今年のセンター試験の問題を授業で解いた。一番の評論はこんな話題だ。
昔、リカチャン人形は、決まった物語の枠組みの中でのみ存在する、子ども達から憧れのキャラクターだった。本名は香山リカ、五月三日生まれ、父はフランス人の音楽家、母はファッションデザイナー … みたいにガチガチな設定があった。
しかし現在は、その物語の枠組みを離れて、リカちゃんが様々な別キャラクターを演じるようになった。
これはキャラクターのキャラ化である。
私達人間も、同じようにキャラ化する時代になった … という文章だ。
こんな話題もとりあげられる。
~ 2008年には、ついにコンビニエンス・ストアの売上高が百貨店のそれを超えました。外食産業でもファーストフード化が進んでいます。百貨店やレストランの店員には丁寧な接客態度が期待されますが、コンビニやファーストフードの店員にはそれが期待されません。感情を前面に押し出して個別的に接してくれるよりも、感情を背後に押し殺して定形的に接してくれたほうが、むしろ気をつかわなくて楽だと客の側も感じ始めているのではないでしょうか。店員に求められているのは、一人の人間として多面的に接してくれることではなく、その店のキャラを一面的に演じてくれることなのです。近年のメイド・カフェの流行も、その外見に反して、じつはこの心性の延長線上にあるといえます。そのほうが、対面下での感情の負荷を下げられるからです。 ~
このあたりの具体例はわかるよね。コンビニの店員さんが、人生かけて接客してきたら、ちょっととまどいますね。「一人の人間として、このジャンクな食べ物はあなたに食べてほしくない」とか、レジで言われたら困るでしょ。
ほんの少しの笑顔をつくってもらえればうれしいけど、たとえばちょっとだけHな雑誌を買うときに、「○○さん、こういうの趣味なんですね」とか言われたら、その店に行きづらくなるよね … 。
われわれ教員も、教師というキャラを演じている、というか演じなければならないのだと、話ながらふと思った。
一人の人間として、感情を全面に押し出して生徒の前に立ちはだかったら、向こうも困ってしまう。
「あの、一体どんな権利があって、あなたはそこまで僕に言うのでしょう?」と問われたとき、冷静に考えたなら、押しつけるほどの物言いはできないはずなのだ。
「がんばろう!」「思いやりをもて!」「人として、もっとちゃんとしろ」「大きな夢をもて」「努力して成功者になれ」 …
先生、あなたはちゃんと生きているのですか?
先生、あなたは成功者なのですか?
大きな夢をかなえた結果が今のお姿なのですか?
先生、あなたは神なのですか?
ごめんなさい … 。
生徒さんが生徒としてふるまってくれるのをいいことに、自分が教師というキャラにすぎないことを忘れてしまいがちなのが、私達の性癖だ。
教師は、教師というキャラを演じることにおいて教師たり得る。ほかに根拠はない。
思えば、キャラとしてちゃんと仕事せよという話は、もう二十年以上も前に、河上良一先生や諏訪哲史先生が主張されていたことではないか。
こどもも同じかもしれない。
親の前で、友だちの前で、先生の前で、そのつどキャラを演じればいいのだ。
このセンター評論の筆者が言うように。
でも、まじめな子ほど、その使い分けを不誠実ではないかと思い悩んだりしてしまう。
もしくは相手が期待しているキャラになれない自分を、自分でおいつめてしまう。
今年の評論は、設問自体は少し簡単すぎる面はあるけど、文章自体は広く読まれるべきいい素材だ。
選んだ先生、グッジョブ!