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指紋押捺拒否

2008年06月11日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟の皆様
 フィリピンで、ある特別の長期滞在のビザを受けるために、外国人は指紋押捺をしなければなりません。私も指紋押捺しました。指十本の指紋です。もし必要なら、足の指紋も喜んで押捺したでしょう。何故なら指紋押捺することは、天主の十戒に反する罪ではないからです。信仰に反する罪でもないからです。

 今年、アメリカ入国の際に、やはり指紋と目の彩孔をディジタル化して押捺・撮影しました。十年前は、ただ入国管理の職員に挨拶すればよかっただけでしたが、最近は法が変わって、そうなったのです。指紋だろうが、彩孔だろうが、顔写真だろうが、私はそうしました。何故なら、天主の十戒に反する罪でも、信仰に反する罪でもないからです。

 ところが、数年前、日本では一部の外国人司祭が、人間の尊厳の名前において指紋押捺拒否運動を展開し、司教団は一丸となってこれを支援していたことがあります。司教団は日本の入国管理法に従わない司祭を支援していました。このような一部の外国人司祭がビザを受けることが出来ないと、これに対して政府に抗議の声明さえ出しました。

 さて、今から二十年前に、アシジの諸宗教の集いを見て驚いたルフェーブル大司教が、カトリック信仰の存続のために、カトリック司教の義務として、司教の良心にかけて四名の司教を聖別しました。何故なら、アシジの祈祷集会は、天主の十戒の第一戒に反するもの、少なくとも、宗教無差別主義を助長するものだったからです。

 すると、日本の司教様たちのルフェーブル大司教に対する態度はどうだったでしょうか?

 何故、一見して似たような二つのことにおいて、正反対の態度を取るのでしょうか?

 良心に従ったと主張していたあの外国人司祭を支援したように、司教としての良心に従ったルフェーブル大司教を支援するべきだはないでしょうか?聖ピオ十世会の司祭たちを支援するべきではないでしょうか?

 一体、何故このように態度が違っているのでしょうか?

聖母マリアよ、我らのために祈り給え!
天主の御母聖マリア、我らのために祈り給え!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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