水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

人生を強く生きる83の言葉

2012年05月09日 | おすすめの本・CD

 さらに昨日、松岡修造『人生を強く生きる83の言葉』も手にとってみた。
 「この一球は絶対無二の一球なり」
 てっきり宗方コーチのオリジナルかと思っていたが、日本のテニスの草分け的存在である福田雅之助氏の詞だと知った。松岡氏がウィンブルドンでベスト8に入ったとき、この詞を何度も叫んだと言う。
 ここで「絶対無二の一球」がそんなに何度もあるのだろうか、という素朴な疑問がうかぶ。
 冷静に見るとよくわからない言葉もある。
 「大丈夫、きみは太陽だから」
 「大丈夫。大丈夫って文字には、全部に人って文字が入ってるんだよ」
 「今日からおまえは富士山だ」「みんな竹になろうよ」 …
 またくすくす笑いながらとりあえず立ち読みし続ける。
 「心の底から好きなことに本気で取り組めるなら、それは幸せ」
 「何かができない理由は、年齢じゃない」
 「予想外の人生になっても、そのとき、幸せだったら、いいんじゃないかな」 … 。
 やっぱ、買ってじっくり読もう。
 『偏差値70の野球部』『宇宙小説』と手に持って並んだレジ待ちの列で読んでたら、ちょっと胸があつくなってきた。
 「上海見てみろ、上海になってみろ」
 「上を見ろ! 上には空と星だけだ」
 突然叫ばれてもきょとんとしてしまう言葉に見えるが、でも試合の苦しいときに、修造氏にあのいきおいで言われたら、「ほんとだ!」と目の前の霧がはれるかもしれない。
 言葉の力は論理だけではない面もある。
 何年か前、出口汪先生の「現代文は現代を論じた文章です」という一文を読んだ瞬間に、現代文で何を教えたらいいか、すうっとわかった気がした経験がある。
 「卒業式に先生がかけてくれた言葉、今も大事にしてます」というはがきをOBからもらったことがあって、でもその時には、その子になんて言ったか、自分ではすっかり忘れていた。
 誰のどの言葉が、そのあとの人生の支えとなるかわからない。
 言葉をかけ続けるのは、教員の一番大事な仕事かもしれない。

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人生を変える 修造思考!

2012年05月07日 | おすすめの本・CD

 へえ、本も出してるんだと手にとってぱらぱら見てたら、ラーメンをこう食べるという話が目についた。
 ラーメン屋に入る、注文したあとに、姿勢を正して目を閉じ、出てくるラーメンをイメージする、複式呼吸をくりかえし、胃に息を送り込む、ラーメンがくる前に割り箸を割り、エアラーメンをして待つ。
 松岡修三氏はこうやってラーメンを待つそうだ。
 すごい。アツいにもほどがある。
 立ち読みで思わず笑ってしまったのだが、購入してじっくり全部読んだら笑えなくなった。
 ここまでやったら、修三氏は食べる前に勝っていると思った。何に対してかはわからないけど。
 ここまでやったら負けない。
 「反復練習は一回一回工夫しながら繰り返す」
 「言葉が飛んでいくように声を出す」
 「感情を込めて歌うと表現力が豊かになる」
 どれも、そのまま部活でつかえる教えがたくさん入っている。
 「苦手な場所はディズニーランドにしてしまう」も、なるほどと思った。
 苦手なものは克服するのではなく、好きになってしまうという教えだが、なんか深い気がして。 
 なので、ことしはまずマーチを好きになろうと思う。

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楽園のカンヴァス

2012年05月06日 | おすすめの本・CD

 一つのフレーズ、一つのハーモニー、一つの音には、作曲者の人生があらわれる。
 音楽に限らない。すべての芸術作品にはその作者の人生が刻み込まれている。
 作品に限らず、ある人のふるまいや言葉は、その人の存在そのものから生み出されたものなのだから、その人という氷山のほんの一角が現れたものだ。
 そっか、だから行動を変えるのは難しいのか。
 「しっかり返事しよう」「きちんと宿題やろう」と指示して、それに対して元気よく「はい!」と応答されてても、その人自身が変わってなければ行動は変わらない。
 行動が変わったなら、その人自身が変化したとも言える。
 おっと、こんなことを書くつもりじゃなかった。
 一枚の絵には人生がある、という話にもっていきたかったのだ。

 原田マハ『楽園のカンヴァス』は、画家アンリ・ルソーのある作品を巡って、絵画に魅了され翻弄される人々の姿を描く。
 現在(2000年)の倉敷に住む早川織江。美術館の監視員をしながらハーフの娘を育てるシングルマザーだ。 織江のもとにニューヨーク近代美術館に出張してほしいとの依頼がくる。
 新聞社が社運をかけて開催する展覧会に、ニューヨーク近代美術館の所蔵するルソー作品「夢」が是非とも必要だ、それを貸し出してほしいと要請したところ、早川織江を窓口にするなら貸し出すと言う返答がきたのだった。
 地方美術館の一監視員にすぎない織江の名前がなぜ出てくるのか。
 新聞社が彼女の履歴を調べたところ、十数年前ソルボンヌ大学で美術史を学び才媛と言われたオリエ・ハヤカワであることがわかった。
 現在MOMA(ニューヨーク近代美術館)のチーフ・キュレーターを勤めるティム・ブラウンとの間には、その昔一つのドラマがあったのだ。

