水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

ドラゴンタトゥーの女

2012年02月14日 | 演奏会・映画など

 1、2年生がスキーに行ってしまった学校は実に静かだ。
 3年の講習も、入試に出かけている子が多いため参加者は少なく、昨日の国語は3人だった。
  この期間は職員室が静かなのが一番ありがたい。まあまあ仕事がすすみ、5時には学校をしめる雰囲気になっていたのでその流れにのり、かえりがけに「ドラゴンタトゥーの女」を観る。
 オープニングタイトルの映像がはじまった瞬間にひきこまれると、そのまま2時間半の長尺をまったく感じさせない完璧な構成感。どこをとってもすきのない近年の春日部共栄さんの演奏のような無比の作品だった。
 お子様にはおすすめできないけど、まさにThis is映画だ。
 昨年は「キックアス」のクロエ・グレース・モレッツさんがマイベストヒロインだったが、今年はこの娘さんにつきる。
 何て言う子だっけ。タトゥーとピアスで身を包み、街で出会ったらよけてしまいそうな細身の女の子で、天才ハッカーのリスベット役の子。ちょっとネットで検索。ルーニー・マーラさんね。
 かっこよすぎる。そしてせつなすぎる。ここ何年分の映画を思い出そうとしてみても、そのせつなさ度は一番だ。
 40年前に起きたある一族の殺人事件の真相を解明するというのが作品の大筋で、徐々に事実が明らかになっていく過程のスリルとサスペンスももちろん楽しめる(この謎解きはそんなに予想外ではなかった)。
 真相を解明しようとするジャーナリストであるミカエルの助手になったリスベットの心の闇。
 彼女の人生はたしかに誰もが経験するレベルのものではないし、彼女のような風体でしかも極めて高い知性をもつ人間像は、普通の存在ではない。
 ただ、彼女が感じている生きにくさや繊細な悲しみには、多くの現代人が感じるところがあるのではないだろうか。
 肉体のつながりと精神のつながりの危うい不均衡についての描写もさすがで、R15の値打ちがあった。
 たった一つの特殊な具体を徹底的に具体として描くことで、普遍につながるものが立ち現れてくるという意味で、すぐれた文学作品に通底するものがある。
 ちがうか、文学とかじゃなくて、芸術とはそういうものと言っちゃっていいかもしれない。
 そう言えば昨日添削した文章にそういうのがあった。
 東大2007年の問題、清岡卓行『手の変幻』の一節だ。

 ~ レンブラントのそうした作品の中から、有名な傑作ではあるが、ぼくはここにやはり、『ユダヤの花嫁』を選んでみたい。 …  茶色がかって暗く寂しい公園のようなところを背景にして、新郎はくすんだ金色の、新婦は少しさめた緋色の、それぞれいくらか東方的で古めかしい衣装をまとっているが、いかにもレンブラント風なこの色調は、人間の本質についての瞑想にふさわしいものである。そうした色調の雰囲気の中で、いわば、筆触の一つ一つの裏がわに潜んでいる特殊で個人的な感慨が、おおらかな全体的調和をかもしだし、すばらしい普遍性まで高まって行くようだ。この絵画における永遠の現在の感慨の中には、見知らぬ古代におけるそうした場合の古い情緒も、同じく見知らぬ未来におけるそうした場合の新しい情緒も、ひとしく奥深いところで溶けあっているような感じがする。こうした作品を前にするときは、人間の歩みというものについて、ふと、巨視的にならざるをえない一瞬の眩暈とでも言ったものを覚えるのである。 ~

 「ひとしく奥深いところで溶けあっている」とはどういうことか、とこの部分では問われる。
 正直何言ってるかよくわかんないけどね。
 新郎新婦の構図、その雰囲気、色調、レンブラントにしか描き得なかったその絵だが、そこに人間全体への思いを抱いてしまい、くらっとなってしまうほどの感慨を抱いた、普遍を感じたということだろう。
 すぐれた作品に触れたときに、あまりにありきたりすぎると思いながら「人間のなんとかを感じる」とか言いたくなる、あの感覚。
 そういうのがうまく説明できればいいのだろう。
 いきおいで引用すると、次の一節もかっこよかった。

