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シェアン司教様の「護教」の中から「教皇の不謬性に関するまちがった考え」

2008年06月28日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 シェアン司教様の「護教」の中から、「教皇の不謬性に関するまちがった考え」という項を引用します。ご参考までにどうぞ。

教皇の不謬性に関するまちがった考え

 あるおかしな誤解をまず是正しておきたい。・・・教皇の不謬性というのは、教皇が罪をおかしえないとか、教皇には罪がないとかいうことではない。教皇が教えに関して不謬であるということは、行為において罪をおかしえないということではない。

 この点に関するかぎり、教皇といえども、わたくしたちとすこしもかわりなく、聖パウロのことばのように、「自分のからだをくるしめてこれを奴隷にし」自分の救霊のために心配しなければならないのである。それは、「他人にのべつたえながら、自分がすてられることをおそれる」からである。

 また、教皇の不謬性には、あたらしい啓示をつくりだす権利が包含されているわけでもない。すなわち、以前には、まったく知られていなかった天主の真理を、人びとに披瀝する権限があるという意味ではない。キリスト教の啓示は、みな使徒たちに与えられている。教皇はそれに何もつけくわえることなく、不謬権をもって、単に説明するにすぎない。また、教皇の不謬宣言は神感をうけているわけでもない。なぜなら、神感には、ふたつの要素があるとされている。すなわち、(a)著者とか、はなす人とかが、天主の感動によって、著作しよう、はなそうという意志をおこすこと、(b)書いているときに、またははなしているときに、天主自身がのぞむことを表現するように、それ以外のことを表現しないように、天主のみちびきをうけること、である。それで、神感によってできあがった著書、あるいは話しの著者または責任者は天主である。教皇の決定に関する責任者は天主ではない。しかし、天主が教皇を誤謬におちないようにまもるのである。


教皇の二重の教権

 教皇には二重の教権がある。すなわち、ひとつは、至上教権あるいは不謬教権であって、もうひとつは、普通教権である。教皇が普通教権をもって、わたくしたちにおしえるときには不謬ではなく、もちろん、信仰の同意を要求して、わたくしたちを、いわゆる、つなぐことはない。しかし、一般的な、しかも安全な見解にしたがうと、教皇の教えは、内面的な宗教的な賛意をもって、これをうけいれるべきものとされている。

 この義務は、①わたくしたちが子供として、正当な教会の長上にたいして、当然もつべき恭順の精神からでてくるもので、②教皇という偉大な権威者のまえに、わたくしたちの見解を対抗させるという愚行をあえてすべきではないという賢明な考えかたである。教皇は、天主から与えられた聖務のゆえに、聖伝にくわしく、おおくのすぐれた神学者たちを相談相手にもっている。万が一にも、ことがらの性質上、といっても、めったにないはずだが、教皇が晋通教権によっておしえたある点に関して、正当な疑問をおこす理由があると考える学識あるカトリック者がいるなら、かれは、これを教皇に具申してさしつかえない。しかし、あくまでも個人的に、尊敬をうしなわないように注意し、最後の決定にはよろこんでしたがう覚悟をもって、特に従順の精神を用意しなくてはならない。


教皇の不謬権に関する反対論

 プロテスタントは、四人の教皇をあげて、かれらが誤謬をおかしたと主張する。すなわち、パウロ五世、ウルバノ八世はガリレオを破門したかどで誤謬をおかした。それから、リベリウスとホノリウスは、いずれも異端におちたという。リベリウスはアリアニズムの異端におち、ホノリウスはモノテリズムの誤謬におちたと主張している。以上の反対論をしらべるまえに、まずあきらかにしておかなければならないことは、これらはいずれも、教皇の不謬権とはなんら関係がないことで、不謬権行使に必要とされる条件が、すこしもそなわっていなかったということである。


パウロ五世、ウルバノ八世とガリレオの場合。

 パウロ五世は一六一六年に、ウルバノ八世は一六三三年に、ローマ聖省と禁書目録をもって、ガリレオ(一五六四年~一六四二年)の学説を、異端説なりと宣言した。その学説というのは、太陽はうごかず、地球が毎日太陽のまわりをまわるとする学説であったが、もし、ガリレオが、さしでがましくも、ヨズエ書(一〇ノ一三)の註解に口をさしはさみさえしなかったなら、たしかに、なんらの懲罰もうけなかったろう。同書には、太陽が停止したという記事がある。いうまでもなく、かれは、かれの学説のために長いあいだ、精神的なくるしみをへなくてはならなかったという意味でくるしんだわけだ。しかし肉体に対する刑罰ということになれば、反対論者たちが喧伝するような処置、いわゆる《拷問》をうけたこともなく、《牢にいれられた》こともない。短期間の禁足をいいわたされたことはあるが、それも礼を欠くほどのものではなかった。コペルニクス(一四七三年~一五四三年)とクザのニコラス枢機卿は、天文学の研究ではガリレオの先輩で、大同少異の学説を提唱した人たちではあったが、何も問題をおこしてはいない。いずれにしても、ガリレオの場合は教皇の不謬性には、なんら関係のない問題であった。なぜなら、教皇は、これを聖座から宣言したわけではないからである。

