昨日の帰りに水嶋ヒロくんの『KAGEROU』を買いに川越駅のブックファーストに寄ったら、「売り切れ。入荷未定」の札。
すごいね。43万部も刷ったとニュースにあったが、それでこんな状況だなんて。
普通なら、文学賞をとったからといって、初版で1万冊刷ることはたぶんないと思う。
ふだん本を読まない人がこれだけたくさん買ったということだから、水嶋くんの功績は大きい。
これをきっかけに本を読む人が増えれば、増えれば … 。
増えればどうなるのだろう。
少なくとも私に何の恩恵もないのはまちがいない。
いや、これをきっかけに国民の読書熱が高まり、読解力も上がり、子供たちの国語の成績があがり、PISAのスコアもますますあがって … 。
だめだ。それだと国語の先生がいらなくなってしまう。
釜のふたがあかなくなる。
でも、『KAGEROU』を購入した人が継続して読書好きになっていく可能性は低いとみていいかな。
リアル書店に行く回数が減ってしまっているが、たまに行くとやはり、アマゾンやbk1より、現物をみて買えるのがいい。
本屋をぐるっとまわって、へえこんな本もあるのかと発見があったり、絶対買おうと思ってた本の中身がたいしたことなさそうなのに気づいたり、まったく知らない作家さんの本でオーラが出ている本に出会ったり、参考書コーナーで会話している高校生にどうしても口をはさみたくなったり、レジの二番目のおねえさんいい感じなだなと思ったり。
本命はゲットできなかったが、「のだめ25」「ちはやぶる11」「CDミック立川談志1」など、本命より明らかに値打ちありそうな本を購入して帰宅できてよかった。
帰って、『一冊のノートにまとめなさい』シリーズの著者の新しい本『人生は1冊のノートにまとめなさい』をぱらぱらとめくる。
「情報、読書記録を1冊のノートにまとめなさい」と説いたこれまでの本からさらに進み、自分の人生の記録をノートにまとめなさいと言う。
そして大事なのは、それを時折読み返すことだと。
そうしない人生は、日々「過去の使い捨て」をしているのだという表現になるほどと思う。
使い捨てか … 。
そのとおりかもね。もちろんいろんな経験は身体にたまってはいるけど、のど元過ぎれば熱さ忘れるで、毎年同じことの繰り返した。
使い捨ててるという意識はないとはいえ、もっと自分の過去を大事にした方がいいかな。
でも一方で、意識しなくても過去の土台の上に生きているのだから、つまり自分の過去からは逃げても逃げられず、その延長上を生きるしかないのだから、過去を忘れ去って生きようとするくらいがちょうどうよいのかもと思う。
「笑コラ」で有名になった高輪台さん、鹿児島情報さんより先に、「カヴァレリアルスティカーナ」だけ観た。
うちも一昨年演奏した曲であり、何回でもやりたい曲のひとつだが、音符自体はそれほど難しくないから、この曲で全国金賞をとるには埼玉栄高校さんのサウンドしかないのかと思っていたが、見事今年金賞を受賞された旭川商業さんの演奏だ。
すばらしかった。最初の一音から最後の一音まで、奏者全員がすべての音を宝物のように演奏しているのがよくわかる。
もちろん、全国の舞台に立つバンドはどこもそうなのだろうが、机の上のちっちゃなDVDで観ててさえ、それがひしひしと伝わってくる演奏だった。
もとのオペラをDVDで観たし、オケの演奏も繰り返し聴いてきたけど、この吹奏楽のカヴァレリアは、オケとはまた別次元のよさがある。
時々、オケのサウンドを目指すだけなのかと思われるアレンジや演奏に接すると、そんな音楽を目指すんだったら吹奏楽やる意味ないじゃんと言いたい時がある。
でも、こんなカヴァレリアを聴いてしまうと、やはり吹奏楽にしかできないものはあると確信できるのだ。
成績会議直後の喧噪のなか、数分間こっそり涙をこらえていたのはばれなかった。
ハーバード大学、サンデル教授による『これからの「正義」の話をしよう』は、現代社会の様々な問題をとりあげて、机上の空論ではない「正義」を、討論を通じて見出していこうとする講義録だ。