 ~ この世の中に、絶対的な誠実というものはありえない。ある一人に対する、他の人たちに対するよりも多くの誠実が、結果としてあるだけで、しかも、主観的な誠実が必ずしも客観的な誠実ではないという、困難な状況におかれることもある。したがって、問題は、幸福と呼ばれる瞬間の継起のために、可能なかぎり誠実であろうとする愛の内容が、相互性を通じて、結婚という形式そのものであるような、まさに内実と外形の区別ができない生の謳歌の眩ゆさにあるのだ。 ~

 「絶対的な誠実」などない。
 誠実であろうとしてとった行動が、他人にとっては迷惑な場合もあるし、極端な話、犯罪行為になることもある。
 映画の後半、リスベットがミカエルの正しさを証明するためにとった行動は、明らかに犯罪であり、相手方を死においこむものの、それはリスベットの徹底的な誠実さにもとづく行為だった。
 だからこそ、その誠実を受け取ってもらえない哀しみが、それを知ったリスベットの瞳が、心を打つ。

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連休

2012年02月12日 | 日々のあれこれ

2月11日
 せっかくのご縁をいかすべく、音楽座さんの稽古に一年生中心で見学に行かせていただいた。
 地方巡業に出かける前日の通しリハーサルだったので、衣装を着てない以外はもうほぼ本番そのもので、シーンをとめてのダメだしなどもない。
 舞台と客席というより同じ空間にいる感覚のせいで、先日見せてもらった本番の舞台以上に役者さんのエネルギーが伝わってくるばかりか、客席からは見えない部分で、どれだけたくさんの人が本気で芝居をつくっているのかも感じる。いつしか部員に何かを感じてもらいたいとかいう当初の目的は忘れ、ただただ感動してた。みんなも感じてくれたんじゃないかな。行ってよかった。
 心地よい興奮と陶酔感の余韻を大事にするために、帰りはまたロマンスカーにのり、缶ビヤを一本所望いたしました。
 新宿につくと山手線がとまってて、そのせいで埼京線のホームがとんでもない状態になっていた。
 急ぐ旅でもないと思い、てくてく西武新宿まで歩き、今度はレッドアローの小江戸号で本川越まで。
 40分以上乗って特急券410円は、かなりお得感があった。

2月12日
 受験に向かう次女のおにぎり(鮭こんぶ・高菜ちりめん・ツナ)をにぎったあと、南古谷に車をとめて久喜へ向かう。大宮から東北線のグリーン車に乗ってみた。ゆったり座れるうえにテーブルがあるのがいい。席に着いてすぐ仕事をしはじめ忙しい会社員風を装ってみたが、いかんせん20分で着いてしまうから古典の予習一問おわらなかった。これで550円はちょっとボリすぎではないかな、JR東日本さん。
 久しぶりの指揮法レッスンはなかなか進まない。
 「先生、ここはどうすればいいんですか」と安易に聞いてしまうと、「どういう音楽にしたいんですか?」「どんなイメージ?」と尋ねられ、それがないことに気づく。
 音楽座のリハが終わったあと、団員の藤田さんがいろいろ部員達に話をしてくれた。
「どうやれば気持ちが伝わるんですか」という質問に、「まず感情で満ち溢れてないと、お客さんには伝わらないよ」というお答えをいただいたことを思い出す。
 ないものは表せない。機械的に三拍子をきざんでもワルツにはならないのだ。
 終えて普通車で南浦和へ移動し、さいたま市文化センターでの楽曲研修会に出かける。
 春日部共栄さん、伊奈学園さんの演奏する課題曲を聴けてよかった。
 楽譜が来て一週間くらいでこのレベルに達してしまうのかという驚きは、毎年のことだ。
 いや楽譜が来てからに期間の問題ではない。
 そういう演奏体を何ヶ月、何年でつくりあげている氷山の一角として目の前の演奏はある。
 1・2年生たちは、無事に新潟や札幌についただろうか。

