不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

楽器決め

2010年04月19日 | 日々のあれこれ
 登録カードを提出した1年生が今日みんなきてくれた。
 今日、明日とあらためて全種類の楽器を体験してもらい、あさってパートを決める。
 なんとなくこれかな、ジャンケンで負けてこれかなというぐらいの出会いで十分だと思う。
 そのあと、どうするか。
 中谷彰宏氏が、面接で一番に来た人を採用するという話をされていた。
 だって、結婚てそうでしょ、って。
 すべての人と知り合ったあとに、自分にぴったりの人を選択するわけではない。
 出会いはその時その時のもので、自分の目の前にきたこと自体が運命なんだと。
 ほんとはこの人じゃなかったかもといつまでも思ってたら幸せになれるわけがない。
 自分はこの楽器しかやりたくない、という強い意志を持って入部した子が、そのパートに入ることができ、でも途中でやめてしまうという例をけっこう見てきた。
 ほんとになんでもいいです、と言って与えられた楽器をはじめた子がどんどんのめりこんでいく例もたくさん見た。
 運命とは出会い。
 出会いとは偶然。
 考えてみると、今この学校で働かせていただいているのも、二つの私立高校に応募してて、たまたま面接の早いほうに決まったというだけだ。
 ずいぶん長くお世話になってしまった。
 たまたま出会った楽器に、わずか3年の間お世話になってみていいと思う。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

土曜日

2010年04月17日 | 日々のあれこれ
 土曜はふつうは多少ののんびり感があるのだが、イベント目白押しだった。
 LHRの学年集会で、少し時間をいただいて、がんばろうという話をする。
 10~15分と思ってたが、ある担任から「中途半端におわって教室にもどっても使いにくいから、長めに話しちゃえば」と言われ、これさいわいと30分弱話した。
 先日見たばっかりのNHK「こころの遺伝子」から、アンジェラアキさんが目標を達成するために書いたピラミッドの話。
 中央大学の高梨さんによる「読んで心と頭の良くなる勉強法」の話。
 オリジナルネタは何もないが、みんなそれなりに聞いてくれたと思う。
 放課後になると、1年生担任から部活登録カードが集まってくる。
 部活体験の様子からちょっと心配してたけど、32名の新入部員を迎えることができた。
 ありがたいことだ。
 経験者が4人もいるのもめずらしい。 
 週明けに楽器決めだ。
 合奏では課題曲をがっつりやってみようかと思っていたが、基礎合奏で多くの時間をつかった。正しかったと思う。
 そのあとは、氷川会館で父母会懇親会。例年通りの自分の役目は果たせたのではないか。
 ここ数日、宴会発表レパートリー対策CDで助手席がいっぱいだったが、コンクール曲のいろんな音源を聴いてみるモードにかえていこう。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レディージョーカー

2010年04月16日 | おすすめの本・CD
 『レディージョーカー』が文庫になったので読み直してみて、こういう作品が日本の文学に不足しているなとしみじみ思った。
 文学と言われて一般に思い起こされる作品、教科書に載っているような作品ということになろうが、その手のものは実に狭い。
 何が狭いって、描かれている世界が実に狭い。
 たとえば、高1で読む「羅生門」は、羅生門の楼の階下と階上だけがその舞台だ。
 高2で読む長編の「こころ」も、主人公の下宿を中心とした飯田橋、御茶ノ水、本郷界隈だけ。
 なんだ空間的な狭さだけを言っているのか、物理的に狭くても、中身が深いならいいではないかと思われるかもしれない。
 でも、空間的に狭いと、やはり主人公の社会認識も狭く、精神的に幼いままになってしまうのだ。
 だって「こころ」の主人公なんて、どうですか。
 自分が好きだったお嬢さんを、友人が「おれも好きだ」って言い始めたから、どうしようかって思い悩んで、抜け駆けしてそのお嬢さんを手に入れようかどうしようかと悩む。
 中学生かっつうの。もちろん、客観的に見れば何でもないことをぐだぐだ思い悩む描写こそが文学の真骨頂でもあるとも言える。
 日本の文学の中心はそこにあった。でも、それがすべてではいけないと思うのだ。

