旅と言うのにはちと大げさだけど、今日 着物の会の研修旅行で群馬県の富岡製糸所と碓氷製糸所の見学に行ってきた。
このとおりユネスコ世界遺産の暫定リストの国内登録がなされてるわけです。
今まで世界遺産といえば 万里の長城とかピラミッドとかのイメージがあり、ただこの煉瓦造りの建物が世界遺産ってちょっと役不足と思っていたのだけど どっこいこちらは色々深い意味のある所だったと今日は認識した。
富岡製糸所は 明治5年に明治政府が殖産興業の一つとしてこの地に設置した官営の製糸所である。その建物がそのまま残って今にいたる。壁にかけられたキーストーンには明治5年の文字
そして明治政府はこの工場設立の基本として
1)西洋式の製糸器械を導入する
2)外国人を指導者とする
3)全国から工女を募集し、伝習を終えた工女は出身地へ戻り地元の指導者とする。
という考え方を示し、理念とした。
時の政府側は 伊藤博文 大隈重信ら そして尾高惇忠が創立責任者となり、フランス人のポーリュ・ブリューナを首長として建てられた。設計はやはりフランス人のバスチャン。器械、技術者、医師なども ブリューナがフランスから伴い、フランスの技術で日本の材料をもって建設された。
繭の倉庫 石の基礎の上に木骨煉瓦造り フランス式の煉瓦の積み方。
男性と女性の技師たちの宿舎。後に食堂になったり貴賓室(皇族もたびたびこの地を訪れた)になったりしたらしい。コロニアル様式の建物。
ブリューナ館 彼と家族と住んだ320坪の広大な屋敷が工場と隣接して建てられている。その後こちらで働く工女たちの婦女子教育がなされた学校としても使われた。
繰り糸場内部はと言うと広い工場内部柱がない。トラス工法という小屋組みで重量を支えている。
官営工場でなくなってからは 三井製糸→原製糸→片倉工業と受け渡されて、最後に操業していたのは片倉工業 その当時のままになっている製糸の器械。
当時は
こんな感じの器械(300台あったらしい)があり
こんな感じで工女たちが働いていたのであろう。
製糸工場というと ああ野麦峠とか女工哀史とかが思い浮かぶが、こちらの製糸工場の官営時代は一切そんなことはなかった。
工女たちは士族の娘たちが集められ、当時としてはいい給料、食事、宿舎、一日8時間労働で週休があり、病気になれば敷地内の診療所で診療も受けられ、夜間の教育施設も完備されるという環境であった。
実際 設立に携わった 尾高の娘も働いていたほどであったらしい。
そして工女たちはここで習得した技術をもって故郷に帰って土地の人たちにここの技術を教えた。
代表的なのは 富岡日記を 記した 横田(和田)英
当時15歳で働きにきて、とても優秀な工女だったらしい。
こちらでは学芸員の人の説明が聞くことができて、今まで着物の会での先生の講義などと総合して この工場の果たした役割というのがとてもよくわかった。
単にレンガ造りが現存している明治時代の工場と言うだけでなく、時の政府が掲げた殖産興業の理念のいしづえになったこと。 そして時の政府が行った外国から積極的に技術を取り入れ、それを国内の生産にどう繋げていこうかという明確な計画性により運営されていたこと。
そして、それを実際に担ったのが 20歳前後の少女たちの技術だったこと。
なんとも考えさせられた感慨深い見学だった。
ホントに明治政府って偉かったのね。鎖国の後で何もかも諸外国に遅れていたのに追いつこうという進取の気性って意味では・・・
それに比べて今の政治家って情けないねえなんてことも頭をよぎったけど、この後お昼を食べて 碓氷製糸所(現在日本で動いている器械での製糸所の最後の二つのうちの一つ!)を訪ねて ものすごくショックを受けたので 続きはまた明日に。
このとおりユネスコ世界遺産の暫定リストの国内登録がなされてるわけです。
今まで世界遺産といえば 万里の長城とかピラミッドとかのイメージがあり、ただこの煉瓦造りの建物が世界遺産ってちょっと役不足と思っていたのだけど どっこいこちらは色々深い意味のある所だったと今日は認識した。
富岡製糸所は 明治5年に明治政府が殖産興業の一つとしてこの地に設置した官営の製糸所である。その建物がそのまま残って今にいたる。壁にかけられたキーストーンには明治5年の文字
そして明治政府はこの工場設立の基本として
1)西洋式の製糸器械を導入する
2)外国人を指導者とする
3)全国から工女を募集し、伝習を終えた工女は出身地へ戻り地元の指導者とする。
という考え方を示し、理念とした。
時の政府側は 伊藤博文 大隈重信ら そして尾高惇忠が創立責任者となり、フランス人のポーリュ・ブリューナを首長として建てられた。設計はやはりフランス人のバスチャン。器械、技術者、医師なども ブリューナがフランスから伴い、フランスの技術で日本の材料をもって建設された。
繭の倉庫 石の基礎の上に木骨煉瓦造り フランス式の煉瓦の積み方。
男性と女性の技師たちの宿舎。後に食堂になったり貴賓室(皇族もたびたびこの地を訪れた)になったりしたらしい。コロニアル様式の建物。
ブリューナ館 彼と家族と住んだ320坪の広大な屋敷が工場と隣接して建てられている。その後こちらで働く工女たちの婦女子教育がなされた学校としても使われた。
繰り糸場内部はと言うと広い工場内部柱がない。トラス工法という小屋組みで重量を支えている。
官営工場でなくなってからは 三井製糸→原製糸→片倉工業と受け渡されて、最後に操業していたのは片倉工業 その当時のままになっている製糸の器械。
当時は
こんな感じの器械(300台あったらしい)があり
こんな感じで工女たちが働いていたのであろう。
製糸工場というと ああ野麦峠とか女工哀史とかが思い浮かぶが、こちらの製糸工場の官営時代は一切そんなことはなかった。
工女たちは士族の娘たちが集められ、当時としてはいい給料、食事、宿舎、一日8時間労働で週休があり、病気になれば敷地内の診療所で診療も受けられ、夜間の教育施設も完備されるという環境であった。
実際 設立に携わった 尾高の娘も働いていたほどであったらしい。
そして工女たちはここで習得した技術をもって故郷に帰って土地の人たちにここの技術を教えた。
代表的なのは 富岡日記を 記した 横田(和田)英
当時15歳で働きにきて、とても優秀な工女だったらしい。
こちらでは学芸員の人の説明が聞くことができて、今まで着物の会での先生の講義などと総合して この工場の果たした役割というのがとてもよくわかった。
単にレンガ造りが現存している明治時代の工場と言うだけでなく、時の政府が掲げた殖産興業の理念のいしづえになったこと。 そして時の政府が行った外国から積極的に技術を取り入れ、それを国内の生産にどう繋げていこうかという明確な計画性により運営されていたこと。
そして、それを実際に担ったのが 20歳前後の少女たちの技術だったこと。
なんとも考えさせられた感慨深い見学だった。
ホントに明治政府って偉かったのね。鎖国の後で何もかも諸外国に遅れていたのに追いつこうという進取の気性って意味では・・・
それに比べて今の政治家って情けないねえなんてことも頭をよぎったけど、この後お昼を食べて 碓氷製糸所(現在日本で動いている器械での製糸所の最後の二つのうちの一つ!)を訪ねて ものすごくショックを受けたので 続きはまた明日に。