今年度の全国体力テストでは、小中学生、男女ともに福井県が全国一位だったという。
それをささえる生活習慣の面では、①テレビを見る時間が短い、②朝食を毎日食べる子が多い、③地域の運動に関する行事に参加する割合が高いなどが特徴的であったと報告されている。
地元民なら①の理由はすぐに思い浮かぶ。
福井は放映される民放局が少ないからだ。
今でこそケーブルテレビでいろんなチャンネルを見られるようになったが、ちゃんとしたチャンネルは今もたしか福井テレビ、福井放送の2局だけのはずだ。
昔はほんとに2つしか入らなかったから、「金八先生」も、「ザベスト10」も視聴できなかった。
大学で金沢に住んでからTBS系の番組もふつうに観られるようになり、就職してからはすべての民放を見られるよろこびに、毎日夜更かししてた。
朝食を食べる習慣。なんやかんや言っても、福井のコシヒカリはおいしいからね。③も、遊ぶところと言えば「芝政」と「恐竜博物館」ぐらいしかないから、地域の運動会が住民の一大イベントとなる。
福井出身の作家、宮下奈都さんの新作『田舎の紳士服店のモデルの妻』は、東京で知り合って結婚した若い夫婦の話で、夫が身体を病み、郷里に帰るところから始まる。
~ 「そうだった、そうだった」
達郎がうれしそうに言う。
「ここの運動会は昔っからお祭りだったなあ」
そうして、通りすがりの顔見知りと挨拶を交わして歩く。小学校区の運動会だから、もともとこの地区出身の達郎には昔なじみが多いようだった。
「帰ってきてたんけ」
「ほな飲もっさ」
「今日何出るんや」
昔の同級生だろうか、幾人もの男たちから声をかけられる。 ~
笑っている夫を見て、梨々子はほっとする。
その一方で、自分の人生はどうなるのかとの思いが心をよぎるのを打ち消すことはできない。
東京の郊外に生まれ育ち、大手の企業に就職して、達郎と知り合った。
そのとき、会社で一番輝いていた達郎とつきあうところまでこぎつけ、2年後「北陸で一番目立たない県の県庁所在地」にある、達郎の実家にあいさつに出向いた。
そのときは、まさか自分はここで暮らすことになろうとは思ってもいなかった。
田舎に引っ越した年、2年後、4年後と、2年おきに家族の様子を描いた、五つの連作短編集だが、梨々子がどんなふうに変化していくか。
自分の居場所はここなのか、自分の人生はこれなのか、という思いを持ち続け、一方で娑婆の様々な現実を生きていくうちに、腹がすわってくる梨々子の人生が見えてくる。
そういえば、「こっちの子は、勉強も体力も全国のトップクラスらしいから」「あらいいじゃない、塾とか行かせなくてもお勉強できるようになるなら」と、東京の母と梨々子が会話するシーンがあって、やはり福井が舞台なんだと思った。
宮下奈都さんの『スコーレ№4』という作品にこんなシーンがある。
~ 真由は渡り廊下の隣の花壇のところでグラウンドを眺めている。近づくと、興奮気味に目を大きく開いて振り向き、大げさに手招きをする。鞄を持っていないほうの私の腕をつかむ。かすかにライムのコロンが香る。あの人、と真由が小さく指した先にはサッカー部の一団がいる。
「グラウンドのほう向いてる、今ボール蹴ろうとした人」
体操服の、似たような男子が何人もグラウンドの縁にいる。グラウンドのほうを向いている人とこちらを向いている人は入り交じってしじゅう動いており、白いボールが彼らの中を飛び交って、まぶしい。どれが誰だか見分けがつかない。
「ほら、今、歩いていって、きゃっ、こっち向いたっ」
真由はどんっと私の背中に体当たりするようにぶつかる。きっと恥ずかしさのあまり身を隠したつもりなのだ。私はぶつかられた拍子によろめいて前に押し出される。顔を上げたとき、ちょうど笛が鳴り、一団がグラウンドの中程へ走って出ていくところだった。
風が止まった。野球部の掛け声が消えた。どうしてだろう、と私は思っている。どうしてわかったんだろう。真由が指した相手がどの子だったのか。「今、歩いていって、こっち向いた」のは、他の子とは見間違えようのない子だった。たとえば目立つとか、たとえばかっこいいとか、たとえばドリブルがうまいとか、そういうことじゃない。ただ、彼がわかった。私はびっくりした。あれが真由の中原くんか。
黙って立っているしかなかった。声の出し方を思い出せなかったから。私の背中につかまっていた真由が横にまわり込んできて、背伸びをし、グラウンドの中程を見やりながら弾んだ声で言った。
「ね、見えた? 中原くん、かっこいいでしょ」
「見えなかった」
私は自転車置き場のほうへ歩き出した。 ~
恋に落ちる瞬間を描いたシーンとして、あまりに上手だと思い、その年東高に入試問題でも使わせてもらった。
今回も上手だなあと感じるシーンがたくさんあったけど、最後らへんのここがいい。
~ 何年前になるだろう、何の前触れもなく多幸感に包まれたときのことがよみがえった。幼かった潤の手を引いて横断歩道を渡ろうとしていたとき、お腹の中で歩人が動いた。ふと目を上げると、道を走っていた車が横断歩道の両脇で静かに停まるところだった。春の日射しがさあっと道を照らした。やがて歩行者信号が変わり、その光の中へと潤と梨々子は踏み出した。緩やかな炭酸が足の裏から弾け出し、あたたかな太陽の粒子が潤と梨々子に注いでいた。圧倒的なしあわせを感じて涙が出そうだった。あの満ち足りた瞬間。不意に今自分はしあわせなのだと気づく、他に何もいらないと思える充実感。あれが、来る。今から来るのがわかる。じわじわとお腹から波がやってきている。私は何者でもなかったし、今でも何者でもない。何者かにならなくちゃいけないなんて、嘘だ。 ~
「本の雑誌」に、この作品は「何者でもなくなる話」だと書いてあったが、まさにそのとおりだ。
田舎暮らしを余儀なくされず、都会のまんなかで華やかに生きてように見える人も、最先端の分野で働いている人でも、お金持ちでも地位のある人でも、「これが自分?」という思いを持ち続ける人はいる。
何者かになろうとして、何者かでありたいと思って、悪あがきをし続ける人もいる。「あがく」のはいいことだけど。
だからといって、努力したその分だけ見返りがあるのが人生では全くない。
「努力は裏切らない」と説くのはビジネス書だとしたら、そうじゃない人生もある、むしろそれが普通、と教えてくれるのが小説だ。
誰も彼も、別に何者でもないし、何者でなくてもいい。
何者かをめざし続けるのももちろんいい。
「それが自分」と納得することが一番大事なのだろう。ただ、その境地に達するには、紆余曲折がいるのもまた事実だ。