまち、今度は、憂鬱な想いに息子の将来をおもいやって

父親は悶々とします。

 

暫くすると、戦が始まります。

多くの若者が戦場に駆り出されるなか、息子は足が不自由

なので、免役になるのです。

父親は安堵の境地で愛馬と息子を満足げに見つめるのです。

 

上の話は、どこにでもある日常的な出来事を

少したとえ話で書いてみただけです。

何をこの話が伝えているかというと、結局 人は

運が良いか悪いか、想いのままにいけば幸福感、それが

かなわなければ失望感を味わい、愛馬や愛する息子というように

自分の幸せを外の対象物に根差して図っていることが

多いということでしょう。

 

一人きりで生きているヒマラヤのヨギや聖者のように、自分の中の

本性(神性・仏性・実相)とともに生きていれば  

こうした二元性を超えた世界を感じることもたやすいのかも

知れません。

ところが日常の中で右往左往していると、心が充足しているという境地に

いたることは なかなか、無理ではありましょうが、自分の内面を見つめる

きっかけは少なくないでしょう。

たとえば、対象依存症 という 人間特有の嵯峨(さが)を自覚すれば、

自分自身=?(ってなあに?)という根本的な問題に

取り組まざる得なくなるでしょう。

 

覚者は こう、言います

”対象は常に変化している。

増えない減らない その 真実なる実存はどこにあるのか?

それを見つけない限り、常に人は対象を通して、

他者の眼を通して自分を評価したり、擁護したりして

不安の中で過ごすことになるだろう。”

 

では対象依存という言葉の反対の概念はなんでしょう?

それは、自己完結、自己の完全円満を自分の魂の中に見出すこと。

 

それは、常に第三者的な”冷ややか[冷静な]目”で 

自分自身を見つめる訓練をすること、

その眼を持つ自分と向かい合うことで

人は誰の批判も賞賛も、認識も意見も、必要がないと

感じるに違いないと思います。

 

ちょうど、ヒマラヤの聖者が一人で生きて充たされているとき、

弟子が追いかけて

一人で先生はお寂しいでしょう

と問いかけたとき

お前と会うまでは私は寂しいという観念はなかったが

お前と話すことで ’寂しい’と感じられたよ

と禅問答のような

応えを返しますが、それと何か共通した境地のような

気がするのです。

 

筆者のインド人の親友に、ボーイフレンドと、いわゆる身分格差が

大きすぎて(彼女の恋人はマハラジャだった!) とても”さみしい”と

打ち明けられたことがあります。

 

ところがその後 会ったとき、以前とは違い活き活きと輝いていたので

その理由を聞いてみた処、

”自分がとにかくハッピーでいなければ、相手もハッピーに

なれないことがわかったの。

恋人とは月に一度会えるかどうかだけど、自分がまず幸せを

心の中で見つけることが先決。

会えないから、とか、将来は とか くよくよしていたら結局

相手にそぐわない自分にどんどんなっていくだけだから・・まず、

自分が幸せにどんな時でもいられるが大切だとわかったの”

と語ってくれました。

 

ほんとうにそういうことなのでしょう。

相手が自分を愛してくれるから幸せ なのではなくて、相手を

愛しているから幸せ であることが先決ということでしょう。

 

周囲は移り変わっています。

一つとして昨日と同じものはないのです。

 

自分の中にある、変わらない真実、それを見つけるのが人生の一つの

目的であることを、塞翁が馬 の逸話から感じる今日この頃です。

そして清いとか汚いとかそんな二つの対立した観念に

惑わされることなく、どんな局面も裏表がある以上、悪い方を

見たらきりがない。

ほんとうは 真実は汚いもきれいもない~と知ることから

内なる眼が輝き始めるのだと思います。

 

 

 

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自分が自分を苦しめる

2014年07月10日 | 健康と”悟り”・スピリチュアリズム

エゴからの解放~真の自由  2014・7・10

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自由になりたいという。

 