 教皇は、不謬権を聖庁の一聖省にゆずりわたすことはできない。教皇が、不謬権をつかう場合には、教皇自身、全教会にたいして、ある教義を宣言し、信仰の内的受諾をもって、これをうけいれることを要求しなければならないからである。これらの必須条件は、教皇パウロ五世の場合にも、教皇ウルバノ八世の場合にも、何ひとつなかった。そのうえベルラルミーヌス枢機卿(一五四二年~一六四二年)がいっている言葉から考えてみても、この間題に関する決定が、改変できない決定ではなかったことが明瞭にされている。ベルラルミーヌス枢機卿は、ガリレオが破門された当時、聖省の幹部のひとりで、いまでは列聖されて、聖人である。かれは、ガリレオの友人フォスカリーニに手紙を書いているが、これによると、そう見えるからといって、聖書が矛盾しているという論争をおこしさえしなかったなら、天体の現象をもっともよく説明するあたらしい体系を提唱したからとて、なんら反対するわけではないと記し、さらに、「わたくしがいいたいのは、太陽が動かず、静止していて、地球の周囲をまわっているのではなくて、反対に、地球が太陽の周囲をまわっているということが、実際に証明されたならば、これとは反対に見える聖書の記事を註解するには、きわめて慎重な態度ですすまなくてはならないということである。なぜなら、聖書がまちがっているというよりは、聖書を正しく理解していないというほうをむしろ採るべきなのだから」という。・・・(中略)・・・


教皇リベリウス(三五一~三六六)の場合

 教皇リベリウスは、アリウス一派の信条の認可をことわったために、コンスタンチーヌス大帝によって流罪にされた(三五五年)。それから二年後に、ローマへの帰還をゆるされた。ある人びとは、もっとも、ほかに、おおくの権威筋がこれを否定してはいるが、教皇が自由の身になったひとつの群由は、教皇が皇帝の要請をうけいれたからだ、という。

 しかし、たとえば、教皇が、皇帝の要請した信条に、署名したことが事実であったとしても、①そのなかに異端的な教義がふくまれていたという証明がないかぎり、すこしも問題にはならない。事実、アリウス一派の主張が、全部誤謬であったわけではないからである。①こういう場合、教皇は、全教会の教導者として署名したのではない。かれは、署名を強要された、一囚人にすぎなかった。こういう環境におかれた場合、教皇に、信者の良心をつなぎとめる意向があったとはいわれない。


教皇ホノリウス(六二五年~六三八年)の場合。

 教皇ホノリウスは二通の手紙を書いている。一通をモノテリタ派の代表人物セルスジウスに、もう一通をオルトドクス派の代表者ソフィロニウスにそれぞれ送った。教皇はこの手紙で、《キリストにはひとつの意志あるのみ》と宣言し、これ以上、論争を継続してはいけないという命令をだした。コンスタンチノープル公会議(六八〇年~六八一年)は、教皇ホノリウスに異端宣言を投げた。この場合も、教皇の不謬権にはすこしも関係がないことに注意してもらいたい。

①教皇ははっきり、《わたくしは、キリストに、単一の行為しかないのかどうかかをいう問題を決定しようとするものではない》といっているのであるから、聖座からの決定を公布したのではなかった。教皇は、この問題に関する、セルジウスの誤報のゆえに、論争が単なる用語上の問題であると見た。それで《文法学者によって決定》されるべきものと考えたのである。

②かれのことばには、オルトドクス的な意味にとられるものがある。その理由は、セルジウスが、かれの反対論者たちの主張であるといって誤報した、《キリストには、ふたつの相反した意志がある》という間違った教義を反駁するために書かれたからである。

③コンスタンチノーブル公会議の決議は、教皇ホノリウスの指導方法の非を指摘したものと見られるもので、教会の頭としての教皇の教えが誤謬だというのではない。この点に関しては、教皇レオ二世のことばを見るとはっきりする。教皇レオ二世はこれを説明して、わたくしがこの決議を裁可したのは、教皇ホノリウスが《異端説胎動のきざしがあったのに、これを抹殺するつとめ》をおろそかにしたからであるといっている。公会議の決裏が不謬性をもつようになるのは、教皇がこれを確認した場合だけである。コンスタンチノープルの教父たちが、はたして現今の意味における厳密な意味で、教皇ホノリウスに異端の刻印をおす意向があったかどうかについては、いまなお論議されていて、確定してはいない。つかわれていることばだけから考えると、その当時、はっきりした教えを公表せず、異端者とか、離教者とかに好意的な行動を示す人にいわれる表現にすぎない。



【コメント】

 ヨハネ・パウロ二世教皇様が、アシジの集会を催したとしても、コーランに接吻をしたとしても、個人的に全ての人々が自動的に救われていると信じていたとしても、だからといってこれがカトリック信仰のドグマになるわけではない。

 教皇様は不可謬である(それは第一バチカン公会議で宣言されたようにカトリックのドグマである)が、その不可謬性のためには第一バチカン公会議の定めた条件が満たされなければならない。

 教皇様の不可謬性とは、教皇が罪をおかしえないということではないし、教皇様があたらしい啓示をつくりだす権利をもっているということでもない。

 教皇様は、キリストの教えに従わなければならず、そうしなければ教皇様といえども罪を犯すことになる。教皇様はキリストの教えに反対するような昔なかった新しい教えを作り出して、それをカトリック教会に押しつけることは出来ない。

 ところが、ヨハネ・パウロ二世は1988年7月2日「エクレジア・デイ」のなかで、第二バチカン公会議には「新しい教え」があり、この新しい教えは「教会の一部でよく理解されていなかった」ほどの新しいものであった。従って、このような教えは教皇の不可謬性にかかわるものではない。

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