水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

「富嶽百景」の授業(7) 二段落 第四場面

2016年02月16日 | 国語のお勉強(小説)

 

二段落 〈 第四場面 御坂峠 〉


 井伏氏は、その日に帰京なされ、私は、再び御坂に引き返した。それから、九月、十月、十一月の十五日まで、御坂の茶屋の二階で、少しずつ、少しずつ、仕事を進め、〈 あまり好かないこの「富士三景の一つ」と、へたばるほど対談した 〉。


「あまり好かないこの「富士三景の一つ」と、へたばるほど対談した」について

Q26「この「富士三景の一つ」」とは何のことか。
A26 御坂峠から望む富士の姿

Q27「あまり好かない」のはなぜか。
A27 あまりにも注文どおりの景色で、その通俗性が鼻につくから。

Q28「富士」は「私」にとってどのような存在と言えるか。
A28 世間の価値観や通俗的な芸術観を象徴し、自分の前に立ちはだかるもの。

Q29「この「富士三景の一つ」と、へたばるほど対談した」とはどういうことか。(80字以内)
A29 御坂峠から望む富士の姿を、たんに通俗的な景色にすぎないと嫌悪するのではなく、
   正面から向き合って、自分の価値観と照らし合わせその意味を考え続けたということ。

Q30「この「富士三景の一つ」と、へたばるほど対談した」という表現からどういうことがわかるか。(100字以内)
A30 通俗的な価値観や既成の世界観を、ただ嫌悪して反発するのではなく、
   まっすぐに向き合い自分の感覚とつきあわせることで、
   新しい表現を模索していこうとする前向きの姿勢が「私」に中に生まれていることを表す。

Q31 第二段落の各場面における「富士」が、「私」にとってどのようなものとして描かれているか、整理しなさい。
A31  A1 御坂峠 あまりの通俗性を「軽蔑する富士」
     ↓
    B 三つ峠  世俗の人の真心に触れた「いい富士」
     ↓
   (A2)御坂峠
     ↓
    C 甲府   結婚を決意させてくれた「ありがたい富士」
      ↓
    A3 御坂峠  へたばるほど対談する相手として「対峙する富士」


 二段落は、滞在している御坂峠から移動して、また戻ってくるという場面設定になっています。
 移動した先で、世俗を生きる人たちとふれあい、自分の気持ちに変化が生まれます。
 「御坂に来た時の自分」と「今の自分」との対比、その変化をもたらす原因となった出来事を読み取りましょう。
 ちなみに、音楽の形式で「A→B→A→C→A」といった構造になっているものを「ロンド形式」とよびます。
 太宰も意図的にこうの構成を用いているはずです。主題Aに繰り返しもどってくることで、主題Aがより味わい深いものになっていきます。

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キャロル

2016年02月16日 | 演奏会・映画など

 

 先日見た「この後、同性愛に目覚めます」というアンジャッシュのネタが面白かった。
 仕事終わりに、居酒屋で酒を酌み交わす会社の同僚二人。営業職かな。
 先輩(児島)が「おまえ、もっと思い切って仕事しろよ」と後輩(渡部)にハッパをかける。
 「はい … 」とうなだれる渡部に、声をやわらげて言う。
 「別のおまえを憎くて言ってるんじゃないぞ、期待してるからだ。心配するな、なんか失敗しても、おれが全部責任とってやるから!」
 顔をあげて児島を見る渡部。
 ナレーションが入る。「この男、この後、同性愛に目覚めます … 」
 渡部が箸を落とすと、「すいません、新しい箸ください!!」とすっと立ち上がる児島。
 「おまえ、何飲んでるんだ? レモンサワー? ちょっとくれ!」と渡部のグラスに口をつける児島。
 「レモン足りねえな、ちゃんとしぼったのか」と言って、腕まくりをして絞りはじめる児島の二の腕をじっと見つめる渡部。
 ナレーション「この後、同性愛に目覚めます … 」

 ちょっとした言葉や細かいしぐさに、キュンとする気持ちが蓄積されていって、ある瞬間コップの水がちろっとあふれるように、人が人に恋愛感情を抱く様子が描かれていて、笑ってしまうけど、まさにそんな感じなんだろうと思う。
 たまたま、それが同性に対するものであるだけだ。
 こんな時、脳内にはPEA(フェニルエチルアミン)というホルモンが分泌されていることは明らかになっている。
 本で読んだ。
 でも、誰が、誰に何に対してどんな時にPEAを分泌させるかは、合理的には説明しきれないのではないだろうか。
 もちろん、ルックスの好み、声やしぐさ、ふるまいなど、人によっていろんなポイントがあって、ポイントが加算された結果なのだろう。
 ためていくコップの大きさも人によってちがう。どんな環境におかれて生活しているかによって、コップの大きさも変わる。自分なんか、今すごいちっちゃくなったので、一瞬であふれる。
 あふれてもコントロールできるようになったから、小さくなったのかな。
 あ、これはよけいな話だった。

 「この後、同性愛に目覚めます」というナレーションが一切入らないのに、その目の動き、はにかんだようなような笑顔、ちょっとしたしぐさで、「この後恋に落ちるんだなあ」と感じさせるのは、もうこれは演技力というしかないのだろうか。
 円熟としかいいようのないケイト・ブランシェットさん、若手という枠には収まりきれないルーニー・マーラーさんともに、恋に落ち、落ちた自分をどうすればいいかわからず、しかし気持ちがおさえきれなくなっていく様子が、まあ見事に演じられている。
 ときは1950年代。同性どうしの恋愛は異常と思われていた時代だ。
 だからこそなお募るせつなさが、これでもかと描かれるのだが、周りからどう見られようと、自分の気持ちに噓はつけないという毅然とした姿勢も二人はもつ。
 自分の生き方への矜恃とも言える。
 考えてみれば、周囲から祝福されない間柄で恋愛感情が発生する事態は、取り立てて特別な事態ではない。
 たまたま、1950年代に同性愛という設定だから、注目してしまうが、今の時代ならここまで忌み嫌われることはないはずだ。
 いまの時代において、それはだめと言われる関係も、時代や場所が違えば何でもないということでもある。
 だから、同性愛うんぬんではなく、「自分の人生を価値あるものとするために、人を好きになる気持ちとどう向き合うべきか」という根本的な問いかけをつきつけてくる、純然たる恋愛映画だと思った。
 それにしても、ルーニー・マーラーちゃん、かわいい。「ドラゴン・タトゥーの女」で演じた非情の殺し屋とのギャップ萌えもあるし、時代設定にあわせて髪型のせいか、ヘップバーンに見えた瞬間もある。この先、どれほどの女優さんになるのだろう。

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