評論に比べると、二番の小説問題は微妙だった。
果たしてこの作品が、日本の未来を担う50万人の若者に読ませるべき作品かどうかという根本的な部分で。
いや、作品の価値を自分がつかめてないだけかもしれない(謙虚っ!)。
そう思って設問を読んでみるものの、問題作成にあたられた大学の先生が、何を求めてらっしゃるのか、今一つ実感できない。もちろん、各設問に込められている深い意図を自分がつかめてないだけなのかもしれない(謙虚×2)。
それはもう、えらい先生方がお作りになった問題を、私ごときがあれこれ言うなどおこがましいので、授業ではそのような気持ちをおくびにも出すことはない。少しは出てしまったかな。
第6問の表現に関する問題。
次のうち「適当でないもの」を二つ選びなさいという形式で、選択肢が6こある。
5 母子と別れた後の父親を私が想像する部分には「~かもしれない」「~かも知れない」「~だろうか」といった文末表現が立て続けに繰り返されている。これによって、家族を思う父親の心情や状況に私が思いをめぐらせる様子が、効果的に表されている。
という選択肢は、適当か適当でないか、受験生は迷うだろうか。
大体、言い方が回りくどい。
「~かもしれない」という表現は、「私」の推測を述べたものである、と書けばすむ。
でも、そう書いてあったら、悩みようがなく正しい日本語だろう。
「だろう」は「推量」表現というのと同じレベルで。
あえて、選択肢にして検討せよと問われたなら、「 「~かもしれない」「~かも知れない」「~だろうか」といった文末表現がが立て続けに繰り返されている」ことが、「私」の推測を表現したものとして「効果的」かどうかが問題になってきはしまいか。
もし、そう問われたなら、「効果的」ではないと、自分的には思う。
そんなのは「効果的」とは言わない。「普通」だ。普通すぎる。
むしろ、そんな表現を繰り返さない方が、「え? ここは想像してるだけの部分だっけ? ちがうか、実景と重ねてるのか」みたいに思わせるくらいが、読者に「効果的」に訴えかける。
て、いうほどこだわって考える必要はまったくない問題なのだが、小説をしっかり勉強してきた高校生は、深読みして間違ってしまう可能性がなくはないと思う。
2 汽車に乗り込んできた家族について、「普段着のままの格好」・「はき古したズックの黒い靴」、「毎日八百屋の買物に下げていたらしい古びた籠」のようにその身なりや持ち物を具体的に描くことは、この家族の生活の状態やその暮らしぶりが私とは異なることを読者に推測させる効果を持っている。
まあ、これも普通にさっと読めば、問題ないよねで済ませられる選択肢だ。
あえて考えはじめる子がいたりしたら、こう読むかな。
200円の座席券を買ったとはいえ、与えられた情報だけでは、私がそんなに裕福とは思えない。「私とは異なること」としてこの情報を読む必要があるとは思えない … 。
ま、いないか。いないよ、ですませればいいのか。
6 母子と別れた後の父親を私が想像する部分には、「男の子とそっくりの、痩せて、顔も頭もほっそりした男」「口紅がずれてついていた妻」「汽車の窓に片足をかけた小さい息子のズック」という、この部分以前に言及されていた情報がある。これらは私の想像が実際の観察をもとにしていることを表している。
細かくつっこまなくていいなら、当たり前のことしか書いてない選択肢だ。
選ばなくていい選択肢が、本文を読まなくても分かってしまう設問、しかも6このうち3つそれという設問に対して、私達現場教員は専門用語で「クオリティが低い」と評価する。
表現の問題については、一の評論のも「え?」と思った。
こちらも「適当でないもの」を選ばせる。
1 第1段落の第4文の「生活スタイルを演じてくれる」という表現は、「~を演じる」と表現する場合とは異なって、演じる側から行為をうける側に向かう敬意を示している。
これが「適当でないもの」なので、これを選べば正解で5点もらえる。
でも、これもあたりまえじゃね?
どうみても「演じる側から行為をうける側に向かう敬意」にはなりそうにないので、本文の主張とか関係なく、「これ変じゃん」で選べばそれで5点。ちょろい。
評論文で「表現の問題」を作るのなら、主張をよりよく伝えようとした筆者がどんな表現上の工夫をしているかを見つけさせる問題にするべきだ。
国語表現という科目が出来て以来、こういういかにも「表現について問いましたよ」という設問が含まれるようになった。
いい問題だなと感じた年もあるが、微妙な年も多い。
うまく問えない文章だったら、無理につくる必要はない。
どうしても作りたいなら、作れる文章を選べばいい。
たとえば「富嶽百景」なんか、山ほど作れるではないか。