 時は17年前に遡る。スイス北端のある文化都市バーゼル。
 この地で、ある絵の真贋を見極めてほしい、正解を出した方にその絵の権利を譲渡すると言って呼び出されたのが、フランス在住のオリエ・ハヤカワ、MOMAで働きはじめていたティム・ブラウン。若いながらも、当時アンリ・ルソーの研究者として第一線にいる二人だった。
 一週間の期間が与えられるが、外部との接触は断たれ、与えられた一つの資料をもとに、ルソー作品と言われる「夢を見た」の真贋を判定しなければならない。
 その資料とは、ルソーの登場する、フィクションともノンフィクションとも判別できない一冊の物語だった。そこには、およそ80年前のパリの様子が描かれ、アンリ・ルソー、ルソーが恋い慕う人妻のヤドヴィガー、そしてルソーの才能をいち早く見抜く若き日のピカソが登場する。
 一日に読めるのはそのうちのわずか一章ずつだった。
 
 その一章ずつが、この『楽園のカンヴァス』の各章のなかに順番に示されるという、劇中劇の構成がとられている。
 そちらの物語自体がどうなっていくのかの期待も抱かせながら、現実世界(17年前)の二人を取りまく状況があきらかになっていき、なぜこの二人が、このように競わされるかの秘密も解き明かされていく。
 ルソーの絵に隠された秘密、二人が置かれている当時の美術界の現実が、ミステリーの謎解きのようにあきらかになっていくバーゼルの七日目は、緊張感の高い章だった。
 
 美術の世界ってどんなところなのか。
 音楽の世界ならだいぶ実情がわかってきたつもりだが、美術の世界もなかなかにどろどろしたものはあるようで、一つの教養小説として楽しめた。
 読み終えたあと、川越ブックファーストで「西洋美術史」の本を買ってしまった。
 アンリ・ルソーって有名な方だったのね。
 生前にはそれほど価値が認められず、死後評価されて有名になったタイプの方で、そういう芸術家の話は、音楽でも文学でもよくある話だ。
 芸術作品を鑑賞し研究しているうちに、人生そのものが芸術に翻弄されてしまうのも、絵の世界だけの話ではない。
 それを介して生まれる男女の結びつきもふくめて、芸術というのは、人を魅了する素晴らしいものとも、人の一生を狂わせる悪魔的なものだとも言えるだろう。


 ~ ティム・ブラウンは、MOMAの二階、絵画・彫刻部門のギャラリーの中でたたずんでいた。
 彼の目の前には、一点の作品がある。ーーアンリ・ルソー「夢」一九一〇年。
 平日の午後で、ランチタイムはとっくに過ぎていた。週末ほどの混雑はないが、それでもギャラリーの中はひとときの心の安らぎを求めて、大勢の来館者でにぎわっていた。
 もうすぐ、オリエ・ハヤカワが来る。
 ティムは、待ちきれない思いで、一足先にこの絵の前へ来てしまった。彼女が来館したら、誰と一緒に来ていようと、必ず彼女ひとりだけをここへ連れてくるように。アシスタントのミランダにそう言い残して、オフィスを出てきた。
 待ちきれない。ほんとうに、もう待ちきれなかった。
 十七年間、彼女と再会する日を意識して待っていたわけではない。けれど、思いはずっと彼女とともにあった。
 いままでに、恋愛もしたし、結婚を考えた相手もいた。けれどいつも、心のどこかで、彼女を求めている自分に気づいていた。
 バーゼルという名の楽園で、彼女とともに過ごした七日間。あの日々が、ティムの人生を変えた。 ~


 80年前、17年前、そして今の物語が一つに重なっていく最後のシーンはこみあげてくるものがある。
 出会いと別れ、幾星霜かをへだてての再会、ともに一枚の絵画がもたらしたものだ。
 そういう偶然の運命を与える作品が、その人にとっての名画であると言えるかもしれない。

