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指紋押捺拒否 その2

2008年06月12日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟の皆様、
 カトリック教会(天主教)は、洗礼の時に洗礼志願者にこう尋ねます。
「あなたは天主の教会に何を求めますか?」
 受洗者は、こう答えます。
「信仰を」
 何故なら、真の信仰こそ私たちの霊魂の救いを与えることができるからです。

 何故なら信仰無しには、天主によみされることは出来ないからです。カトリック教会は、信仰を最高の宝と考えます。信仰は、カトリック信仰を信じることのために、すべてを犠牲にすることさえ要求します。多くの殉教者たちは、天主の掟を守るために、人間の作った悪しき「法」を無視せざるをえない状況に追い込まれ、天主の掟と人間の悪法との選択を迫られ、天主を選んで殉教していったのです。これが信仰の特権です。真理である真の信仰だけが持っている特権です。天主の掟の第一戒は、すべての法に優るからです。何故なら真の天主を信じないことは罪だからです。これがカトリックの教え、旧教の精神です。

 アシジの諸宗教の集いを見たルフェーブル大司教が1988年6月30日にした司教聖別の基礎は、正にこのカトリック信仰でした。

 ところで、最近の司教団が取った指紋押捺拒否に対する連帯と、ルフェーブル大司教の司教聖別に対する排斥に、矛盾無き論理があるならば、次のようなものでしょう。

 霊魂の救いを忘れてしまうと、この地上の建設、この地上に楽園を作ることが「宗教」になってしまいます。この地上から苦しみを取り除く「メシア」を信じる「宗教」になってしまいます。

 カトリック教会の内部で、新しい教え、新しい「宗教」のようなものが生まれつつあるようです。それは、客観的な天主の代わりに、主観的な人間の良心を神のように礼拝し、神のように絶対視する教えです。

 人間が、そして人間の良心が神々となったとき、良心が法の超えるものとなります。だから、最近はやりの殉教者の説明は、真理のために殉教したと言うのではなく、良心の自由のために人格の尊厳のために殉教したと言うのです。

 人間の良心が神となると、人間の人格の尊厳を損なうことが「悪」となります。そのような「罪」は、絶対に避けなければならないことになります。

 だから、誰かにとって、指紋押捺が(たとえそれが、天主の掟に逆らうものではないとしても)、その誰かの人格の尊厳を傷つけるものであると判断されるなら、自由を傷つけるものであると主張されるなら、それを押し付けることは悪となり、従って、拒否すべきものとなるのです。差別された人格の尊厳の回復のために連帯して闘うことを当然とします。

 極めて民主主義的な新しい教え、新教がこう尋ねたら、その信徒に次のように答えることを求めるでしょう。
「あなたは、新しい教会に何を求めますか?」
「押し付けられない私の良心を」

 ここにおいて、2つの別の教えが現れてきます。一方は、客観的真理の信仰を教え、他方は主観的良心の自由を教えるのです。つまり、天主が人間となったカトリックの宗教である天主教(旧教)と、人間が神となる民主主義的な新しい教え(新教)と言うことができるでしょう。

 新教は、神となった人間の尊厳が冒されたのを見ると連帯するのです。しかし、アシジで天主イエズス・キリストの尊厳が
冒されても連帯感を感じなかったのです。

 だから、指紋押捺拒否と、カトリック聖伝の信仰のためにルフェーブル大司教が4名の司教を聖別したこととは、一見して似ているようで、非なるものだったのです。

 一つは旧教、もう一つは「新教」の行動だったのです。


イロイロ、サンタ・バルバラにて

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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