おかんのネタ帳

日々の雑感や興味のあることを書いています

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2006-06-03 21:53:12 | 日々のつれづれ
しばし書き込まない間に、6月に入りましたね。田んぼの稲の瑞々しい緑と、黄金色の麦のコントラストに、つくづく夏を感じます。植物が生き生きとする季節です。「人は一人では生きて行けないですよ。支えあって生きているんだから、人との繋がりは大切にしましょう・・・」 私が応援する某美形若手俳優の「彼」が、最近、HPに載せていた言葉です。若い「彼」がどこまでこの言葉を実感してるのかわかりませんが、ここ数日の私は、本当にこの言葉を実感しています。

30日の午後、母は逝きました。満80歳でした。
母が生まれたのは四国の徳島。祖父は商売をしてたらしいです。いわゆる田舎のよろずやさんなんやけど、店は祖母に任せて行商してたらしいです。
跡継ぎである長兄は戦死し、小説家やったとかいう次兄は「アカ」の嫌疑を掛けられて投獄され、胸の病で病死したとか。(ちょっと小説がかってるな・・・ホンマなんだか?) 3番目の兄は私もよく知ってるんやけど、ラグビーで知られる神戸の某大手企業を定年まで勤め上げ、阪神・淡路大震災の前年に亡くなりました。
母は末っ子で、祖父は早くに亡くなり、兄や看護婦をしてた大姉に育てられたようなものとよく言ってました。私を良く面倒見てくれたという祖母は、私が3つの頃に亡くなったようです。私は覚えてないんやけど。
女学校時代の母は林芙美子にあこがれて、姉に反対されたのにもかかわらず、どうしても女中奉公がしたいと、地元のお医者さんの娘夫婦の家に「上女中」として住み込んだらしいです。
そのお医者さんの家は、代々、娘に養子をとらせて跡を継がせてる家で、その娘さん夫婦は、養子に迎えた人がまだ京大の医学生やったので、京都で暮らしてたんですね。
母は、あこがれの京都の百万遍あたりの一軒家で暮らす若夫婦の家で、学生帽をかぶり、腰に手拭いをぶら下げた京大生がたむろする古本屋に、自分も出入りできることがうれしかったようです。
でも、その生活は3ヶ月ほど。大姉に呼び戻されたんですね。「女中なんてせんでもよろしい」。林芙美子にあこがれてた母の「夢の生活」は、これで終わったんやけど、亡くなる前日にその話をしてましたよ。「私は、百万遍に住んでたんやから」。
戦況がきびしくなるなか、母が勤めていたのは「ラサ工業」の大阪工場(「ラサ」って言うてたんで、多分この会社やと思います)。
大阪大空襲があったときは、鳥取に疎開してたらしいです。

戦後、タイプライターを習い、洋裁を習い、とにかく、何でも積極的な母でした。
父には、「私が惚れたんよ」と、亡くなる前にお医者さんにも言ってたらしいけど、ホンマにそうです。叔母(母の大姉)が、「この人やったら、好きになってもしゃあないな」って思うような父やったらしいのですけどね・・・

母が亡くなった時、写真とか何も用意してなくて、みんなでどれにしようかと探してたんやけど、その時に見つけたんですね。
男前な父と、女優のようにシナを作る母のツーショット。
棺に入れようかと思ったけど、あまりに二人がカッコいいんで、私の思い出にとっておくことにしました。

棺には、母が愛したものを入れました。
父の写真、小唄の楽譜、稽古三味線、指すり(三味線用)、想い出の小唄の会のパンフ、私が作った小唄おさらい会のパンフ、小唄の歌詞帳、メガネ、父に最後に買ってもらったバッグ、阪神の応援グッズ・・・小唄の家元やお弟子さんら仲間の方が送って下さったお花もいっぱい。

親兄弟も、父もすでにいないのに、80歳の母をたくさんの人が送ってくれました。
残された家族に、たくさんの声かけをいただきました。
告別式が終わってからも、たずねてくれる人もいます。
私たち子どもが知らない母の顔も知りました。
人は一人で生きてはいないんや。多くの人と関わって、支え合いながら生きてるんやと、つくづく思います。
人とのつながりは、大切にしないといけませんね。

本当に、母を知っていて下さった、たくさんの方々に感謝いたします。