講義の映像を数分見たとき、これは授業というよりパフォーマンスだなとの印象をもち、本をぱらぱらっと見ると巧妙な誘導尋問かなとも思うのだが、来年度3年生の小論文対策を始めるまでには熟読玩味してみたい。
ただ、サンデル先生の名講義でも、ほんとに真剣に考えるには具体度が不足してるのではないか。
たとえば、妹の命を助けるために、臓器目当ての偽装結婚は許されるかどうか、という問題をたててほしいし、そのお礼に300万円は妥当なのか、上戸彩だから頼んだんじゃないのか、北乃きいちゃんだから、そこまでできるのではないかという、人として触れられたくない部分まで考えてはじめて、机上の空論でなくなるのではないかと思うのだ。
母親が原田美枝子、妹が北乃きい、婚約者が板谷由夏という、女子マネージャーがドラッカー読む以上にありえない設定をしてしまたドラマ製作班の倫理観も問われるべきであろう。どの登場人物にも「ほれてまうやろ!」状態に陥るしかないではないか。
実際問題、偽装でない結婚ってあるのかな …
「う~ん、微妙かな」「えっ、もう観たの?」「えっうん、土曜に … 」「おもしろかった?」「高校生という時代の貴重な時間を費やす作品としておおいなる疑問を父はいだくよ」「 … 」
「マチェーテ」は、たしかにがんがん人も死ぬし、過剰なエロもあったが、若者が観たところで、悪影響をおよぼすとはかぎらない。R18指定はおかしい。
健全に育っているお子さんなら小学生でもだいじょうぶだ。
「ノルウェイの森」はR12指定。中学生が観ていいだろうか。
観てもいいけど、つまんないよ。エロいだけだよ。
つまんなくない中学生の場合、悪影響はあるかもしれない。
よほど読解力にすぐれ原作のもっているメッセージに近づけるタイプだと、むやみに死が身近に感じたり、部活とかやってて何になるの? と思ってしまったり。
たとえば30年前の中学生、高校生が『二十歳の原点』にハマったみたく。
さすがに高校生ともなれば、精神への悪い影響まではもたらさないだろうが、村上春樹ってこんなもんなの? というがっかり感を抱く危険性はある。
精神のおかしい人たちが、ヤらしいことに過剰に意味づけしてるだけじゃん、というように。だからR18です。
ていうか、部活でがっつり汗かいて、やべーちょーはらへったー、という状態の若者が観たら、不快感しか残らないのではないか。
もし、生徒さんにそのように言われたなら「それが文学なのだよ」と答えるしかないかなと思う。
そして映像にするとこんなものかといえば、こんなものだと。
たしかに原作のいろんなシーンが描かれてない、だからある性描写に至る必然性が感じられないという批判はあるだろう。
内田樹先生もそのように書いておられた。
でもあえて言うなら、すべての文学作品のエッセンスのみをコンパクトに映画化するなら、その多くは性描写と死の場面になってしまう。
作品のもつ内容を、映画にしかできない形で表現しえた時に、それは成功昨と言えるのであり、映画「ノルウェイの森」はそういう意味での成功作とは言えないが、それは原作が悪いわけでも、映画というジャンルに問題があるわけでもない。
普通に原作を読んだ方が、ふつうに映画を作ったらこのぐらいの結果になるだろうなという感じだった。
予想を超えていないという意味で、映画観てよかった度合いについては不満足な面もあるが、水原希子さんという初めて見る女優さんの存在感だけは圧倒的だった。
アジフライ、中華風唐揚げ、冷や奴、味噌汁、小ライスの計550円というちょっと豪華なお昼を食す。
といってもビジュアルは決して豪華には見えないし、素材うんぬん言える値段でもないが、ほどよい満足感は得られる。
有名店で5500円のランチを食したからといって、必ずしも同じ満足を得られるとは限らない。
ハイからなお店のおしゃれなコースより、カツ丼大盛的なごはんの方が性に合っている人もいるということで、でもそれゆえに人として劣っているというものでもないのだ。
B級のなかに優れたB級があり、A級のなかに低品質のA級がある。
けっきょくジャンルのちがいであり、どちらかがえらいというものではないのだろう。