 さらに文学教育という話になると、教える側、つまりわれわれ教員の世界がまた狭いので、文学の味わい方の狭さに拍車がかかる。
 だから、たとえば「盗人になるか飢え死にするか」なんていう二者択一自体の不可解さに誰も疑問をいだかずに、「下人の心情をどう思うか」なんて聞いてしまうのだ。
 他の選択肢を模索すべきであろう。ハローワーク行くとか、逆にそのへんの草を喰ってみるとか。
 老婆の着物をはぎ取るなんてのは悪事でもなんでもない。
 大企業を陥れて20億せしめてみればいいではないか。

 『レディージョーカー』は、「レディージョーカー」を名乗る犯人グループが、日之出麦酒という大企業を相手におこした企業テロを素材にして、犯人たち、日之出麦酒の幹部たちとその家族、企業の背後にある裏社会の人々や、報道機関の人々、そしてそれを追う警察の姿を描く。
 たとえば、犯人の一人に物井清三というおじいちゃんがいる。
 その人がなぜ犯罪に関わることになったかは、戦後すぐの労働争議と、その際の差別の問題から描かれることになる。
 登場人物のすべてをそのように説明するわけではないが、一人として人生を感じさせない存在はない。つまり、Aさんがこういう行動をとったのには、こんな人生をおくってきてその結果だというものを感じさせる。
 犯人グループを構成するのは、老人、障害のある娘をもつ元自衛隊員、在日の人、そしてある警官。 こういう人の人生を描くということ自体、今の日本の社会に潜む様々な問題から一歩も逃げないという作者の姿勢をひしひしと感じるではないか。
 ずいぶん前に高村薫氏が、「私はミステリーを書いているつもりはない」と言って物議をかもしたことがあったが、読み直してみて、なるほどそのとおりだと納得する。
 たとえば東野圭吾作品ではこういうトリックがあって、一方高村薫は、なんて同次元で扱われたなら、さすがにかわいそうだ。

 ちなみに日本の現代文学における三大長編は、井上ひさし『吉里吉里人』、高村薫『レディージョーカー』、村上春樹『1Q84』の三作品である(て、決めたから)。
 もう『暗夜行路』とか『こころ』とか読む必要ないでしょ(仕事なので読むけど)。
 たとえば、大学でこういうの(三大長編)をテキストにした授業があったら受けてみたいものだ。
 さて、そのうちの一つの続きがでましたね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高等学校等就学支援金受給資格認定申請書

2010年04月15日 | 日々のあれこれ
 公立学校の授業料が無償になる措置がはじまるとともに、私立学校にも応分の補助が行われることになった。
 ただし、生徒一人一人が記入した申請書を提出しなければならない。
 その名を「高等学校等就学支援金受給資格認定申請書」という。
 すごいね。
 十九字熟語。
 大学のとき、多字熟語のレポートをしたことがあるけど、こんないい例はなかった。
 漢語の造語力の高さと、それを徹底的に利用するお役所のコラボレートによってうまれた、すばらしい日本語ではないか。
 朝鮮学校生への支援をどうするかについて議論が続いているが、そのへんの微妙さも「等」という漢字にききっちり表現されている。
 高校無償化は、財源問題さえのぞけば、おおむね国民のコンセンサスを得られている政策だろうが、一方で勉強する気のない高校生の授業料まで税金で出す必要はないとの意見もあった。
 でも、それを言うなら、小学校や中学校でも同じだ。
 これを機に、高校まで義務教育化するという発想があってもいいのではないか。
 戦後の新しい教育制度が決まった時代から数十年経って、平均寿命も延びて、おそらくそのこととの相関も深いと思うが、日本人の成長年齢もゆっくりになっている。
 高校生って年々幼くなるよね、と感じている人はたくさんいる。
 もちろん、われわれ大人も、今の40歳って、一昔前の30歳ぐらいの分別しかないよねという感覚で生きている気がする。
 高校まで義務化して、読み書きそろばんをしっかり教え、礼節を身につけてから世の中にでていく方がいくない?
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