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武器

2012年02月09日 | 日々のあれこれ

 指定校推薦で合格したみなさんに、「大学生活をどう過ごしたいか」という題の作文を宿題に出した。
 課題図書も読まねばならないのだが、20数冊示したうち人気の高かったのは、瀧本哲史『武器としての決断思考』と中谷彰宏『大学時代にしなければならない50のこと』の2冊だった。
 『武器決』はちょっと前どの本屋でも山積みだったから、目に入りやすかったのかな。
 中谷本は、活字が少ないのも人気の理由ではないだろうか。本を読まずに書いたなと思われるのもあったが、呼び出していじめたりはしてない。
 瀧本哲史先生のご本は『僕は君たちに武器を配りたい』の方も大ベストセラーだが、このタイトルほど学校の先生の仕事を表す言葉はないと思う。
 そう、武器を持ってもらいたいのだ。丸腰で世をわたっていくのは危険だから。
 非凡な人なら大丈夫かもしれない。
 どんな生き方を選んだにせよ、まわりからその天才を認められるような人なら。
 そういう人は、丸腰で天然のまま生きてても、周囲がほおっておかない。
 ただし、天才ともてはやされる人のほとんどは、類い希な才能を持つ人が想像を絶する努力をした結果の姿であることも、大人ならわかる。
 想像を絶してしまうわれら凡人が世を渡っていこうとするならば、せめて、普通にものを考えられる力とか、簡単な計算能力とか、気持ちよく挨拶できることとか、思いやりの心とかをもっていた方がいい。
 われわれが生徒さんになんとか身につけてもらいたいと思っている、学校的勉強での学力や、その結果の一つとして手に入れられる学歴は、武器としてはきわめて有効なもののはずだ。
 瀧本先生のおっしゃる「決断思考」も、最近はまっている岡田斗司夫先生の「論理的思考による防衛力」も、有効な武器だ。これを身につける場として、大学は実に効果的な場所だから、行けるものなら行っておいた方がいい。みんな受からないかなあ。

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二次元無

2012年02月08日 | 日々のあれこれ

 しつこいけど課題曲「寿限無」はよくできていると思う。
 現実問題として、無理なく演奏できる曲という観点からも、多くの団体が取り組まれるのではないだろうか。
 となると、リズムにあわせて「寿限無、寿限無 … 」とみんな言ったりするんだろうな。
 ほんとうの落語家さんのを聞いてみたいと思う人が増え、平日はがらがらの日が多い池袋演芸場が、春ぐらいから突然中高生で賑わうなんてこともおこるだろうか。
 おこらないか。突然出かけて「寿限無」を聞ける可能性はきわめて少ないし。
 基本的に若い前座さんがかける噺なので、もしどなたが演じたとしても爆笑にはならないと思うが、いろんな落語家が改作をしているし、ラップ「寿限無」のCDも出ている。
 「さよなら絶望先生」の久保田先生による「じょしらく」というマンガがある。
 文字通り女子の落語家さんが主人公のマンガで、CD付き特別版コミックが出ている。
 せっかくなので軽い気持ち買って聴いてみたら、「寿限無」のパロディ「二次元無」にびっくりした。
 後藤沙緒里さんという声優さんが演じているのだが、さすが声でごはん食べてる方はすごいものだと思わせられた(業界ではちょう有名な方なのだろう。そうでしょ、さこう君?)。
 「二次元の世界」にはまっているオタクがリア充になって結婚できて娘が生まれて、そこで名前をつけるという設定だ。
 娘をみて「稼働箇所が多いよ」「名前?デフォルト設定は無いのか…」なんて台詞は、さすが久保田先生だ。
 で、オタク仲間のおしょうさんに相談してつけた名前が、
「ハルヒハルヒ、シャナの逢坂大河、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラヴァリエール、鉄乙女に惣流・アスカ・ラングレー、沢近愛理に三千院ナギ、翠星石翠星石翠星石の真紅、真紅の神楽坂明日菜、明日菜の柊かがみの桂ヒナギクの遠坂凛の荻上」
 おれはほとんどわかんないキャラばかりだけど、爆笑してしまった。
 多くの部員たちには慣れ親しんだ名前ばかりじゃないかな。
 とにかくよくできた作品だった。
 「寿限無」を作曲された足立正先生には、ぜひ「二次元無」も作曲していただきたいものだ。