吹奏楽は音楽のなかではB級と扱われることも多いが、音楽として劣っているわけではないし、A級と扱われるオケが常にいい音楽であるというものでもない。
もちろん、それぞれのジャンルのなかに、いいものと悪いものはある。
だからといって、ジャンルそのものがすぐれているとか、劣っているとかはたぶんない。
もし吹奏楽がクラシックに比べ劣っているように見えるとしたら、ジャンルとして未成熟な面があるからだろう。
日本の吹奏楽を牽引してきた東京佼正ウィンドオーケストラの演奏会に一昨日でかけた。
課題曲を演奏して、親しみやすい名曲をいくつかやって、有名な吹奏楽の大曲でしめるといった、お子様向けの演奏会ではない。
クラリネットと指揮のポールメイエ氏がプロデュースした、ジャズの要素を取り入れた吹奏楽作品ばかりのプログラムだった。
そのせいか超満員の客席といった状態ではなかった。
演奏はすばらしかった。
前半、ビッグバンド編成を従えて、ポールメイエ氏がクラリネットソロと指揮をする。
そのままブルーノートトーキョーでやってぴったりの曲がいくつか。
かっこいい。ていうか外人さんて、やっぱかっこよく見える。
かっこよさ偏差値の等しい日本人とフランス人がいたら、やっぱ日本人は一歩見劣りしてしまう。
オケを見にいったときも感じるけど、基本的に西洋の楽器は西洋人に一番似合うのは、もうDNA的にしょうがないと思う。
後半はメイエ氏の指揮によるフルバンドでバーンスタイン「シンフォニックダンス」とガーシュイン「パリのアメリカ人」。
「ウィークエンドインニューヨーク」をやるために、ぜひとも聞きたかった。 採点終わってないけど行ってよかった。
メイエ氏の奔放な棒は、すっかり大御所になってしまったメンバーの方々を落ち着かせない。
前のめりの棒がほどよい緊張感となって渾然一体の音楽を紡いでいく(なんか吉田秀和みたくなってきたぞ)。
この日得られた満足感は、A級とかB級とか、クラシックとかジャズとか吹奏楽とか関係なく、あの日あの場にあった楽器群が奏でた、かっこよく心地よい音楽だった。
当日券も、高校生対象の割引もあったようだ。こんどはみんなを無理に誘って来よう。
ちょっと失敗した。
光源氏が義理の母親とも言える藤壺女御と過ちを犯す話をして、この時源氏は18歳、ちょうどみんなと同じくらいだが、きわめて身近に血のつながりのない27歳くらいのきれいな女性がいたら、悶々とするに決まってるよね、と話す。
27歳ぐらいの芸能人をさっきネットで調べたら、ゆうこりんとか宇多田ヒカルとかいたけど、個人的にまじツボな方がいらっしゃいました、水川あさみちゃんです。どうですか、との問に大きくうなづいてくれたのは一人だけだった。
でもやばくね? たとえば、「ただいま」って家に帰ったら、ちょうどシャワー浴びたばかりのあさみちゃんがバズタオルまいて出てきて「お帰り、夕飯先に食べちゃったからね」とかふつうにいたら。
というような話なのだが、まちがって教えていた。
藤壺女御は源氏の五歳上でしかない。
じゃあ、23歳。本仮屋ユイカちゃんとか長澤まさみちゃんということになるが、なおやばいではないか。個人的には27歳の方がありがたいけど。
今日解いた文章は、「柏木」の巻の一部。
源氏の正妻である女三宮と柏木が密通し、それが源氏にばれて柏木が病の床に伏した後の場面。このとき源氏は40代末、女三宮は22歳ぐらいの設定なので、22歳の女優さんを調べてみたら、佐々木希、新垣結衣、吉高由里子、戸田恵梨香、堀北真希 … とでてきたので、頭がくらくらしてきた。
柏木にとられてる場合じゃないでしょ、ほぼ同じ年の源氏さんよ。
22歳といえば、早稲田の斎藤投手もそうかな。
昨日、札幌ドームでの入団発表の様子を見たけど、「もっている」人はさすがにちがうと感じる。
18番のユニフォームを着せられて、8000人もの前で会見をして、これだけ世間から注目されてて、それであの普通の笑顔でいられるなんて、並の心臓では無理だろう。人間の次元がちがう。
8000人の前で歌えといわれたらなら、ちょっとチャレンジしてみたい気はする。