とはいえ

2010年04月14日 | 日々のあれこれ
 平常授業感はあるが、はじめて行くクラスでの授業はさすがに気を遣う。
 いつもより字も丁寧に書いてるし、ギャグも言ってない。
 この人の話をちゃんと聞けばなんとかなるかもしれない(実際そうなのだが)と思ってもらうこと一点を目標にしている。
 なので、若い先生の、自分に比べるといきあたりばったりに見えてしまう授業を目にすると心配で、いつどの程度その先生に話をするかに思い悩む。
 立場上しょうがない、というかやるべきことであろう。
 昔は自分さえいい授業ができるようになればよかったが、そんなわけにはいかなくなった。
 案の定、6時間目にはつかれが出て、平仮名をまちがってしまった。
 放課後、すぐに小講堂のかぎを開けに行くと、新入生獲得の気合いの感じられるセッティングができていたのを目にし、そのあとのミニコンに多数の1年生が座っているのを見て安心し、7月に一回だけ練習させてもらう、さいたま市文化センターの支払に向かう。
 土曜の父母会懇親会で何を唄わせていただくかを検討しつつ、CDをいれかえながらの移動で、これも業務の一環と言えなくもないので、今日は(今日も)休みなく働かせていただいている。何唄おうかな。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やっと

2010年04月13日 | 日々のあれこれ
 土曜は半日、昨日は体力測定だったので、やっと平常授業になった感覚がある。
 春休みの宿題として、3月に手作りの古文単語集プリントを配った。
 昨年度、市販の古文単語集を定期テストごとに範囲を決めて勉強してもらったが、定着度が大変よろしくない。
 というか、はっきり書こう。ぜんぜん覚えてきてくれなかった。
 一昔前みたく、罰則規定を設定するか、合格するまで部活行けないよテストをするかしかないという状況ではあったのだが、英語や数学でそれががっつり行われているなか、古文単語まで参戦するのはためらわれた。
 それで、最小限にしぼり、いつでもポケットに入るタイプのものを配布した。
 予定では、もっと後の段階で、まとめのために配ろうと思っていたのだ。
 授業中に、いくつか質問してみる。
 「~にやあらん」の意味は?
 「 … 」
 「つかうまつる」は?
 「 … 」
 ふっふっふっ、みなさん、ぼくを本気にさせたいようだね。
 たしかに、いつまでにやりなさいと言われて、やらない場合になんのペナルティもなければ、普通はやらないか。
 自分をかえりみればわかる。
 やった方がいいのはわかっているが、さしあたって今日やらなくても怒られない仕事はどんどん後回しになっていくから。
 目の前にどんどんつみあげられていくものを片付けていくのに精一杯なのが、われわれ凡人の仕事術だ。
 そんな中でも、少しでも早く見たいだろうと優先順位を無理やりあげて配布した楽譜に、アレンジがへんですの感想しかもらえなかったのは、かなりがっかりしたことではあった。
 その程度の思いの伝わらなさを気に病んでいるようではだめだ。
 次は明日をのりきらねば。
 今日の雰囲気では、単語集プリントって何? といいそうな気配の子もいた。
 辞書の代わりに使ってもらおう。
 古文を読むのに、古語辞典などという高尚なものをひく必要などない。
 プロがつかえばいいのだ。
 今の高校生諸君の学習状態と、やるべきことを考え合わせたなら、英語にしても古文にしても、紙辞書を買おうなどと主張する方は、化石だ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

実力テスト

2010年04月09日 | 日々のあれこれ
 3学年ともテストで、1年生の終わりがいちばん早かったので、今日は部活見学はなかった。
 自分たちの練習と、ミニコン曲の合奏、幹部・パートリーダーによる、コンクール曲ミーティング。
 曲決めは、思いの外難航している。
 以前、大滝先生から、ミーティングは徹底的にやった方がいいというお話をうかがったことがある。
 早く練習にかかりたい気持ちはあるが、あせらずじっくり固めていきたい。
 何をやるにしてもベースとなる気持ちが大事だから。
 見切り発車の好きな私には、今の幹部たちの慎重さが必要だと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