持病が改善されれば、借金が返済されれば、子供が大学まで

行ってくれれば、など、自分を縛る責務や負債から解放されれば

人は自由感を味わえると思う。

一方、覚者はほんとうの自由は、詰まる所、自分のエゴ意識からの

解放以外にはないと教える。

 

霊的に言えば、肉体意識に近い心の反応感情が エゴという

粗雑な波動のもので、それがほんとうの自分を覆う外壁に

なっているから、何か閉塞感を感じながら生活しているのが

普通なのかもしれない。

 

エゴとは、ホ・オポノポノのヒューレン博士やモナ女史も述べて

いたように、実は、自分自身が時間をかけてゆっくり構築して

きた、自分自身のイメージに他ならない。

それが自分だと信じているイメージが、仮面として自分の

アートマを覆う。

体の不調や精神的不快感なども、原因を探れば

自分のエゴ意識が自分の活き活きした真の生命体を

隠していることであることも多いのだ。

言い換えれば、生き生きした自分に戻れば、新陳代謝をはじめ

とする自然治癒力が十分に機能する生体、生命力に満ちた

細胞にたちどころに戻る弾力性を人の体は秘めているのだ

と信じたい。

精神的不調や不快感、も、自分の内外に満ちている

いろいろな想念の波動、周波数の違うエゴ意識の中から

何かが自分の心の波動に引っかかってきてしまったか、

引っかかってきそうだから、不快感を感じていることも

あるだろう。

”あそこへ何となく行きたくない”、”あんな話をして、落ち込んだ”

”あの人とは今は距離を置いておきたい”と感じるのも、自然と

こうした防御作業が働いているのかもしれない。

 

どうしたらこうしたエゴ意識から解放されることができるのだろう?

自覚して行動する ことだろう。

どのように自覚したらよいのか?

 

①  自分は今誰かをコントロールしたいと無意識に思っていないだろうか?

②  自分が居場所の良いところに(物心両面で)いることを自認しているように

   相手が居場所が良いところにいることを認めてあげているだろうか?

③  固定観念で”~しなければならない”と思っていないかどうか?

④  誰かと話すとき、その場所にいるとき、理由なく、怒りや恐れの感情が

   湧いてくるのなら、普段よりより、謙虚に話し、注意深く行動し、責めたり

   質問攻めにせずに、愛 を、思い出すことができるだろうか?

 

自分の信じる安寧な精神状態を持つ場を設けて、①から④まで静かに

反芻してみると、何が今起こっているのか、エゴ意識がどのように、自分を

駆り立てているのか、きっと、現状が良く見えてくると思う。

 

昨日、筆者は以前 ブログでも登場した、”デニーズで会ったAさん”

(トラの咆哮~詩編~)と久しぶりに会話した。

彼女と話すと いつも、その時起きている体験が相手の体験と

シンクロナイズされて、彼女の話を聞きながらそのまま自分の

体験に型押しできるような不思議な錯覚を起こす。

その電話の内容も例外ではなく、

”最近、機械のみならず、人の心も誤作動を起こすことが

多いみたいね。”

という話から

イエスの返事のつもりが、ノーと受け止められたり、真逆の

ことも最近起きているので”

とAさんが語った。

そういうときは

アクセルとブレーキを両方かけながら運転

しているようなもので、結局 車は進行できないのよね”

と言う。

 

まさに、エゴ意識とエゴ意識がぶつかるとき、引くにも、進むにも、

お互いエネルギーを失われるだけで、どんどん、アクセルをかけても

沼地に車輪が喰いこんでいくような状態になる。

Aさんが出した結論は、静かな時の中に、本当の愛ある自分を

みつめ、周りで流れていく、エゴ意識の潮流を眺めていようと

いうことだった。

それは自分のエゴ意識も含めて、その渦巻きに奔流されないよう

感情の、エネルギーの放出を観察していれば、きっと、

自然消滅していくだろうということでもあった。

 