ただそれが、合奏がはじまったとたんだったり、授業の空き時間でしかも頭が働いているという数少ない貴重な時間だったりすると、電話で中断させられるのはつらい。
今日も、あまりに頻繁な会社さんに、必要ならこちらから連絡するので、電話はやめてください、と言ってしまったが、不機嫌が声にでてしまったと思われる。
だいたい、ほかに連絡手段がないならともかく、自分たちの都合のいい時間に自分たちの都合にあわせて仕事をされる方が、民間にもあるなんて。
それくらいの想像力もない業者さんだから、企画そのものに疑問をいだいてもしょうがない。
もちろん、業界がなかなか大変なのは承知しているつもりだ。
楽器のトレーナーの先生方と話していると、学校公演や芸術鑑賞会、ぞくに音教とよばれるお仕事が減りこそすれ、さかんに行われる方向性になる地域・学校はまずないようだ。
子供の数の減少、文化的なものに回される予算枠の縮小などが主な理由なのだろう。
でも、難しいですね。学校がどこまでやるのか。
芸術鑑賞会と銘打って、学校で無理矢理鑑賞させることにどの程度意義を見いだせるか。
担当の先生に、まず深い見識が求められるのはまちがいないが、そんな先生がそこらじゅうにいるわけはない。
生徒に鑑賞させるべき芸術でいま旬なのは、歌舞伎ではないだろうか。
歌舞伎ってどんなものなのか知らずに、少なくとも歌舞伎座に足を運んだことのない人の方がたぶん多い状況で、みんな楽しげに海老さまいじめをやっている。
海老蔵さん自身「歌舞伎を愛する皆様におわびしたい」と言っておられたが、だとしたら、謝罪の対象となる人はきわめて少ない。
メディアでコメントしてらっしゃる方も、実際に身銭をきって歌舞伎を見にいらっしゃっている方が、どれだけいるのだろう。
今朝の「天声人語」にも「『心の勉強』を重ね、荒々しく戻ってきてほしい。夜の街へではない。」と、よけいな一言ともにコメントされてたが、海老蔵さんの価値をこの方はわかって書いてるのか。おれもわからないけど。
それにしても、自業自得の面があるとはいえ、被害者でありながらこれだけバッシングされる海老蔵さんは、ひょっとしたら天性のヒールかもしれない。
それなら、松竹から謹慎になっている間だけでも、衰退の一途をたどるプロレスのリングに来てはもらえないか。
いい仕事してくれそうな気がする。同じ伝統芸能なのだから(天声人語ちっくな終わりでしょうか)。
でもね、日本の先生方が本気になれば、あんなテストの結果をよくすることは、そんなに難しいことではない。
とはいえ、前回、前々回以降、きっと中学校の先生方、いろいろ対応されたのであろう。
おつかれさまです。
文科省の方も、今回のことをきっとお喜びになってらっしゃると思う。
さらに結果を出すには、今回までの取り組みを報告させたり、新たにこんなこともやりましょう的なことを言ったりしないことだ。
だいたい、よけいな仕事を減らしさえすれば、中学校の先生方はもっと学力向上に力を発揮されるはずなのだ。
何か事件が起こった後に、なんとかアンケートとか回ってきたって、「くそいがしいのにふざけんな」と思われるだけであろう。
だいたい、公立の先生の教員評価にしても、あの制度のせいで、がんばろうと思う先生って増えるなんてことはないと思うのだが、どうだろうか。
自己評価は他人の評価よりも必ず何割か上増しになっているのが、人間という生き物だ。 まして、その何割かの比率が平均より高いのが教員という人種でもある。
なのに自己評価と管理職評価とのあいみつみたいなの、やるんでしょ。よく知らないけど。
先生方を不機嫌にこそすれ、頑張らせる方向性になるとは思えないのだ。
もっといえば文科省の存在そのものが。
文科省からおりてくる様々な仕事が今の半分になるだけで、公立の先生方の仕事パフォーマンスはかなり向上する。
幸楽苑のラーメンが美味しく感じられたのは、チーフが機嫌良く働き、それが他の授業員にも伝わっていたからだ。
仕事って、それで何をやったかも大事だし、結果もほしいのはたしかだけど、直近の上司に「お疲れさま!」って言ってもらえるのが一番うれしい(なかなか言ってもらえないさびしさはよくわかる)。