部活紹介

2010年04月08日 | 日々のあれこれ
 午前中に始業式とホームルーム、そして午後は、新入生対象の部活紹介で、ルパンを演奏する。正直大丈夫だろうかと不安になった部分もあるにはあるのだが、ビジュアル的には、こんなに大勢いるんだという好意的な驚きをもって受け止められていたと思う。そのせいか、放課後は多数の見学者が訪れていた。ありがたいことである。
 3Fの書道室の前に、さだまさし「風に立つライオン」の歌詞をしたため額に入れて飾ってあるのに気づいた。顧問のかわかみ先生自らの手による作品だ。
 読んでいたら突然こみあげるものあって、さだまさしの歌そのものでは過去何回となく泣いてるので、きっと書の力に心うごかされてしまったのだろう。みごとな作品だった。


 ~ 風に立つライオン ~

 突然の手紙には驚いたけど嬉しかった
 何より君が僕を怨んでいなかったということが
 これから此処で過ごす僕の毎日の大切な
 よりどころになります  ありがとう  ありがとう

 ナイロビで迎える三度目の四月が来て今更
 千鳥ヶ渕で昔君と見た夜桜が恋しくて
 故郷ではなく東京の桜が恋しいということが
 自分でもおかしい位です おかしい位です

 三年の間あちらこちらを廻り
 その感動を君と分けたいと思ったことが沢山ありました

 ビクトリア湖の朝焼け 100万羽のフラミンゴが
 一斉に翔び発つ時 暗くなる空や
 キリマンジャロの白い雪 草原の象のシルエット
 何より僕の患者たちの 瞳の美しさ

 この偉大な自然の中で病と向かい合えば
 神様について ヒトについて 考えるものですね
 やはり僕たちの国は残念だけれど何か
 大切な処で道を間違えたようですね

 去年のクリスマスは国境近くの村で過ごしました
 こんな処にもサンタクロースはやって来ます 去年は僕でした
 闇の中ではじける彼等の祈りと激しいリズム
 南十字星 満天の星 そして天の川

 診療所に集まる人々は病気だけれど
 少なくとも心は僕より健康なのですよ
 僕はやはり来てよかったと思っています
 辛くないと言えば嘘になるけど しあわせです

 あなたや日本を捨てた訳ではなく
 僕は「現在」を生きることに思い上がりたくないのです

 空を切り裂いて落下する滝のように
 僕はよどみない生命を生きたい
 キリマンジャロの白い雪 それを支える紺碧の空
 僕は風に向かって立つライオンでありたい

 くれぐれも皆さんによろしく伝えて下さい
 最后になりましたが あなたの幸福を
 心から遠くから いつも祈っています
 おめでとう  さよなら


 唄いたいなあ、ひさしぶりに。
 しかし、よく出来た作品だ。さだまさしさん(思わず師匠と書きそうになった)の友人である、柴田医師の実体験に基づいて作られた楽曲である。
 この曲は、中学校の道徳授業の資料として用いられていることもあるようで、いくつかのサイトでその指導案をチラ見してみたら、同じ教員として授業者に成り代わり師匠におわびしようかなという気持ちになった。
 
 この人生を、ある指導案(福岡県の中学校)では「つらいことを乗り越えて」「理想を実現し」た人生ととらえている。
 「真理を愛し、真実を求め、理想の実現を目指して自己の人生を切り拓いていく」ことを教える教材として扱われているのだ。
 学校の先生というのは、なぜ文学を道徳にしてしまうのだろう。
 この歌を一回聴けば、歌詞を一読すれば、小説や映画のように、ひとつの人生がうかびあがってくる。
 そこにあるのは、困難を乗り越えて夢を実現した男のさわやかな前向きさだろうか。
 別の人との結婚が決まったことを知らせる手紙をアフリカに送った彼女の側から見れば、この主人公は「自分を捨てて自分のやりたいことを選んだ男」である。
 夢を追う男。
 そんな男をひたすら支え続け、あたしはどんな目にあってもいい、あなたを信じ続けると唄うのは演歌の方向性だ。
 信念に生きる男はいえばかっこいいが、まわりが迷惑をしている場合だって現実にはたくさんある。
 アフリカで多くの人の命を救いたい。
 崇高な使命である。
 では、なぜアフリカなのか。
 もしそう問われたなら、この歌のモデルになった柴田医師にも、ほんとうのところは説明できないのではないか。
 説明できないほどの思いに突き動かされて自分のやりたい道を突き進める人は幸せだ。
 その道は、必ずしもすべての人を幸せにするとは限らない。
 人生とは、そんなに思うようになるものではない。
 だからこそ人生はせつなく、しかし愛おしく、それを描くのが文学のはずで、この歌を聴いて涙を流す人は、そんな文学チックなところに心動かされるのだと思うのだが、どうだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