ヴェーダの世界ではエゴの世界をこう見ている。

”時間の制約があり、一時的。

分裂(矛盾)していて、恐れに満ち、個人的、

自己中心的、自分のことばかり考えて、物事に

執着する。

快楽には飛びつくが、忍耐や苦痛には、きわめて弱い

 

一方、エゴ意識を超越している本来の自分の生命体は

”時間の制約がなく、永遠の時を知っていて、過去や未来から

束縛されることなく、全体的に観て、開放的。

無限供給世界だから、欲しいものは自然と手に入るし、

無限の愛に満たされているから、与えることに悦びを感じる。

活動的で、創造的、期待や執着はそこにはない”

 

パワフルな人と言う時2種類の意味が込められているだろう。

一つは、自分のことを中心に考えるエゴ意識が、パワーを持つ

ことで周囲から認められ、周囲に影響力を及ぼすことに快感

をもつために、パワフルにパワーを収得しようとした人。

そして、

エゴ意識から離れた人のパワフルと言う時の意味は、

創造力があり、人を癒すため、幸せにするためのパワーを持ち、

自分をエゴ意識から解放できたときの自由というパワーを

さす。

 

そんな人達は本来の自分と繋がることが、自由を得るという

ことだと知っているから、むやみに他者の意見に同調したり

非難に心を悩まされたり、賞賛に得意げになったりすることもなく

淡々と自分のするべきことをして、自分自身を信頼しながら、

外側のイメージに振り回されることが無いのだと思う。

 

こうして人はすこしずつ、エゴ意識を意識したときから

エゴ意識を消去する術(すべ)を 学んでいくのだろう。

 

 

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映画の一コマ、人生の一コマ、原理は一つ 

2014年07月07日 | 健康のための心の波動

”臨死体験のパノラマヴィー”考察 2014・7・7

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平成25年2月24日のブログに以下のような

ムーア博士が医療現場で体験した、患者の臨死体験レポートを

まとめたものが出ている。

すべての体験に”共通した要素” が いくつか、みられるという。

そこの部分をもう一度掲載させていただき、今日のお話しにすすめたい。

 

ムーア博士によると臨死体験をした患者の

共通した要素を、起きた順でたどると~

(1) 担当の医師からの 死を宣告 

(2) 長くて暗いトンネルを急速で、通過するような感覚。 

   耳鳴りの音や唸る音が、聞こえる。

 

(3) トンネルを抜けると、突然、自分の物理的肉体から、抜け出した自覚 。

(4) 傍観者のような、もう一人の自分。

    自分の物理的肉体を見下ろして、医師たちが物理的肉体を蘇生させるべく、  手を

   施しているのを観察している。 混乱する

(5) 今、自分の体の自覚ある自分は、先ほど抜け出した物理的肉体とは異質

   であることに気が付く。

 

(6) 今、ここにいる自分に会いに来てくれている人たち(亡くなった)に気がつく。

   と同時に、光のように輝く、暖かい、愛に満ちた存在が現れた。

   仮に 光の生命 と呼ぶ

 

                        

(7) 光りの生命 は 自分の一生を総括する質問を投げかける。

   その時、自分の一生に起きた事柄が一瞬のうちに 

   目の前にパノラマ写真の連写で再生。

(8) 自分 が 現世と来世の境目に来ていることを知る。 現世に戻らなければ

   とわかっているが、光の生命と出会ってから、安らぎと愛に圧倒されて、このまま、

   ここに留まっていたい誘惑

 

 

 

 

   

(9) 私の意識は再び、自分自身の物理的肉体と 同一化(蘇生)

としている。

 

ここで、(7)に述べられているパノラマ現象について、少し考えてみたい。

医学博士の 前出 ディーパック・チョープラ氏 は臨死体験における

量子学的に分子の中に見られる空間を占める波動を考えたとき、

次のように述べている。

 

