100匹の猿理論と一人が変われば世界が変わるという話 2015・5・14
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アメリカのニューエイジ世代の代表的科学者を代表する
ライアル・ワトソンは“生命潮流”(日本語版タイトル・工作舎)を
出してベストセラーになった。
その中で、日本の宮崎県の東海岸に在る無人島の幸島で 天然記念物として
指定された日本猿を餌付けし、その餌にサツマイモを与えてある実験をした。
猿たちは、当初は泥のついている芋を手で落として食べていたという。
ところが、1953年のある日、一歳半のメス猿が、川の水で泥を洗い落として
食べた。すると、ほかの猿たちもこれを真似た。
それから4年後の1957年には、75%の猿たちが川の水で芋を洗うという
ことを常習化していた。ところが川の水が枯れたりして、猿たちは川水の
代わりに、海水で芋を洗うことを覚えた。
海水には塩分が含まれているから、彼らは味付けをして芋を食べる
知恵も得た。芋を海水に浸けて洗っては食べ、塩味をつけるためにさらに
浸して一口かじるという行動が見られるようになった。
その行為が その島で、慣習化したあるとき、遠く離れた大分県
高崎山の猿たちの中に、水で芋を洗う猿たちがいることが発見された。
こうした現象を科学的に分析して ワトソンはサツマイモを洗う猿
が一定数を達したときに、全く情報が伝わるはずのない離れた地に住む
猿にも その情報は、伝わるとし、その一定数を便宜的に‘100匹’と定めた。
ワトソンは仮説をたてた。”有る行為をする個体数が一定量に増えたとき、
その行動はその集団に留まらず、距離と空間を超えて、広がる”という仮説だ。
これを“百匹目の猿現象”と名付けた。
この仮説は1994年に学会で認められた。この仮説を基に、動物学者や
心理学者などは、様々な分野から実験を重ね、猿のみならず、哺乳類動物
全般、鳥類、昆虫にもあてはめられる現象であることが実証されてきた。
京都大学の霊長類研究所・今西綿司氏はこの猿たちの行為をフィールド・
ワークとして発見したのだが、その発見を‘百匹目の猿現象’と名付けたのが
ワトソンである。
彼がニューサイエンスの提唱者であったということに注目したい。
ニューサイエンスとは、心と体を分離したものとしてとらえる
二元論的、西洋的思想を反し、ユング的に、心と体は統一されたものだ
と考える思想を軸としている。
さらに、ワトソンはこの“100匹目の猿現象”理論を 人間の社会にも
あてはめられる原理と考えた。私たちの想念がエネルギーであること、
目には見えないが伝播して、他者の心に響くこと、その時は空間と距離
を超越しているということであることも、背景にあった。
例えば、ある思想に共感して、それに即した行動をする人たちが
一定以上になったとき、その情報は無意識に、無宣伝で、自然に社会全体
に伝達されていくという現象だ。
自分が変わったからといって、社会が変わるはずがない~と諦念でやる気
を失いがちなものだが、実は、自分の意識が変われば100匹の猿の一匹の
役割を自分がしているという 力強い自己想念への励ましとも
とらえられるだろう。
そして、その組織の1割の人の意識が変われば、その人の所属している
組織の考え方が変わり得るというのなら、自分一人の心情や信念は、あながち
無駄ではなく、社会を変化させることに役立つという認識も可能だろう。
イギリスの科学者 ルパート・シェルドレイクは ワトソンの理論に関連して
‘形の場による形の共鳴’という説を 1980年代初めに発表した。
それは、“生物の形や行動パターン、さらにこの世界の物理的システムは
‘形の場’の成立とその‘共鳴’によって、過去にそうであった形態に導かれ、
それを継承している”というものだった。
幸島の猿の例でいえば、初めの一匹が芋を洗う行動をすると、その形を
場として一つのフィールドができる。
そのフィールドは他の猿たちが真似をすることで強まり、波動を強めていく。
この波動の力が一定以上になったとき、つまり、より多くの猿たちが
こうした形を慣習化してさらに、場を強めたときそれは、フィールドの
エネルギーとなって、空間を超えて、他所に伝わるということになる。
ルパートは科学者であったから、社会学者や心理学者と異なり、
これを科学の世界にも応用しようとした。
つまり、こうしたフィールドの形成や共鳴作用は生物の形態や行動に
当てはまるのみならず、原子や微粒子のレベル、人の頭脳の中の意識や
知覚レベル、などのエネルギー形態伝達として当てはまるとしたのだ。
猿のイモ洗いは行動の伝達だった。
これを意識レベルにあてはめるのなら、人の思想や大衆的通念などの
意見構成に、フィールドの時空を超えた転換が行われる可能性がある
というのだ。
私たち、このブログを読んでくださって共鳴してくださる読者の方たち
にはこうしたことは
当たり前のこととして受け止められているだろう。
しかし、物質的唯物的論的意識には時空を超えて思想が伝わるというメカニズムは
非科学的にしか思えないものなのだ。
このルパートの考え方を基にすれば、ユングの‘集合的無意識’も理解できるし、
各個人の中にある、潜在意識の持つ罪意識や‘独りよがり的な価値観’
にもメスをいれることができるかもしれない。
私たちの周りには無数の情報と意識が飛び交っているのだ。
その形の場のエネルギーに取り込まれて、人は抵抗するだけの余力もなく、
戦争が始まったのかもしれない。そのエネルギーは年月をかけ、蓄えられて、
他所に同じ傾向のエネルギーが飛び火して、或るとき、或る条件が整ったとき、
戦争という形になるのだろう。
戦争を起こすのも、起こさないのも、結局、戦局で苦しむ前線の人たちの想念
以上に、遠く離れた私たちの日常の想念がものをいうのかもしれない。