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かき揚げ丼

2012年05月05日 | 日々のあれこれ

 一昨日はじめて「秘密のケンミンショー」をちゃんと見てしまった。
 きっと埼玉県民の多くがチャンネルをあわせただろう。ふだんその時間にテレビを見ない人も掘り起こすという意味で、この番組は上手だ。
 79.5の数字を「ナックファイブ」と普通に読むけど、たしかにこれは他県の人は「?」となるだろうなと思った。自己の姿を時折客観視するのは大切だ。
 その常識は、ほんとうそうなのか。
 他人から見たらどうなのか。
 当然だと思っている事柄も、いつのまにか洗脳されてしまい、そう思っているだけかもしれない。
 そんなことを考えさせてくれるという意味でも、ケンミンショーは価値ある番組だと今思いついた。
 あらためて納得したのは、山田うどんの存在感だ。
 「埼玉のおいしい店」として紹介されないし、ハレの食べ物として扱われることもない。
 しかし「山田うどんでいっか」と言って一回くらいは食べたことはあるのではなかろうか。
 食べたことはなくても、車を走らせれば必ず目につくあの看板を見たことのない埼玉県民は少ないだろう。
 人気メニューの一位が「かき揚げ丼セット」であることも納得した。
 そうじゃないかなと思っていた。
 もちろん格別おいしいわけではない。いやおいしいでんすよ。
 ただ、どこそこの有名ななんとかと比べて話題になるというものではない。
 ていうか、他の店にないから。
 かき揚げを卵でとじた丼だから。
 かき揚げ丼という名目で世間一般の人々がイメージするのは、天ぷら屋さんで供される、かき揚げを天つゆにひたしたものがご飯にのっているかき揚げ丼だ。
 セレブな方なら、天ぷらをコースで食べて、しめに出てくるものをイメージされるかもしれないし、「あたしは天茶でいただくわ」と言ってだしをおかけになるかもしれない。
 そんなんじゃ、ねえんだよ。
 出汁を煮立てて、そこにカツ入れるとカツ丼の工程だよね、というところにかき揚げが投入される。
 それもタマネギ、長ネギ、にんじん、干しエビ、たこなどが雑然と入ってる駅そばのかき揚げだ。
 それを卵でとじて、ごはんの上にのせられる。
 生煮えの卵、からっとしてないかき揚げ、べちゃっとしたごはんとの、言葉で表現した場合まったくおいしくなさそうな丼の、しかし渾然一体となったそれを一箸口に運ぶだけで陶然とするのだ。
 B級の美味しさ、ここにきわまれり。
 あたしは、そういうのは遠慮しておくわという方に、あえて食してほしいとは思わない。
 人の世の楽しみの一つを自分から遠ざけているという意味で、その不幸を内心かわいそうには思う。
 天ぷらにウスターソースをじゃぶじゃぶかけてしまう福井県民のDNAを失っていない自分を感じる瞬間が年に何回かはあるものの、かき揚げ丼を食べるたびに埼玉県民になった喜びがこの体をつつむ。
 ちなみに個人的ベスト3は、肉南蛮そば、かき揚げ丼、冷やし五目そばである。

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「有名人になる」ということ

2012年05月03日 | おすすめの本・CD

 勝間和代さんは、有名人になる方法論がちゃんと存在すると言う。
 正しい方法で取り組めば、高い確率で有名人になれると。

 ~ 「えーーーー!?」と思う人も多いかと思いますが、じつはダイエットと同じで、そこにはある程度、王道があると考えています。さまざまなダイエットや身体を鍛える方法が、本に、DVDに、講座に、そしてテレビにあふれているにもかかわらず、実際に身体がきゅーーーっとしまっている人が少ないように、結局、方法がわかってもそれをやらない人が多いため、なかなか有名にならないだけのことだと思うのです。 ~

 なるほど。方法論はある。ただし本当にやる人は少ない。やりきる人は少ない。
 有名人を「夢実現」におきかえても同じだ。
 このあと勝間さんは、自己を分析し、社会から求められるものを見つけ、それをアピールしていく具体的な方法を提示している。
 「本気で取り組めば、自分にもチャンスはあるかも」と読んで思う人はいるだろう。
 ただし、どこまでそれを実践できるか。
 「願えばかなう」とたくさんの本に書いてある。
 どうやって努力したかも書いてある。
 本を書いた人は成功している。
 そして、本を読んで、成功の方法を知りながら、成功できない人が何万人、何十万人と存在する。
 何をもって「成功」とするかという根本的な問題は別にして、成功するかどうかは、基本やったかやらないかだけなのだろう。
 方法は、いくらでも提示されている。
 有名になるためには、夢を実現するには、何事かを成し遂げるには、「自己分析と圧倒的努力」、または「客観視と狂気」の二面が絶対必要なのだと勝間さんの本を読んであらためて思った。

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バーベキュー

2012年05月02日 | 日々のあれこれ

 3日に予定していた新歓バーベキュー大会を、天気予報をにらみながら今日に変更したが、雨になった。
 家庭科室をお借りして、フライパンでの焼肉大会に変更する。炭をおこす手間がかからない分、楽に食べられた。焼くのではなく、煮る、つまりしゃぶしゃぶで食しているチームもいて、なかなか応用力がある。
 でもGWにこんなに雨が降った記憶はあまりない。春先はなかなか気温があがらなかったし、きっと異常気象の一部であり、地球はいま寒冷化しているにちがいない。そういえば最近「温暖化」とさわぐ人達も減った。「温暖化」騒動は、結局はそうすることでどれだけお金を生み出すかが規定する一現象であることが、情報弱者の自分にも少しわかってきた。

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