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さくらのうた

2012年02月07日 | 日々のあれこれ

 しつこいけど美しい曲だと思う。
 脳の調子のいい日というのはあるもので、火曜の午前中はそうなる比率がけっこう高い。
 今日も、現代文の予習をはじめたら、最初の一段落を読み始めてすぐに、筆者の言いたいことやら、後の展開がすうっとうかんできて、だいたいその通りになってて、答えもうかんでくる。
 遠くの方に光りが見えて、それにむかって進んでいけばいいような感覚。
 福田洋介先生が「さくらのうた」を書かれたとき、そんな感覚はなかっただろうか。
 もちろん、苦労されて仕上げられた曲だとは思うが、メロディがうかび構想がかたまりなんていう過程において、それこそ小説のキャラクターが勝手に動き出すみたいな感覚で、曲がすうっと形になっていったんじゃないかなと思ったりするのである。おなじクリエイターとして(はあ?)。
 福田先生の作品はこれまで「風の舞」「花円舞」と演奏させていただいたが、なんかステージを一段あげられたように感じる(えらそくね?)。

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ロボジー

2012年02月05日 | 演奏会・映画など

 「漫画は16頁で完結した一本を書くという訓練をしないと上手にならない」と言う岡田斗司夫先生のお話を聞いたことがある。若い漫画家で大変な物語力、筆力をもっている作家がいる。いきおいにのって長編を書き、雑誌に連載できて、その一本は素晴らしい作品はできるのだが、そこで力つきてしまう場合があるそうだ。どんな題材でも16頁でとりあえず作品として完結させることが大事なのだそうだ。
 「ロボジー」を観たとき、これはけっして大作でも名作でもないけれど、きっちり16頁一本にまとめた佳品だなと感じた。1時間半ぐらいのお芝居にもぴたっとはまるような感じ。
 それから吉高由里子さん演ずるロボットおたくの女子大生が、実に上手だ。
 本人の実力ゆえであろうが、監督さんの力が彼女の魅力を引き出していると思う。
 「スゥイングガールズ」の上野樹里さんといい、「ハッピーフライト」の綾瀬はるかさんといい、矢口監督は、女優さんをものすごくキュートに撮ることができる方だ。

 昨日の夕方、20期のOBたちが何人か訪れて、結婚する同期よしむら君(はやくね?)へのお祝い映像をつくるということだった。
 せっかくなので、現役部員諸君にも協力してもらったが、この20期メンバーは当初約50人が入部し、3年次には過去最大の人数でコンクールに出場できた代だ。
 力もあった。その前年40人で県に行けたから、その年当然さらに上を目指そうとがんばったつもりだったが、おごりがあったわけでも練習が足りなかったわけでもないと思うけど、地区大までだった。
 あの戦力をいかせなかったのは、ひとえにその力を引き出せなかった顧問の責任だ。

 こうして卒業後も仲間としてつながっている姿を見ると、すくわれた思いになる。
 彼らがつながっていられるのは、共通の記憶、思い出があるからだろう。
 同じ学校ですごした、同じ部に所属していた、つらい思いをした、バカ騒ぎをした、○○がこんなへまをした、○○で笑った、泣いた … 。
 つながりの強さは、多分その折々の思いの強さが規定するもので、結果そのものがよかったかどうかは、何年か後には(言い訳ではなく)二の次になるのではないか。
 そう思えば、コンクールで悔しい思いをすることも、思い切り悔しいことならそれでいいのかもしれない。

