学年だより「おとめの流儀(2)」
自分が何者でもないことに気づくくやしさを体験できることは、学校のいいところだ。
~ 自分が凡人だと一回も思ったことがないひとなんか、この世にいなければいいんだけど、と思う。少しまえから、頭のなかで、糸くずみたいなものがいくつもぐちゃぐちゃに絡まっている。
悔しいんだ、と思った。
素振りをした。汗が吹き出て、体中を伝っていった。ポタリと道場の床に垂れた。
汗といっしょに流れ落ちていってくれればいい。朝子さんの言っていたよけいなもの――不安とか、恐怖とか、そういうものが。だけど、それらは汗のようにかんたんには流れ落ちてはくれない。 (小嶋陽太郎『おとめの流儀』ポプラ社) ~
本気で何かをやろうとしたときに、人は失敗を経験する。
どんなに大きな成功を収めた人も、必ず大きな失敗をしている。
その経験によって一回り大きくなれるから、また新たな挑戦ができる体になっていく。
なかなか技術が向上せず、試合形式の練習でも尻込みしてしまう部員のかよちゃんが、退部をほのめかしたとき、朝子部長はこう諭す。
~ 「かよちゃんが『足手まといになっているから』というだけの理由で悩んでいるのなら、そんなの気にせずにがんばってみろと言うだけで、ほかには何も言いません。現時点で強いか弱いかなんて、どうでもいいからです。というか初心者なんだから弱くて当然です。仲間の足を引っ張るとか引っ張らないとか、そんなのもどうでもいい。大事なのは、あくまで自分が、純粋に目の前の相手に勝ちたいという気持ちを持てるかどうかです。 … 『仲間の足を引っ張りたくないからがんばる』という気持ちだけで試合に臨んでいるひとは、自分の試合の責任を自分で負っていないから、よくない。もちろん団体戦だったら仲間のためにもがんばるのは当然ですけど、いちばん大事なのは自分がたたかう気持ちです。たたかうときはひとりなんだから。勝ちを目指す理由をまず他人に求めるなら、試合なんかしないほうがいいんです」 ~
部長は厳しすぎる、もっと言い方はないのかと、聡子はこの話を聞いている。
同時に、この言葉は自分達1年部員みんなに向けられたものであり、どうするかを決めるのは、結局自分しかいないということに気づく。
部活でも、勉強でも、仕事でも、趣味でも、恋愛でも、あらゆることにおいて、自分をかけて取り組んでみて初めて「やった」ことになる。
中途半端にしかやれない人は、たいした失敗はできない。
「体験・熱中・失敗」という経験のサイクルを何セット回せたかが、器の大きさを変える。
自分には才能がないとか、不足しているなどと思って立ち止まるのは、基本的には傲慢なのだ。