卯の花の残り香を聞き草を刈る
塩飴を舐めて汗拭く刈り払い
草を刈る娘は居らぬ里の初夏
刈り払い矢玉のごとき群れとんぼ
去年今年性懲りも無き刈り払い
卯の花の残り香を聞き草を刈る
塩飴を舐めて汗拭く刈り払い
草を刈る娘は居らぬ里の初夏
刈り払い矢玉のごとき群れとんぼ
去年今年性懲りも無き刈り払い
卯の花の盛りも過ぎたのだろう、樹に触れると雪のごとく花びらが落ちてくる。それでも多くの花は蜜を出しているようで昆虫の訪問が絶えない。花の咲いたネズミモチの様にミツバチの羽音がうるさいほど飛来するわけでも無いけれど、訪問する昆虫の種類は多い。
花によって呼ぶ昆虫が異なるのが見て取れるが、花が選ぶのか昆虫が選ぶのか、おそらく相互作用で決まるのだろうが面白い。
「卯の花の匂う垣根に…」なんて唄っても、周囲に知る人のいないのは寂しい。人がいない事より周知の歌でなくなったことが文化の衰退に思えるのだ。唱歌なんて流行らなくなったが、世代を超えて共通理解が出来る文化的な事は減る一方で、唱歌ない…か。秋葉四十八子の歌も良いけれど、世代の相違を超え、あるいは人生の折々に思い出して歌える歌でもない。
今日もトンボ池のほうから歓声が聞こえる。聞くと「ドロンコ遊び」をしているのだとか。小生等は棚田の始末でドロンコで帰ってきたが、期待をもって見に行ったら拍子抜けした。入りたいのは山々だけど、葛藤していたみたいだった。
そこで少々煽ってみたらようやく水中で遊び始めた。好きな事をしている子ども達は元気が良いのだが、こんな遊び方は、この規模の水辺の中では幼児までが許容範囲だ。
水辺に命を委ねている生物にとって多少の攪乱は活性化の元だけれど、小学生にもなると環境破壊のウエイトが高くなるし、この鼠の額のような環境下では、しっかりと学ばなければならない環境教育の行動課題は多々ある。
フイールドで見ていると、その辺の斟酌が出来ない大人や指導者が多い。学齢児を幼児と同列で遊ばせて良い訳は無い、この点は譲れない。