 共有しうる記憶は、もちろん、強烈な出来事ばかりがその対象ではない。
 日常の何気ない風景、たとえば当時自販機で売ってたのに最近ほとんど見かけない飲み物でもいい。
 当時流行って歌でもいい。話題になったテレビでもいい。
 「三井のリ・ハ・ウ・ス」で転校してきた宮沢りえの衝撃的可憐さでもいい(なぜにこの例?)
 それらは、それらを知っていることによってつながりを感じることが出来るという意味で、広義の教養とも言える。
 「それら」が多い人はより多くの人ととつながることができ、「それら」が極端に少ない場合はそれなりの人間関係しか築けない。
 「それら」がどうあるべきかは誰に規定できるものでもないが、少ないよりは多い方が心豊かになれる可能性は高いのではないだろうか。
 無理強いはしないけど、「それら」の存在を感じさせてあげるのは自分の仕事なのかなと思う。

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寿限無

2012年02月03日 | 日々のあれこれ

 東大1987年の古文で出題された『義経記』の一節を教えてて、ちょっと驚いた。
  「次は義経の北国落ちの一節である」と前書きに書いてあるのだが、文中に「判官」と書いてあるのを義経と理解してないのだ。
「え? 判官びいきって言うじゃん。源九郎判官義経ってきいたことない?」
「中学のときに私立専願にしちゃったんで、社会あんまりやってないんです」
 う~ん、そういう問題でもないと思うんだけどなあ。
「じゃ、ここにある武蔵坊って誰か、わかんない?」
「はい」
「牛若丸ってきいたことない?」
「きいたことはあるかな」
 本校でもきわめて優秀な生徒さんである。
 でも考えてみれば、牛若丸と弁慶の話なんて教科書で習うものでもない。
 世界史は必修で日本史は教えなくていいという不思議な学習指導要領のせいとも言えないだろう。
 ニューイヤーコンサートのとき「松田聖子を知らないなんて日本人としてだめですよね」とMCで話したら、多くのお客さんが笑いながら頷いてくださったが、そういう教養みたいなのが、なんかずれてきてる … なんて思うのはたんに年寄りなのだろうか。
 ぎゃくに現役高校生からすれば、え、先生、まゆゆとゆきりんの区別つかないんですか? という驚きの目で見られているのかもしれないし。
 なんかのテレビで「忠臣蔵を知らない若者が何%」とか言ってるのをみたことがあるが、そのうち猪木氏の「1・2・3・ダァーッ」を知らない時代さえくるかと思うと嘆かわしい。
 ということは、そうか「寿限無」を知らない子もけっこういるな、きっと。
 課題曲Ⅲをみんなで聞いて、うまくリズムに乗せてるよね、と話しかけてもきょとんとする様子が目にうかんできた。
 車のなかで聞いて二回目で、「寿限無、寿限無、五劫のすりきれ … 」と全部あわせて言うことができた。
 冒頭のリズミカルな部分が吹奏楽連盟のHPで試聴できてたようで、なんか楽しそうな曲だなと感じてた方は多いだろう。
 でも、そのあとの中間部に、かくも美しいバラードパートが用意されてることを予想した人は少ないんじゃないかな。びっくりした。
 そのまま「ALWAYS」のテーマになりそうだ。ほんといい曲だ。
 課題曲Ⅰの「さくらのうた」もせつない。マーチも不自然じゃないし。
 課題曲でなくても演奏してみたいと思える曲ばかりの今年は、ほんと楽しみだ。
 ただ、曲がいいとますます、音そのものの質が問われるのが大変だ。