”人々が臨死体験をするとき、彼らは一瞬、いつもより高い周波数で振動し

そして、通常の振動周波数に戻ってくるのです。

人はよく死ぬ最終段階において、ほんの一瞬の間に自分の一生を

眼のあたりにします。

それは、この体験が光速で移動するフォトン(光子)をとおして

生成されるからです。”

 

エレクトロン(電子)とフォトン(光子)の存在は物理学の中で

すでに証明されているのだが、それと パノラマ映画と

どう、関係あるかと、もう少し分かりやすく言い換えると

映画のフィルムのリールのコマに喩えに説明できるかもしれない。

 

映画のスクリーンではその情景が連続性をもって、自然に人が

動いたり景色が変わったりしているように見えている。

しかし、実際は映画のフイルムのコマの一コマ一コマの断続的映像が

有る速度で流れて、目の錯覚を起こさせて コマ切れの空白感を感じる

ことなく、連続的に情景が動いているように見える。

 

静止したコマと次のコマの間には 映写機をみればわかるように、

ほんのわずかな時間的オフの時間(スペース)があるのだが、

そのオフに気が付くことなく、私たちの眼はオン状態だけの部分を

つなぎ合わせて脳に一つの流れ有る事象として認識させている。

 

同様、テレビの画面で人物が動いていても、実際は

電子と光子が点滅したり、消えたりしているだけだ。

 

無色無受想行識・・・・まさに、映画やテレビの画面から受け取っている

映像は、感覚知覚器官のトリックといえそうだ。

 

私たちの知覚はオンを意識し、オフを認識しないから、こうした

トリックが成立している。

そして、覚者は、人生の出来事、悲しみや喜びも、感覚知覚器官の

トリックにすぎないと教える。

人生はマーヤ―(迷妄)だとか、リーラ(瞑想劇)だというのも

こうした考え方がそこにある。

 

連続性は意識の中だけに存在しているということにもなる。

話しを臨死体験の時に見るパノラマに戻すと、

すべての自分の軌跡の情報を持つ光子が点滅して次の光子が

また点滅しながら、一瞬のうちに 自分の犯した罪や為した善事、

人に与えた悲しみや人から受けていた恩寵、などなどが一瞬の

うちに眼前に映画のごとく展開されるというのだろう。

 

 

 

参考文献:

”かいま見た死後の世界” レイモンド・A・ムーディ・Jr. 中山 善之訳 評論社 昭和58年

レイモンド博士について: バージニア大学、大学院で哲学専攻

1969年 哲学博士号取得、 3年間 ノースキャロライナ東部の大学で教鞭をとる。

1972年 バージニア医学大学に入学。医学博士号を取得。 1965年 死後の世界の体験談を

聞き、その後、死後の世界体験者に面接。 特異な分野研究を行い今日に至る。

 

 

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時間の流れは知覚的錯覚

2014年07月04日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

瞑想と時の断絶        2014・7・4

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先回のブログで書いたように、

時間の流れは知覚的錯覚で起こるという

ことだったが、言い変えれば、時間を意識することは、

哲学的に“概念の始まり”ということもできるかもしれない。

時間は知覚的概念だからだ。

本質の中には時間の流れは存在しない。

 

私たちの本質が空、くう、永遠の一点であるのと同様、

私たちが生きているということは、この今の一点でしか

生きられないからだ。

今の延長線上なのだ。

今とは無限に続くのだと大師はいう。

この考え方は少々、飛躍的に聞こえるので

ここで詳細の解釈はしないが、

私たちの本質アートマが永遠の生命であるのと同様、

私たちの体験する今という瞬間は 永遠 という概念に

つながっているといえるだろう。

永遠とは概念ではないのだが、言葉で表すと

こうなってしまう。

 

“永遠に続く現在の点、その今”しか私たちには無いのだ。

 

“はっと息をのむほど美しく、その瞬間、時間が止まったかのようだった”

劇的な美との出会いに詩人は 時間が止まった瞬間と表現する。

時間という概念がなくなると、何が起こるのだろう?