きっと、人の上に立つ者が一番に考えるべきなのは、従業員にいかに機嫌良く働いてもらうかなのだろう。
だとしたら、文科省は真逆のことをやり続けている。
部活の顧問としても、それを忘れてはいけない。
期末試験終了。さすがに今日は全員そろった。
「16世紀のシャンソン」は初めての合奏なので、音がないときは「1と2と」と声を出して数えながら、音符が出現したら吹くという合奏。
「ウィークエンドニューヨーク」は、細かいことは気にしないわかちこわかちこの合奏。
1時間半ぐらいだったが、こんな曲かという感覚を共有できたのが大きかった。
「合奏が一番効率のいい練習」を実感する。
いろいろ貯まってて帰れそうにないので、木野目交差点の幸楽苑で味噌ラーメンを食す。
夕方を過ぎて、お客さんがひっきりなしに来店している状況で、丼が供せられるまで、この店にしては待たされた。
かなりの空腹感で文庫本も頭に入らなくなってきたので、厨房の様子などぼおっとみていると、チーフの方の仕事ぶりが実にてきぱきしてるのに気づく。
ラーメンをゆでながら、ギョーザを投入し、サブのお兄さんにライスをよそうタイミングを指示したり、フロアの二人のおねえさんに、先にこっちのお子様セット出してと指示したり、店に入ってきた一人客に声をとばしてカウンターに座ってもらったり。
おねえさん(若い方)がたぶんライスなのにチャーシュー丼をもってってしまったのに気づいて、お客さんすいませんと、けっこう距離感あるのに声をかける。
おねえさん(年配の方)が迷った動きをしたときに指示をする声もはっきりしてるのだけど、怒気がまったく含まれていず、客としてカウンターに座ってて不快感を感じない。
ほれぼれした。思わず「うちの店で働かない?」と声かけそうになった(誰やねん)。
ラーメン自体は、よくもここまであっさりした(こくのない)味噌味ってつくれるなといつも感じるお店ではあるのだが、仕事ぶりに気持ちがいいせいか、なんかいつもより美味しかった。
ファストフードのチェーン店でも、誰がつくるかによって味はずいぶん変わる、お店の差もけっこうある。吉野屋さんしかり、山田うどんさんしかり。GOGOカレーの場合は、新宿東口店が、本店や高田馬場店より圧倒的においしい。
つくづく人が大事だと思う。
音も同じなのだろう。あきらかに上手だけど今一歩心にひびかない演奏もあれば、技術的には劣るのに心に残るものはある。
音楽に対する姿勢なんて高次元のものではなく、ふだんの暮らしぶりとか、もっと細かいことの積み重ねとか、その人のキャラクターとか、そのときの気持ちなんかが大きな要素をしめる。
一番大事なのは、幸楽苑のチーフの方のように、仕事に対して不機嫌でないという要素ではないか。やりたくてやっているかどうかの度合いといっていいかもしれない。
福田和也・石丸元章『男の教養 トンカツ放談』には名言が満載。
「circus」という雑誌の対談をまとめたもので、毎回、トンカツを中心にした揚げ物をがしがし食しながらの時事放談のページだ。
福田和也先生、けっして好きなタイプの評論家ではないが、文壇の常識なんかくそくらえという姿勢は魅力的で、それは50歳をこえてこれだけの揚げ物を食し、酒を呑めるところにそのパワーの源があるのかと思う。
やっぱり男なら揚げ物いかねばと思い、昨日はGOGOカレーのカツカレーを食べておいた。
福田 デイトレードで500万円すってしまうなら、そのカネでトンカツ食ったほうがいい。
石丸 ホント、そうだよ。
福田 女の子と遊んだり、好きなもの買ったり、食べたり、楽しんだ時間の思い出というのは、ナチだろうとスターリンだろうと奪えないからね。
石丸 いいこと言うなあ。
ほんと、いいこと言うなあ。
部活も、誰にも奪えない思い出つくってるんだろうなと思う。
別に金賞のトロフィーそのものがほしいわけではない。
それももらうまでの時間、もらった瞬間の気持ちの高まり、その後の虚無感、そしてそれらを仲間達と共有したこと。
誰にも奪えないし、誰にもじゃまされたくないと思う。