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スイングレンジャー

2012年02月02日 | 日々のあれこれ

 合奏はあまり見れてないが、定演二部お芝居の台本は形になってきたので、原案を実行委員長にわたした。これからは係の子たちと台本を育てていく。
 思えば、今まで色物に過ぎなかったスイングレンジャーにもっとセリフを与えてみようと企画し脚本化してたのが、昨年の冬。
 だいたい形になったかなと思ったら震災がおこった。
 今年は、レンジャーの活躍をさらに発展させてみた。
 昨年秋に観劇した「完璧戦隊ヒレンジャー」、音楽座さん「シャボン玉とんだ宇宙までとんだ」の1シーンなんかも巧妙に参考にさせていただいている。もちろんパクりではなく、なんて言うんだっけ「インスパイアされた」みたいな感じで。
 だめおしに先日、水野美紀さん率いる劇団プロペラ犬「ネガヒーロー」というのも渋谷で観てきた。

 演奏はやたら上手なのに、ストーリーやセリフがちょっと残念な学校さんの定演を観たことがある。
 うちは、客席を笑いと涙の大感動の渦に巻き込む二部を目指しているが、今年もいけそうな気がする。
 そのために、お客さんを帰らせない一部の演奏がまず大事だ。
 それから、すべての演奏にあてはまるけど、全身で表現しようとする意識づくりと、それを可能にする身体作り。う~ん、理屈は言えるのだがなあ。
 時間はないが、やっていくしかない。
 高校に入ってからまさかこんなことをやるなんて想像してなかったという体験を、部員みんなに味わってもらわねばならない。
 そんなことを考えてたら、来年度の課題曲が届いた。
 おもむろにスコアを開き、なんか感想を思いついてみようかと思ったが、スコアを見て音がうかぶ人間ではないことに気付く。

 水野美紀さんを観に渋谷にいったとき、少し時間があったので回転寿司に入った。
 案内された席の左隣に外人さん。ぱっと見20代の西欧系の青年。
 メニューパネルを見て、近くにいる店員さんに指さしながら注文している。
 東南アジア系のその女の店員さんが、「マグロ」とか「サーモン」とか握り場の方に伝え、レールごしにその皿を青年が「アリガトゴザマス」と受け取る。
 興味津々でがまんできなくて「旅行ですか?」と話しかけてしまった。
 通じないか。「アー・ユー・ジャーニー?(おれどんだけ英語あほなんだと瞬間思ったけど)」。
 でも、伝わったようで、ちょっと前にオーストラリアから来た、ぐらいは話してくれた。
 そのあといろいろ話しかけてくるので「調子に乗るな!」と一喝しておいた。
 話しかけたからといって英語話せるとはかぎらないんだよ。
 一応「オー、グー!」ぐらいの相づちはうって聞いてはあげたけど。
 あまりに聞き取れないので予定よりはやくお勘定を頼み「ハバグッデイ」と別れた。
 でも右隣のカップルはきっとおれのことを「すごい会話してる、かっこいい」と見てたにちがいない。
 これではいかんと反省し、すぐにブックファーストで「速読即聴」という雑誌を買い、ふろくのCDを車の中でずっと聴いていた。
 こちらはしばらくお休みで、課題曲を聞き続ける日々になる。

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添削

2012年02月01日 | 日々のあれこれ

 「先生! 飲み屋のおねえちゃんの話とか書いてないで、添削してください」と言われてはいけないので(言われてないけど)、ちょっとお休みして仕事に没頭してました。
 「先生、これ小論文じゃなくて普通の国語ですけど、記述ばっかなんでみといてください」
 「わかったよ、おいてって」
 「先生、終わってますか?」
 「○○くん、おれだってゼロから解いて、それで直すんだからすごい時間かかるんだぞ」
 「すいません、おねがいしま~す」

