「指導力不足教員」という判定を受ける先生が、年間にたしか何百人かはいらっしゃり、指導をうけたり、中には退職される方もあると聞く。
現実には、よほど「目にあまる」場合にかぎってそのように判定されているといったところだろう。
生徒や保護者の立場からすれば、「あの先生も、指導力不足なんじゃね?」的にみえる対象はけっこういると思うし、内外のきびしい目にさらされ、丸腰で教壇に立つしかない今の教員は、いつ誰が「不適格」のレッテルを貼らてもしかたない状況におかれている。
美術の丹野先生も、そう見られるタイプの先生として描かれている。
不良グループを注意できないし、学校業務をこなしている雰囲気もない。
生徒たちからはユーレイとあだなされるほど影の薄い教師だが、亡くなった柏木君の数少ない理解者だった。
丹野自身、中学生時代はいじめられる側で、孤独な生徒だったと、証言席で述べる。
柏木くんとはたしかに何回か話した。現実世界の理不尽さをかみしめる彼は、そのつらさで学校にこれなくなったのではないか、と主張する。
ふだんの丹野先生とはイメージが異なり、言いたいことをはっきり主張していると、藤野涼子は感じる。
「先生は、こういう場で言いたいことを主張する方ではなかった。ひょっとして辞職するつもりではないでしょうか」と涼子が尋ねる。
「よくわかりましたね」と丹野が答える。
この学校内裁判の過程で、柏木君の実像をずいぶんつかむことができた。
教師のなかで唯一とも言える話し相手であった自分が、もう少し彼の心に踏み込んでいたなら、今も元気に暮らしていたかもしれないと言う。丹野は責任を感じていたのだ。
~ 「ありがとうございます。質問は以上です」
着席するかと思えば、検事はむしろすっくと姿勢を正して、証人席を離れようとする丹野教諭に呼びかけた。「丹野先生」
ユーレイが、疲れ果てたようにふらりと振り返った。
「お辞めにならないでください」
「柏木君のように、先生と一緒に画集を見たり絵の話をすることで学校のなかに居場所を見つける生徒が、ほかにもいるかもしれません。そんな生徒には、先生が必要なのです」 ~
「指導不足教員」レッテルをはられる教員でも、そういう先生を必要とする生徒はいるかもしれない。
学校の先生が、みんなが常に前向きで、すきがなかったら、生徒だって息がつまる。
一見だめだめタイプな人とか、暗い人とかも、いろんなタイプの人が学校には要る。
なので、おれ自身も、本当はパーフェクトタイプなんだけど、あえて時々だめだめになっている。
『ソロモンの偽証』三巻通して、ちょっとこれはなあと感じる先生がけっこう出てくる。
宮部みゆき氏は、先生に対しては生徒さんにほど愛情をもって描いてくれてないような気もした。
それでも、身びいきなしに冷静に職場を見渡し、同業者を思い浮かべてみたなら、かなり正確につかんでいる教員集団であるとも思えた。
保身第一主義的先生と、生徒側に立つ先生、傍観タイプ先生の比率なんかも。
自分の身に置き換えてみても、小説の中の存在だから「藤野さん萌えぇ」とか言ってられるけど、本当に目の前にいたら、もてあますのではなかろうか。あれだけ賢くてビジュアルまで整ってたら、ちょっとひるんでしまう。
この生徒のきらわれないようにしようとか思ってしまいそうだ。
なんにせよ、この学校の先生方は、学校内法廷を開かせてあげたということで評価されるべきだ。
学校裁判を成立させてくれた関係者の方々に、そして最後までやりきった中学生たちに心から拍手を送りたい。
同級生が学校で自殺するという出来事は、もちろんあってはいけないものだし、どんな理由があっても正当化してはいけないと思う。
「いじめはいけない」という主旨の授業で、自殺した生徒の遺書を読んでその心のいたみを慮ろうという実践例がある。
愚だ。なにゆえ愚であるかわからない教師は、そんなうわべだけの授業はかえってやらない方がいい。
『ソロモンの偽証』を読んで、作品世界の中学生たちが、その事件をどううけとめ、どう乗り越えようとしたのかを、せめて読んでみるべきだろう。
宮部みゆき作品はどれもそうだが、「ミステリー」というくくりを超えて現実社会を写しだし、人間の業と、人間だから見いだせる光を描く。
これに比べると、いま「城の崎にて」を予習してるけど、なんか世界が狭すぎて悲しくなってくる。
いや、日本の小説もだから成長していると思えばいいのか。