鷲田清一先生の『自分・この不思議な存在』は、もう十数年前に出た本で、教科書教材としても定番と言えるかもしれない。何回も読んだ文章なので、もういいかな、別のに差し替えようかなと思いながらも、予習済み教材の存在はありがたく、やはり今年も読んでみて、やってよかったと思えた。
自分とは何か。
それは、他人との差異を検証するところからしか見えないと言う。
自分と他人とはどうちがうのか、何をもってちがうとしているのか。
その境界線は誰が決めたのか、いつそうなったのか、本当に正しいものなのか。
その差異を検証することこそが必要なのに、わたしたちは、つい自分を見ようとしてしまう。
自分とは何か。
それを知るために、自分のやりたいことを考えてみよう、自分がどんな人間か見つめてみよう。
学校の先生なんかとくにこういうことを言う。
鷲田先生は、そうやって自分を見つめたところで、自分はわからないと言うのだ。
なんの本だったかなあ。
小谷野敦先生だったかな、「自分を見つめたところで、ほとんどの人は何もない、闇しかない」というような言葉があって、ほんとそうかもなと昔思った記憶がある。
たとえば、偏差値。
「偏差値で人の価値をはかることはできない」という言葉はまさに正しくて、偏差値だけで人の価値がはかられていることなど実際にはないと思うのだが、言葉が一人歩きしてしまい、「偏差値=悪」みたいなイメージで語る人がいる。
北辰でも河合でも、自分の偏差値を目をそらさずに受け入れるのは、大事なことだ。
同年代の集団のなかで、事務処理能力がどの程度のものか、目の前のやるべきことをどれくらいきちんとやれるタイプなのか、そういうのは明らかになる。
勉強に向いているタイプかどうかもわかる。
そこから目をそらして、「あんなもので人の価値ははかれない」と言い、やるべきことをできない自分からも目をそらしたら、前へは進めない。
教科書の「自分・この不思議な存在」には、こんな一節もあった。
~ 浸透不可能な壁の隔たりを設置することが、壁の内部を脆弱にするというパラドックス、これは文化全体についても言えるだろう。 ~
現代人は、環境が清潔になりすぎたがゆえに、免疫力が低下してしまった、という話の流れだ。
自分を守ろうとして、自分の表面をがちがちに守ろうとすると、かえって内部は弱くなっていく。
「文化全体に言える」と鷲田先生がおっしゃるから、敷衍してみると、たしかにいろんなことが言えそうだ。
大きいところでは領土問題。
身近なところではクラスとか部活とか。
クラスという空間の閉鎖性が高まれば高まるほど、内部はもろくなっていく。
大人社会の組織も同様だ。民主党の閣僚人事なんかも、そういうのが垣間見られ、末期の状態ってまさにこんな感じなのかと感慨深い。