「週刊文春」の伊集院静先生の悩み相談コーナー。
「僕にはまだ親友といえる友がひとりもいない。自分の弱みを何でもさらけだせるような相手はいなくって … 」
という21歳、男性への答えが、なんかよかった。
そんなくだらないことは考えるな、とまずおっしゃる。
俺たちは親友だな、そうだなと言い合うのが友情ではないからだと。
相手がいるだけで喜ばしいと感じるところから友情ってものははじまるんだと書いてあって、なるほどなあと思う。
~ 相手が何をしてくれたかってことはどうでもいいことなんだ。相手がこの世に、同時代に生きていて、つまり出逢ったことに感謝できるかどうか。
自分の弱みを何でもさらけだせる相手だって? そんなものは友とは呼ばんよ。君は相手が自分に手をさしのべてくれることが友情と勘違いしてるよ。友情というのはそんな薄っぺらなものじゃないよ。もっと緊張感があるものだ。 ~
いつも一緒にいるのが友ではない。
むしろいつも一緒にいなくて、お互いの存在をどこかで意識してて不快ではない、というような関係が友なのかもしれない。
いつもべたべたしてる関係は、実は壊れやすかったりするし。
大人になってしまえば、そういうのが物理的に不可能になるから、何年逢ってなくても友でいられるということもある。
きっとそれは一方的な感情でもいいのだろう。
一方的に、あの人と同じ時代を生きれて(ら抜きになってしまった)よかったなと思える存在。
なんでも打ち明けようとは思わないけど、万が一そうした時、助けてくれるかどうかはわからないが、うけとめてはくれるだろうなという存在。
自分も誰かのそんな存在であったらいいなあ。
で、伊集院先生の結論。
~ 定義づけられないところに友情の奥の深さがある。自分を磨け。そうすれば自然と友はあらわれるよ。 ~
そのとおりだ。