終戦記念日に寄せて~純粋な創造 に向けて 8/15/2015
********************************
次のメッセージをお届けしたい。
数回にわたり、引用するもので、この出典は最後のブログの
ページに発表させていただきたい。
そのまま引用させていただく・・・・
”何にせよ、間違ったことは何もない。
間違っているというのは相対的な言葉で あなたがたが
’正しい’と呼ぶことの対極を示しているだけだ。
では’正しい’とはどういうことか?
貴方がは、本当に客観的に判断できるだろうか・・・・・・
日ごろ、自分自身の理解をもとに、何が正しく、
何が悪いかを決定している人達はほとんどいない。
重要なことになると、ますます、その傾向が強くなる。
重要なことであればあるほど、
誰か別の人の考えに従いかちだ。
そう考えると、あなた方の人生のある、領域をコントロール
する力を 完全に失ってしまった理由も、人生経験の中で
ぶつかる疑問も理解できる。”
質問① その領域や疑問は何をさすのか?
”魂にとって、とても重要な課題を含んでいる”領域だ。
”’神の本質’、’真のモラル’、’本当の現実とは何か?’、
’戦争’、’医療’、’堕胎中絶’’安楽死~生と死の問題’、
’個人の価値観やその構造’、’判断の実体’などだ。
こういう問題のほとんどをあなたがたは放棄し、
他人任せにしている。
自分で判断を下したくないのだ。
’誰かが決めるだろう! 私はついていけばよい。
それでよいのだ。’
とあなたがたは叫ぶ。
’何が正しく、何が間違っているか、誰かが教えて
くれるだろう。’”
”さて、殺害についてかんがえよう。
何かを殺す正確な理由は在るのだろうか?
自分で考えて観給え。
偉い人に教えてもらったり、難しい情報を与えられたり
する必要がないことはわかるだろう。
自分で考え、どう感じるかを見つめてみれば、
おのずから答えは出てくる。
それらに従って行動するだろう。
それが自らを権威として行動するということだ。”
質問② その反対は?
”他者を権威として行動すると、わけがわからなくなる。
国家は政治的な目的を達するために、人を殺しても
良いのか?
宗教は教義に従わせるために、人を殺して良いのか?
社会はルールに違反した者を殺して良いのか?
宗教的説得法として、社会問題の解決策として、
殺害という行為は適切か?”
③いまどきの集団的自衛権とやら・・・を考えると?
”さて、誰かに殺されそうになった。 その時、
あなたは相手を殺せるだろうか?
愛するものの命を守るために人を殺せるだろうか?
あなたが知りもしないものを守るためにはどうか?
殺されそうになって、ほかの方法で身を守れないとき、
自衛のために人を殺しても良いのか?
殺意のない人殺しと、計画的殺人とは違うのか?
国家は政治的課題を達成するために、正当な人殺し
はある、と信じるようしむけるだろう、
権力機構として、存続を維持するために、国家は
その言葉を信じさせる必要があるのだ。
宗教は、自分たちが定めている真実を広め、教えを
維持し、守らせるためには、人殺しもやむを得ない、
と信じるようにしむけるだろう。
権力機構として存続するために、宗教はその言葉を
信じろを命じる。
社会はある種の違反行為(その行為はいずれは、
時代によって変わるのだが)を犯した者を罰するために、
死刑を必要だと信じるようしむけるだろう。
権力機構として存続するために、社会はその言葉を
受け入れさせなければならない。
あなたはこうした主張が正しいと思うか?
他者の言葉をあなたは受け入れるか?
あなた自身はどう思うのか?”
質問③ どうなのでしょう・・・
間違っているのですか?
”こうしたことには’正しい’も’間違っている’もない。
だが、あなたの決断はあなたが何者かを映し出す。
実際、国家はその決断によって、それぞれの姿を
映し出してきた。
その決断によって、いつまでも消えない印象
を作り出してきた。
社会も、その決断によって、自画像を作り出してきた。
あなたは、今、自分の姿に満足しているか?
宗教の姿は、あなたが望んでいるモノか?
今の社会の自画像はあなたが何者か正しく 繁栄しているか?
・・・・・こういう疑問に目をむけてごらん。”
”人は自分で考えて選択しなければならない。
そういう選択~過去の知識にたよらない決断~それが
純粋な創造 と呼ばれるものだ・
そういう決定をしたとき、自分自身を新たに 造りだして
いることに気が付く。
あなたがたのほとんどは、この重要な仕事には関心がない。
他人任せで生きている。
だから、自分を創造せず、
’習慣の生き物’’外部から創られる生き物’に甘んじている。”
質問④ 習慣の生き物は困ったときはどうする?
”他人からどう感じるべきかを指示され、それが
自分の本当の気持ちとは違うと、深い心理的葛藤を
経験する。
本当のあなたは ’他者の言うことと、自分の想いとは
違う’と語りかけている。
それではどこへ行けばよいのか?
どうすればよいのか?
そこで、まず行くのは 宗教者(あるいは霊能力者や
占い師・・須田補足)のところだ。
あなた方は僧侶やラビ、牧師、先生(霊能力者や占い師
・・須田補足)のところへ行く。
大方、彼らは、あなたの心の声に耳を傾けよとは言わない。
ひどい人たちにいたっては、あなた方を脅し、脅えさせて、
直観的に知ったことさえ、捨てさせようとする。
彼らは 悪について、悪魔について、悪霊について、
呪いについて、考え付く限り、恐ろしいことを語り、
慰めを見出す唯一の場所は 彼らの思想、カンガエ、
教義であり、彼らが定義する正邪、善悪であり、彼らが
考える あなたの姿だと説く。”
自分の価値観を持ち、考え、自分自身でそうした
さまざまなことを決定する?
一隊 自分は何様のつもりだ?~という声が聞こえる。
そんな力は私にはない。まだまだ未熟だから。
”そう、お前は何ものか という問いに対して
あなたはいつかは答えることになる。
その仕事は、たった一人でしなければならない。
報酬も無く認められもしない。
気づいてもらえないかもしれない。”
質問⓹ そんな思いをして 何故 自分探しの旅を
続けなければならないのか?
”良い質問だ。
どうしてそんな道へ歩みださなければならないかって?
自己探求と創造の旅に出ることで、何が得れるのかって?
どこにそんなことをする理由があるのかって?
その理由は、ばかばかしいほど 単純だ。
’ほかにはどうしようもないから’” (引用以上)
皆さんは101匹の猿 の お話しを覚えておられるだろうか?
私たちが自分探し、創造的生き方 を追及していけば
池に落とした石の波紋が広がるように、 いつか、何かが
劇的に変わる可能性を示唆しているような気がする。
たとえば、私たちが心底、戦争を反対するという
気持ちがあるのなら、’経済的な発展のために
~戦争特需~’とか、’他国からの協力(特に米国)
が得られずらくなるから’とか、もろもろの資本主義に
生きる現世的構造の歪みの中でも、
純粋にそれを求めるのなら、
”今この瞬間、核兵器を捨て、地球のどこかで行われている
紛争を含め平和は突然訪れる” 日が来ることも夢ではない~
という気がする。
続く・・・