第12章 公会議の嵐に直面して
I. 中央準備委員会委員
最初の小競り合い
すべての公会議教父たちと同じく、ルフェーブル大司教は教皇によって指名されたいろいろな準備委員会の顧問の名簿 [1960年6月に指名された名簿のこと。Documentation Catholique, 1346, 267 sq. 完全な名簿は Documentation Catholique, 1367, 67 sq. にある。] を受け、それを注意深く読んだ。 1961年 6月 15日、中央委員会の第一会期が開かれる間、彼が発言する番になると、------ たった一人であったが ----- 公会議の規定と公会議で実際にやっていることとの間に矛盾があることをためらわずに告発した。
「公会議の神学者及び教会法学者たちに要求される基準について言うようならば、確かに顧問たちがすでに明示したように、 彼らはまず教会の心(sensus)を持たなければならず、すべての教皇文書に入っている歴代教皇たちの教理に、全くの心をつくし、言葉と行動とにおいて指示しなければならない、とある。
私のつたない意見を申し上げれば、準備委員会名簿には、この顧問たちが要求した基準を満たすことができない神学を持った数名の神学者たちの名前が掲載されているのを読んで私たちは大変驚いたので、この原則をもう一度繰り返して確認する必要がある。」
[Acta et documenta de concilio Vaticano II apparando; Polygl. Vat. series II (praeparatoira), vol. II, pars I, 316]
実際に、顧問の中で少なくとも三人が教会当局から叱責あるいは制裁措置を受けた事があった。[イヴ・コンガール、アンリ・ド・リュバック、カール・ラーナーのこと]
ルフェーブル大司教はこう言った。
「あの時にオッタヴィアーニ枢機卿は私の所見を取り上げませんでしたが、会議が終わってから茶話の間、彼は私の腕を取ってこう言ったのです。 『よく分かっています! しかし何をしろというのでしょうか。教皇がそれを望んでいるですから。教皇は、有名な専門家を望んでいるのです。」
ルフェーブル大司教は後に教皇ヨハネのこの決定に対して、こう評した。
「ヨハネ二十三世は規律を守らない傾向があった。もしかしたら彼の頭はとても聖伝的であったかもしれない。しかし、彼の心は絶対にそうではなかった。極めて広い視野の意見を持っているという美名の下に、彼は自由主義精神の手の内に入って行った。そして [後ほど] 公会議の難しさを論ずる時には、自分の対話の相手の人々に『全てがうまく行くだろう、皆が同意するだろう』と自分は確信していると言った。ヨハネ二十三世は、誰かが悪意を持つことがあり得たとか、油断してはいけない、という考えを受け入れることを望まなかった。・・・ 同じように、ヨハネ二十三世は、検邪聖省が断罪した専門家たちを選定すると言い張った。そのような決定のため引き起こされた混乱にもかかわらずそう主張した。」
1961年 11月から中央委員会は委員会らが用意した概要を調査して討論し始めた。ルフェーブル大司教は概してそれらに‘賛成(placet)’の投票をした。
後にルフェーブル大司教は次のように言った。「公会議は準備委員たちを通じて、出来るだけ長い期間教会から誤謬を追い出すために、 [近代の] 間違いに対立する真理を宣言する準備をしていた。... それは今日の世界において光になる準備をした。もしも、現代の問題に関して健全な教理に対する荘厳な信仰告白があった公会議以前の原文が活用されたなら、教会はこの世の光になったはずだった。」
ルフェーブル大司教は、教会が誤謬と争わなくては信仰の遺産を守ることができないと考えた。
そこで 1962年 1月 20日、オッタヴィアーニ枢機卿が「信仰の遺産を純粋に守る」という概要を紹介し終わると、大司教はこう宣言した。「公会議は現代の誤謬に関して発言しなければならない。---- 私たちに何らの原則がないなら、信仰をどうやって守ることができるだろうか?」
1月 23日、ルフェーブル大司教は公会議が二つの種類の文書を作らなければならないと提案した。すなわち、「正確にほとんど学問的に」現代の誤謬を拒否する「排斥文 canon」付属の提案された概要に加えて、公会議は「幾多の委員会員たちの考えに従って... 私たちの救世主イエズス・キリストとその神秘体である教会の外には、いかなる救いも不可能であることが明らかに分かるような」贖いについての全キリスト教的計画を総合した短い文書を「もっと肯定的に」起草することもできるだろう、と提案した。
[Acta et documenta de concilio Vaticano II apparando; Polygl. Vat. series II (praeparatoira), vol. II, pars II, 417 - 418]
既に自由主義的な教父たちの狡猾な批判がルフェーブル大司教を心配させた。 1月 20日、アフフリンク(Alfrink) 枢機卿は、オッタヴィアーニ枢機卿の概要を「一つの哲学派にとらわれている」と批判した。ベア枢機卿はこの文書の「スコラ哲学的な言い回し」を攻撃した。大司教はこの第二次準備期間の間に、自由主義者たちが自分たちの好みではなかった全ての概要を無きものにしようとしていることを見越した。そこで、ルフェーブル大司教は、上のような大胆で独創的な提案をしたのだった。自由主義者たちは馬鹿ではなかったから、マルセル・ルフェーブルを見て、自分の作業を邪魔する敵に出会ったということが分かった。多くの教父たちがそうだったように、オッタヴィアーニ枢機卿はルフェーブル大司教の考えに賛成してそれをほめたたえた。残念なことに、彼らはこれ以上には何もしなかった。
次の会議でも、またその次の会議でも、まったく同じ事が起こった。各概要がそれを起草した委員会の議長によって提示されてから討論が公開されると、普通は枢機卿たちが討論の議長となった。
一方にはリエナール、フリンクス (Frings)、アフフリンク、ドプフナー (Dopfner)、ケーニッヒ (Konig) 及びレジェ (Leger) がいた。他方には、ルッフィーニ、シリ (Siri)、ララオナ及びブラウン (Browne) がいた。 6対4だった。
ルフェーブル大司教はこう説明した。「出席していた会員の全てにとって、教会内に分裂があることがあまりにも明らかであった。それは偶然に起きたのでもなく、表面的なものでもなかった。深刻な分裂でだったし、枢機卿たちの間の分裂は、大司教や司教たちの間の分裂よりももっと深刻だった。」
時に、これらの会議において、マルセル・ルフェーブルの発言はもっと多くなった。数週間前にあらかじめ受け取った概要を読みながら発言を準備し、或いは、会議の間、自由主義派の教父たちの発言を聞きながら自分の発言を書いて準備した。
真剣ながらも超自然的な精神で、大司教は教会の教え (sensus Eclesiae) の声を表明するために、立ち上がって的を射る見解を発言した。
そうして 1962年 1月 17日、アロイジ・マセッラ (Aloisi Masella) 枢機卿の準備した叙階の秘蹟に関する概要が、助祭妻帯に関する考えを提案すると、ルフェーブル大司教はこう意義を申し立てた。
「私たちの宣教地区では、この新しい慣習が、司祭妻帯へと行く道の第一歩と解釈されるとおもわれる。これは、不可 (quod non placet)。それだけではなく、そのようになればまさしく司祭職に対する召命の数を減らす危険を犯すことになる。他方、私は永久助祭に関する新しい考えは気に入った。」
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第12章 公会議の嵐に直面して
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