「漫画は16頁で完結した一本を書くという訓練をしないと上手にならない」と言う岡田斗司夫先生のお話を聞いたことがある。若い漫画家で大変な物語力、筆力をもっている作家がいる。いきおいにのって長編を書き、雑誌に連載できて、その一本は素晴らしい作品はできるのだが、そこで力つきてしまう場合があるそうだ。どんな題材でも16頁でとりあえず作品として完結させることが大事なのだそうだ。
「ロボジー」を観たとき、これはけっして大作でも名作でもないけれど、きっちり16頁一本にまとめた佳品だなと感じた。1時間半ぐらいのお芝居にもぴたっとはまるような感じ。
それから吉高由里子さん演ずるロボットおたくの女子大生が、実に上手だ。
本人の実力ゆえであろうが、監督さんの力が彼女の魅力を引き出していると思う。
「スゥイングガールズ」の上野樹里さんといい、「ハッピーフライト」の綾瀬はるかさんといい、矢口監督は、女優さんをものすごくキュートに撮ることができる方だ。
昨日の夕方、20期のOBたちが何人か訪れて、結婚する同期よしむら君(はやくね?)へのお祝い映像をつくるということだった。
せっかくなので、現役部員諸君にも協力してもらったが、この20期メンバーは当初約50人が入部し、3年次には過去最大の人数でコンクールに出場できた代だ。
力もあった。その前年40人で県に行けたから、その年当然さらに上を目指そうとがんばったつもりだったが、おごりがあったわけでも練習が足りなかったわけでもないと思うけど、地区大までだった。
あの戦力をいかせなかったのは、ひとえにその力を引き出せなかった顧問の責任だ。
こうして卒業後も仲間としてつながっている姿を見ると、すくわれた思いになる。
彼らがつながっていられるのは、共通の記憶、思い出があるからだろう。
同じ学校ですごした、同じ部に所属していた、つらい思いをした、バカ騒ぎをした、○○がこんなへまをした、○○で笑った、泣いた … 。
つながりの強さは、多分その折々の思いの強さが規定するもので、結果そのものがよかったかどうかは、何年か後には(言い訳ではなく)二の次になるのではないか。
そう思えば、コンクールで悔しい思いをすることも、思い切り悔しいことならそれでいいのかもしれない。
共有しうる記憶は、もちろん、強烈な出来事ばかりがその対象ではない。
日常の何気ない風景、たとえば当時自販機で売ってたのに最近ほとんど見かけない飲み物でもいい。
当時流行って歌でもいい。話題になったテレビでもいい。
「三井のリ・ハ・ウ・ス」で転校してきた宮沢りえの衝撃的可憐さでもいい(なぜにこの例?)
それらは、それらを知っていることによってつながりを感じることが出来るという意味で、広義の教養とも言える。
「それら」が多い人はより多くの人ととつながることができ、「それら」が極端に少ない場合はそれなりの人間関係しか築けない。
「それら」がどうあるべきかは誰に規定できるものでもないが、少ないよりは多い方が心豊かになれる可能性は高いのではないだろうか。
無理強いはしないけど、「それら」の存在を感じさせてあげるのは自分の仕事なのかなと思う。