 それにしても入試に出題されるような文章は、どれほどの時間を費やして書かれたものだろう。
 短くても3000字くらいはあるし、慶応の文学部みたく「勘弁して」という長さのもある。
 ちなみに、こんなブログの文章にしても、長い日で2000字までいくことはあまりないけど、書いてる時間はけっこう長い日もある。
 せっかくだから数ヶ月考え続けてきたことをまとめておこうかという気分の時もある。
 いわんや入試評論文をや。
 入試に出題された評論文は、それを書いている物理的な時間の長短ではなく、その文章が生まれるにいたった思考の時間を考えたなら、そこに表出された知見の深さを読み取ろうとするなら、その紙切れ一枚の重さたるや、いかばかりであろう。
 何気なく読み飛ばしてしまいそうな2、3行、いや一言にさえ、ものすごく深い思いや思想が表されているはずだ。
 これを、大学入試ではせいぜい30分とか40分で読み取って、20分とか30分で答えをつくらねばならない。
 考えてみるとものすごく知的に過酷な作業を強いられている。
 えらいぞ、受験生。
 教えてる側も、毎日こんなに難しい文章を読んでいると、さすがに少しは頭がよくなった気がしてくる。
 「評論を一題読むことで、ものの見方を一つふやしていこう」なんて言いながらやってるが、自分も多少は増えてるのかもしれない。
 少なくとも、3年前、6年前に高3生をもっていた自分より今の方が頭いいので、ひょっとしたらまだ老化してないのかもしれない。やったぁ。
 
 オタキング岡田斗司夫氏が、朝日新聞の悩み相談で、ある女子高生の質問に答えている。
 「世の中には悲惨な事件が多く社会的な背景がその要因であるようだ、なんとか政治的な力で解決できないでしょうか」という質問だった。
 それに対して「政治家の役割はもう終わっているんです」と岡田氏は言う。
 日本は近代化の過程で、最も優秀な人材を政治家や官僚にするシステムをとってきた。でもそれは完全に失敗だったと。

 ~ 頭が良い奴ほど、ズルをするとタチが悪い。政治家や高級官僚のズルは完成度が高いので、追求したり反省させたりするのにひと苦労します。 … 政治問題の大部分は「一流の人材を議会や官僚組織に」という発想自体にあります。最優秀の人材がズルや縄張り争いを始めると「最優秀な犯罪者」になってしまう。被害を受ける人は膨大になるし、最優秀な人材を犯罪者にしちゃうのは、二重の国家的大損害です。 ~

 なんか、すごい納得した。
 最近はオリンパスとか、ちょっと前だとホリエモンの粉飾決算とかが問題になって、みんな相当に悪人扱いにされた。
 でも、国家レベルで行われている今のうそくさいお金の使い方は、桁違いのものだ。
 お役人は誰も罪を問われてないし、そればかりか何年にもわたり合法的に多額のお金をもらい続ける人生を手にしている。
 頭のいい人が自然に最優秀の犯罪者となるシステムは、なんとかしないといけない。
 みんな肌ではそれを感じているのだろう。だから橋本市長みたいな方が出現すると、これも肌で危険性は感じながらも、「どんどんやって」という気分になるのもしかたないのだ。

 岡田氏は、政治家ではなく民間政治家を目指せと女子高生に教える。
 1億人を幸せにしようという政治家が百人でてきたら、けんかで終わる。
 しかし、1000人を幸せにできる会社の社長が10万人いれば、一億人が幸せになれるからと。

 おれの教えのおかげで、どんどん問題を解いて新しいものの見方を身につけ、ものすごい情報処理能力を身につけつつある本校の3年生たちには、ぜひとも政治の道ではなく民間でその能力を発揮してほしいと思うのだ。
 できれば10年後ぐらいには自分の会社をもって、「先生、車もお部屋も秘書も用意しますよ、定年後はうちの顧問になってください」と言ってきてほしい。「ほんとに? えらそうにしてるばかりじゃ悪いから、社内報書かせてもらっていい」「どうぞどうぞ」 
 そんな日がくるような気がしてきた。それを思えば、添削ぐらいいくらでもできまんがな。

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