 

先日NHKの教育テレビ(昔の)で、ミャンマーの山奥に籠って

座禅三昧を3年間続けて、自分の本質が青空のように、

雲のない状態であることを悟ったという 僧侶のインタヴューを流していた。

仕事をしながら、チラチラと引き付けられる言葉に耳を傾けていたので

残念ながらその御坊様のお名前も記憶にない。

もしかしたら、番組をご覧になった方もいるかもしれない。

その御坊様が語るには、私たち心の、本質は青空だから、

いろいろな雲が流れて行くのをじっとみていれば、

自然に雲は流れ去り、こだわりなく、あるがままで

いられるというような内容で、悟りの境地も斯く有らんと共感した。

 

雲とは、ここでは、肉体的コンディション、感情、様々な現世的・物質的な

ものや事象をさすのだろう。

それもこれも、生きて普通の生活の日常には誰もが面とむかわなければ

ならないものだ。

しかし、観想して、静かなひととき、自分の本質である青空を観じて、

深い瞑想に入って行けば、少なくてもその時はそうしたわずらわしさに

振り回される自分もいないし、必ず現れても去っていくものだと

わかっているから、たとえ煩わされる自分がいても、

達観することができるという。

まさに、時空のない点、空の点がここにあると思った。

時間の流れのない、

不生不滅、不増不減、の世界。

無色、無受想行識 の世界。

それらをあると勘違いさせる感覚機能も

無眼耳鼻舌身意 と否定できる 般若心経の世界は

決して空事でも絵に描いた餅でもない。

実存の世界なのだ。

 

世界というと何か広がりのある空間を想いださせるが

実際はその、永遠の空の点(今)しか実在していないのだ。

 

インドの大師は言う。

人が年を取って、死ぬ理由は一つある。

他の人が年取って死んでいくのを見ているからだ。“

 

言い変えれば、もし、私たちが死は肉体の死であって、魂は

生き通しであることを知れば、死ぬ という概念が全く違うもの

になるだろう。

そして、生の価値観も今とははるかに変わるだろう。

 

仏教でいう、唯心所現 は、私たちの心と体でも当てはまる。

私たちの今の姿は私たちの心の現れにすぎない。

老いていると思う人は老いた容貌になるし、人は魂だから、肉体が

勝手に老いることはないと思う人は、アンチエージングに成功するだろう。

 

物質的な世界と言葉で言っても、実際は一人ひとりの主観の

反映にしか過ぎない。

前出の  医師は次のように述べている。

“人間の心と体は意識の一部、共に考える知性の場である。

心と体は私たちの存在の毎秒ごとに、非局在的な表現である宇宙と

エネルギーと情報を交換しているのだ。

私たちはそれを無意識に行っている。

人は一日に平均6万の考えを持つ。

そして、今日考えたことの95%は昨日考えたことと同じと言われる。

つまり、無意識のうちに同じエネルギーのパターンを私たちは

創りだしているから体にも同様な身体変化を引き起こしていると思われる。“

 

”自分は体が弱い”ということを分析結論している人は

今日も 明日も、その考えを持ち続けるだろう。

何か劇的な変化を与えるインパクトが与えられ 魂がそれを受け入れない限り

その人は 体が弱いという現実をなかなかうちこわすことはないだろう。

しかも時間はあると信じているから、昨日も10年前もこうだったから、

自分は変わりようはないと未来に否定的な想いを起こす。

その想いは知性の場を通して体に司令塔からの情報のように隅々の細胞に

流されるからその人の肉体も、弱いと刻印を押されたままにとどまるだろう。

こうした想念を持っている限り、溌剌、活き活きした活力みなぎる細胞に

変わっていくということはあり得ないだろう。

今 しかない。

今、変わる、

今、想いを入れ替える。

そして、今、新しい自分を創る。

それが 生きているということの創造性にもつながる。

時空は無い。

時間は相対的であり、想いは主体性があるから 環境と自分の肉体を

創りだす。

 

 

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