270円

2010年04月07日 | 日々のあれこれ
 午前中の講習で漢文をやってて、「之を惜しむ」の訳がもうひとつ書けてなかった。
 「之」は、筆者が飼っている鸚鵡を指すことは文脈から理解できていたようだ。
 「惜しむ」を「もったいながる」「残念がる」の意味でしかとらえられないと、うまくつなげられない。
 じゃ、先生惜しんでみるよ。ここに一杯の牛丼があります。
 これ大好きなので、こうやって食べるよね、だんだん減ってくる、ああ、もう終わってしまう、惜しいなあ、だよね。
 つまり牛丼は、その人にとって大事なものなんでしょ。それが「惜しむ」だよ。こういう時は「大切にする」と訳せばいいよ。
 牛丼といえば、今日あと10分ほどで、一杯270円になるよね。
 きょとーん。
 え、しらない? 吉野家の牛丼。
 きょとーん。(亀井大臣か!)
 期間限定で吉野家の牛丼が270円になるというのは、けっこうなニュースではないかと思っていたけど、育ちのいいうちの生徒さんがたには、それほど大きな問題ではなかったようだ。
 この歳になって、牛丼が安くなることにときめいた自分が恥ずかしい。
 先日は、ほっともっとで、のり弁が200円だった。
 大学生の時はじめて食べたのり弁は、当時230円ではなかっただろうか。
 店名は当然ほっかほっか亭だった。
 30年の歳月を経て、期間限定とはいえ、当時より安いのり弁を目にすることになろうと、いったい誰が想像し得ただろうか(いや、誰も想像しない)。
 200円ということは、5個食べてやっと1000円である(食えないけど)。
 GOGOカレーのメジャーカレー(ロースカツ、チキンカツ、エビフライ、ウインナ、ゆで卵乗せ)にも匹敵する激安感だ。
 一本何百円で買えるジーンズもある。
 ものが安くなるのはありがたいが、そのツケは人件費にしわ寄せが来ているのはまちがいなく、ほんとうに幸せなことなのだろうかと思いながら、安いうちに一度は食べないと損をするような気がして。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時をかける少女

2010年04月05日 | 演奏会・映画など
 昨日、やっと「時をかける少女」を観れた。
 二十数年前の「時をかける少女」は、たしか「Wの悲劇」と二本立てだったのを観たと思うのだが、中身の記憶がない。それだけ「Wの悲劇」の衝撃が強かったのかもしれない。
 原田知世の唄うテーマソングはもちろんカラオケで唄った。まだ8トラックだった時代だ。
 映画がはじまってすぐに流れる、いきものがかりの唄う「時をかける少女」を聴いたとき、一気に二十数年前にもどっていく感覚があった。人間の肉体とはまさしくタイムマシンみたいなものだ。
 タイムリーブとかケンソゴルとか耳にしたら、われわれ世代はきっと皆キュンとくるものがあるのではないか。
 二十数年の時を経て、人生経験は増えた。知識も増えた。身体は衰えた。
 だから感性が昔よりも鈍くなっているはずだけど、何に感動し、何を美しいと感じ、何をおいしく食べ、何に憤りをおぼえるかというような人間の根っこの部分はおそらく変わっていないから、中身だけはすぐタイムリーブできるのだろう。
 それにしても、仲里依紗さんの存在感はすごい(正直に「かわいい」って言えばいいのに … )。
 不思議なのは、昔、薬師丸ひろ子 や原田知世に対して、かわいらしいなあという思いを、それほど抱かなかった(たぶん)。
 それは決して今えろおやじになったということではなく、昔は目の前にいる女子をなんとかすることこそが重大事であり、二次元世界の娘に恋いこがれている余裕がなかったからだと思う。
 ゼブラーマンではいったいどんなことになっているのであろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする