水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

キャラ化できない教師たち

2016年02月19日 | 国語のお勉強(評論)

 

 今年のセンター試験の問題を授業で解いた。一番の評論はこんな話題だ。

 昔、リカチャン人形は、決まった物語の枠組みの中でのみ存在する、子ども達から憧れのキャラクターだった。本名は香山リカ、五月三日生まれ、父はフランス人の音楽家、母はファッションデザイナー … みたいにガチガチな設定があった。
 しかし現在は、その物語の枠組みを離れて、リカちゃんが様々な別キャラクターを演じるようになった。
 これはキャラクターのキャラ化である。
 私達人間も、同じようにキャラ化する時代になった … という文章だ。
 こんな話題もとりあげられる。


 ~ 2008年には、ついにコンビニエンス・ストアの売上高が百貨店のそれを超えました。外食産業でもファーストフード化が進んでいます。百貨店やレストランの店員には丁寧な接客態度が期待されますが、コンビニやファーストフードの店員にはそれが期待されません。感情を前面に押し出して個別的に接してくれるよりも、感情を背後に押し殺して定形的に接してくれたほうが、むしろ気をつかわなくて楽だと客の側も感じ始めているのではないでしょうか。店員に求められているのは、一人の人間として多面的に接してくれることではなく、その店のキャラを一面的に演じてくれることなのです。近年のメイド・カフェの流行も、その外見に反して、じつはこの心性の延長線上にあるといえます。そのほうが、対面下での感情の負荷を下げられるからです。 ~


 このあたりの具体例はわかるよね。コンビニの店員さんが、人生かけて接客してきたら、ちょっととまどいますね。「一人の人間として、このジャンクな食べ物はあなたに食べてほしくない」とか、レジで言われたら困るでしょ。
 ほんの少しの笑顔をつくってもらえればうれしいけど、たとえばちょっとだけHな雑誌を買うときに、「○○さん、こういうの趣味なんですね」とか言われたら、その店に行きづらくなるよね … 。

 われわれ教員も、教師というキャラを演じている、というか演じなければならないのだと、話ながらふと思った。
 一人の人間として、感情を全面に押し出して生徒の前に立ちはだかったら、向こうも困ってしまう。
 「あの、一体どんな権利があって、あなたはそこまで僕に言うのでしょう?」と問われたとき、冷静に考えたなら、押しつけるほどの物言いはできないはずなのだ。
 「がんばろう!」「思いやりをもて!」「人として、もっとちゃんとしろ」「大きな夢をもて」「努力して成功者になれ」 …

 先生、あなたはちゃんと生きているのですか?
 先生、あなたは成功者なのですか?
 大きな夢をかなえた結果が今のお姿なのですか?
 先生、あなたは神なのですか?

 ごめんなさい … 。

 生徒さんが生徒としてふるまってくれるのをいいことに、自分が教師というキャラにすぎないことを忘れてしまいがちなのが、私達の性癖だ。
 教師は、教師というキャラを演じることにおいて教師たり得る。ほかに根拠はない。
 思えば、キャラとしてちゃんと仕事せよという話は、もう二十年以上も前に、河上良一先生や諏訪哲史先生が主張されていたことではないか。

 こどもも同じかもしれない。
 親の前で、友だちの前で、先生の前で、そのつどキャラを演じればいいのだ。
 このセンター評論の筆者が言うように。
 でも、まじめな子ほど、その使い分けを不誠実ではないかと思い悩んだりしてしまう。
 もしくは相手が期待しているキャラになれない自分を、自分でおいつめてしまう。

 今年の評論は、設問自体は少し簡単すぎる面はあるけど、文章自体は広く読まれるべきいい素材だ。
 選んだ先生、グッジョブ!

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上達(2)

2016年02月18日 | 学年だよりなど

 

    学年だより「上達(2)」


 ~ で、これなんじゃないか?と思ったことが一つだけあった。
 それは睡眠時間以外のほぼ全てを仕事に使っていないということじゃないかと。
 私が8時間以上ずっと机に座ってデスクワークをしていて食事も仕事しながら摂っていたみたいな話を書いたらメルマガで質問があった。デスクワークをしていると、ついつい動画サイトやらをみてしまうんだと。
 動画だあ? そんなもん見てる暇ない。
  … 起業して3年くらいは、友達と飲みに行くこともほとんど無かったし、異業種交流会とか講演会の類も一度も行ったことがない。そんなの行くくらいだったら講演者の書籍を自分のペースで速読したほうがいい。メルマガを発行してたらそれを読めばよい。行く時間も勿体無い。
 今は違うが、当時は食事の時間も勿体無いので1Fにあるファミリーマートから弁当やら揚げたての惣菜やらを買ってきて食べてた。それすら時間がもったいなくて社員に買いにいかせたこともある。宅配の弁当屋もよく利用していた。
 土日も勿論ない。旅行も年に1度行くか行かないか。盆も正月も無い。ずっと仕事であった。  … 果ては家に帰る時間すら勿体無くなって、ずっと会社のベッドで寝ていたこともある。一時期は会社の仮眠室にシャワーまでつけていた。
 それくらいやったらほぼ確実に成功すると思うんだよなあ … 。 (堀江貴文「起業して確実に成功する方法」ほりえもんブログ) ~


 スポーツでも芸術でも趣味でも、正しいやり方を習い、圧倒的な量をこなすことは、上達の絶対条件だ。
 もちろん勉強にもあてはまるし、仕事においても同じ原理がはたらいていることは堀江氏の言葉でもわかる。
 圧倒的な努力を支える心を情熱という。
 「あの人は○○に情熱を持っている。その証拠に週に1回は○○に取り組んでいる」という言い方は、不思議な感じがする。
 「あの人は○○に情熱を持っている。その証拠に寝ても覚めても○○のことを考えている」には違和感がない。
 情熱の多寡とは、費やされる時間の量ではかえることができるのだろう。
 頭のいい人、才能のある人はこの世にたくさんいる。
 この先、大学生活や、社会人になってから、そんな人を多くみかけることだろう。
 でも、そういう人がみな同じだけの努力をしているかというと、そうでもない。
 能力が高いがゆえに、できる範囲で要領よくすごしているだけの存在もいる。
 本気にならなくても平均以上のことはできてしまうので、そんなに頑張らない人もいる。
 情熱をもって物事に取り組めば、つまり圧倒的な時間をかけつづけることさえできれば、たとえ才能は劣っていても結果的に逆転することは、全く珍しいことではない。

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「富嶽百景」の授業(8) 三段落 第一場面

2016年02月17日 | 国語のお勉強(小説)

 

三段落 〈 第一場面 御坂峠 〉

 「お客さん! 起きてみよ!」かん高い声である朝、茶店の外で、娘さんが絶叫したので、私は、しぶしぶ起きて、廊下へ出てみた。
 娘さんは、興奮して頬を真っ赤にしていた。黙って空を指さした。見ると、雪。はっと思った。富士に雪が降ったのだ。山頂が、真っ白に、光り輝いていた。御坂の富士も、ばかにできないぞと思った。
 「いいね。」
とほめてやると、娘さんは得意そうに、
 「すばらしいでしょう?」といい言葉使って、「御坂の富士は、〈 これ 〉でも、だめ?」としゃがんで言った。私が、かねがね、こんな富士は俗でだめだ、と教えていたので、娘さんは、内心しょげていたのかもしれない。
 「やはり、富士は、雪が降らなければ、だめなものだ。」〈 もっともらしい顔をして、私は、そう教え直した。 〉
 私は、どてら着て山を歩き回って、月見草の種を両の手のひらにいっぱい取ってきて、それを茶店の背戸にまいてやって、
 〈 「いいかい、これは僕の月見草だからね、来年また来て見るのだからね、ここへお洗濯の水なんか捨てちゃいけないよ。」娘さんは、うなずいた。 〉


場面設定
 場所:御坂峠  時:富士に雪が降った朝  人物:私・娘さん


Q「御坂の富士は、〈 これ 〉でも、だめ?」の「これ」について、

Q32「これ」とは何か。(20字以内)
A32 雪で山頂が真っ白に光り輝いている富士

Q33「これ」を見たとき、「私」はどう思ったか。15字以内で抜き出せ。
A33 御坂の富士も、ばかにできないぞ

Q34 この場面の色彩感を説明せよ。
A34 空の青、山頂の白、娘さんの赤のコントラスト。


事件 娘さんが興奮して富士を指さす
   「これでもだめ?」としゃがんで  … 「私」にあまえるようなしぐさ
           ↓
心情 自分の富士批判に内心しょげていたのか
     ∥
  「娘さん」の自分への好意に気づく
   傷つけていたことを反省
           ↓
行動 もっともらしく説明する
   来年も来るよ


Q35「もっともらしい顔をして、私は、そう教え直した」とあるが、「私」の心情を説明せよ。
A35 御坂の富士を見下す自分の言葉を、思いのほか娘さんが気にしていたことに気づき、自分の言葉はあくまでも筋の通ったものであり、御坂峠がきらいなわけではなかったと慰める気持ち。

Q36「 「いいかい、これは僕の月見草だからね、来年また来て見るのだからね、ここへお洗濯の水なんか捨てちゃいけないよ。」娘さんは、うなずいた。」というやりとりには、どういうことが表現されているか。

A36 また訪れるつもりだという「私」の気持ちと、それを聞いて安心する娘さんの思いが表現されている。

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今年の課題曲

2016年02月17日 | 日々のあれこれ

 

 「最近の課題曲マーチはマーチ風のJポップだ」と、どなたが批判気味に書かれていたのを目にしたのは、去年だっただろうか。でもJポップ風という評価は、自分的にはプラスにしか思えない。1の「スカイブルー・ドリーム」は、Jポップというより、ニューミュージック、いやむしろフォークかと言いたくなるようなコード進行にも感じ、胸がキュンキュンする。先週末、東京佼成ウインドオーケストラの演奏で聞いたときには、号泣してしまった。「ザ・青春」という感じの曲だ。
 2「スペイン市場にて」は、ほんとにスペイン風で、課題曲というより、普通に吹奏楽の名曲と言っていいんじゃないかな。課題曲じゃなかったら、バンドに編成にあわせて楽譜を少しかえて、めちゃめちゃスペインにして演奏したい。
 3「ある英雄の記憶」。タイトルも曲もかっこよすぎる。これは指揮者も燃える。大井さんも燃えてるように見えた。指揮者によって様々な色合いを見せるシエナさんとは対照的で、佼成さんはどの指揮者が振られても円熟した音色で聴かせてくださる。
 4「クローバグラウンド」は、ものすごく凝ったつくりのマーチ。すっきり仕上げるのは難しそうだ。むしろ演奏会でやってみたい曲。1、2、3、4のどれもが、バンドの実情さえ許すなら演奏してみたい曲で、そんな風に思えるのは珍しいかもしれない。
 5「焔」は、いかにも五番ですよという作品だった。
 「焔(ほむら)」と聞いて先ず思い浮かべるのは沢井忠夫作品だ。一恵先生の十七弦ソロのために書かれた合奏曲。沢井忠夫がでなければ箏は古典楽器の枠を出ず、沢井一恵先生がいなかったら十七弦は独奏楽器にはならなかった。どの分野にも、ジャンルの枠そのものを広げる天分が存在する。
 邦楽にはまっていた学生時代、沢井先生の金沢公演をお手伝いし、打ち上げでスナックにつれていってもらってカラオケ三昧した。沢井さんと飲みに行ったことあるんだぜとか言っても、もう若い子には伝わらないかな。先生が熱唱した「ギャランドゥ」が何十年経っても耳に残る。自分の「風雪ながれ旅」はけっこう褒めてもらえた。じじいの自慢話だな。
 1~4まで演奏してみた。どの曲ももっとさらってから選びたいし、他の学校さんはそうするのだろうが、われわれに与えられた時間はかぎられている。えいやっと決めてしまって練習していこう。

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「富嶽百景」の授業(7) 二段落 第四場面

2016年02月16日 | 国語のお勉強(小説)

 

二段落 〈 第四場面 御坂峠 〉


 井伏氏は、その日に帰京なされ、私は、再び御坂に引き返した。それから、九月、十月、十一月の十五日まで、御坂の茶屋の二階で、少しずつ、少しずつ、仕事を進め、〈 あまり好かないこの「富士三景の一つ」と、へたばるほど対談した 〉。


「あまり好かないこの「富士三景の一つ」と、へたばるほど対談した」について

Q26「この「富士三景の一つ」」とは何のことか。
A26 御坂峠から望む富士の姿

Q27「あまり好かない」のはなぜか。
A27 あまりにも注文どおりの景色で、その通俗性が鼻につくから。

Q28「富士」は「私」にとってどのような存在と言えるか。
A28 世間の価値観や通俗的な芸術観を象徴し、自分の前に立ちはだかるもの。

Q29「この「富士三景の一つ」と、へたばるほど対談した」とはどういうことか。(80字以内)
A29 御坂峠から望む富士の姿を、たんに通俗的な景色にすぎないと嫌悪するのではなく、
   正面から向き合って、自分の価値観と照らし合わせその意味を考え続けたということ。

Q30「この「富士三景の一つ」と、へたばるほど対談した」という表現からどういうことがわかるか。(100字以内)
A30 通俗的な価値観や既成の世界観を、ただ嫌悪して反発するのではなく、
   まっすぐに向き合い自分の感覚とつきあわせることで、
   新しい表現を模索していこうとする前向きの姿勢が「私」に中に生まれていることを表す。

Q31 第二段落の各場面における「富士」が、「私」にとってどのようなものとして描かれているか、整理しなさい。
A31  A1 御坂峠 あまりの通俗性を「軽蔑する富士」
     ↓
    B 三つ峠  世俗の人の真心に触れた「いい富士」
     ↓
   (A2)御坂峠
     ↓
    C 甲府   結婚を決意させてくれた「ありがたい富士」
      ↓
    A3 御坂峠  へたばるほど対談する相手として「対峙する富士」


 二段落は、滞在している御坂峠から移動して、また戻ってくるという場面設定になっています。
 移動した先で、世俗を生きる人たちとふれあい、自分の気持ちに変化が生まれます。
 「御坂に来た時の自分」と「今の自分」との対比、その変化をもたらす原因となった出来事を読み取りましょう。
 ちなみに、音楽の形式で「A→B→A→C→A」といった構造になっているものを「ロンド形式」とよびます。
 太宰も意図的にこうの構成を用いているはずです。主題Aに繰り返しもどってくることで、主題Aがより味わい深いものになっていきます。

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キャロル

2016年02月16日 | 演奏会・映画など

 

 先日見た「この後、同性愛に目覚めます」というアンジャッシュのネタが面白かった。
 仕事終わりに、居酒屋で酒を酌み交わす会社の同僚二人。営業職かな。
 先輩(児島)が「おまえ、もっと思い切って仕事しろよ」と後輩(渡部)にハッパをかける。
 「はい … 」とうなだれる渡部に、声をやわらげて言う。
 「別のおまえを憎くて言ってるんじゃないぞ、期待してるからだ。心配するな、なんか失敗しても、おれが全部責任とってやるから!」
 顔をあげて児島を見る渡部。
 ナレーションが入る。「この男、この後、同性愛に目覚めます … 」
 渡部が箸を落とすと、「すいません、新しい箸ください!!」とすっと立ち上がる児島。
 「おまえ、何飲んでるんだ? レモンサワー? ちょっとくれ!」と渡部のグラスに口をつける児島。
 「レモン足りねえな、ちゃんとしぼったのか」と言って、腕まくりをして絞りはじめる児島の二の腕をじっと見つめる渡部。
 ナレーション「この後、同性愛に目覚めます … 」

 ちょっとした言葉や細かいしぐさに、キュンとする気持ちが蓄積されていって、ある瞬間コップの水がちろっとあふれるように、人が人に恋愛感情を抱く様子が描かれていて、笑ってしまうけど、まさにそんな感じなんだろうと思う。
 たまたま、それが同性に対するものであるだけだ。
 こんな時、脳内にはPEA(フェニルエチルアミン)というホルモンが分泌されていることは明らかになっている。
 本で読んだ。
 でも、誰が、誰に何に対してどんな時にPEAを分泌させるかは、合理的には説明しきれないのではないだろうか。
 もちろん、ルックスの好み、声やしぐさ、ふるまいなど、人によっていろんなポイントがあって、ポイントが加算された結果なのだろう。
 ためていくコップの大きさも人によってちがう。どんな環境におかれて生活しているかによって、コップの大きさも変わる。自分なんか、今すごいちっちゃくなったので、一瞬であふれる。
 あふれてもコントロールできるようになったから、小さくなったのかな。
 あ、これはよけいな話だった。

 「この後、同性愛に目覚めます」というナレーションが一切入らないのに、その目の動き、はにかんだようなような笑顔、ちょっとしたしぐさで、「この後恋に落ちるんだなあ」と感じさせるのは、もうこれは演技力というしかないのだろうか。
 円熟としかいいようのないケイト・ブランシェットさん、若手という枠には収まりきれないルーニー・マーラーさんともに、恋に落ち、落ちた自分をどうすればいいかわからず、しかし気持ちがおさえきれなくなっていく様子が、まあ見事に演じられている。
 ときは1950年代。同性どうしの恋愛は異常と思われていた時代だ。
 だからこそなお募るせつなさが、これでもかと描かれるのだが、周りからどう見られようと、自分の気持ちに噓はつけないという毅然とした姿勢も二人はもつ。
 自分の生き方への矜恃とも言える。
 考えてみれば、周囲から祝福されない間柄で恋愛感情が発生する事態は、取り立てて特別な事態ではない。
 たまたま、1950年代に同性愛という設定だから、注目してしまうが、今の時代ならここまで忌み嫌われることはないはずだ。
 いまの時代において、それはだめと言われる関係も、時代や場所が違えば何でもないということでもある。
 だから、同性愛うんぬんではなく、「自分の人生を価値あるものとするために、人を好きになる気持ちとどう向き合うべきか」という根本的な問いかけをつきつけてくる、純然たる恋愛映画だと思った。
 それにしても、ルーニー・マーラーちゃん、かわいい。「ドラゴン・タトゥーの女」で演じた非情の殺し屋とのギャップ萌えもあるし、時代設定にあわせて髪型のせいか、ヘップバーンに見えた瞬間もある。この先、どれほどの女優さんになるのだろう。

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上達

2016年02月15日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「上達」


 スキー実習おつかれさまでした。みんなで協力しあえたおかげで、充実した四日間になりました。
 とくに、室長さん、実習班の班長さんには、あらためて感謝します。ありがとうございました。


 物事の上達への一番の近道は「プロに習うこと」だ。
 先輩とか、経験のある友人とか、その道を先に歩いている人に習うことももちろん効果があるが、我流におちいる危険性がある。
 プロは、プロとして生きていくために、アマチュアが想像できない時間をかけてその道に取り組んできた。
 たとえば、スキーのレッスンを、今回のような班ではなく個人で受けるとすると、2時間で1万円ぐらいかかる。楽器や歌のレッスンも、先生によって差が大きい分野ではあるが、45分で7~8千円ぐらいが一般的だろうか。ビジネスマンが、仕事上のコンサルティングを受けるとなると、30分5万円という世界もある。
 みなさんの感覚からは、高いと感じるかもしれない。
 しかし、レッスン料金というのは、その30分とか1時間ではなく、その講師が積み重ねてきた何十年分かへの対価だから、実はものすごく良心的な設定なのだ。
 何十年分の時間と労力とをかけて得られた知見や技を、つまりお金に換算するならとんでもない額に相当するものを、わずかなお金で手に入れることができる。
 ただし、その価値をどの程度深く感じられるかは、習う側のレベルに左右される。
 なんでもないようなプロの一言の重さを感じるためには、習う側も一定のレベルの達している必要があるのだ。
 たんに習う側の技術レベルという問題ではなく、そのことに対する姿勢のありかたと言っていい。
 「どうすればもっとうまくなれるのか」「ここはどうすればいいいのか」という強い疑問を持ってレッスンに望んだとき、同じ道を苦労して克服してきた先生は、必ず適切なアドバイスをくれる。


 物事の上達にもう一つ必要なのは「圧倒的な量をこなすこと」だ。
 堀江貴文氏が、「起業してほぼ確実に成功する方法」というブログ記事でこう述べている。


 ~ どうもたまに上手くいかない人がいるみたいだ。
  なぜだろう? と疑問に思って考えてみた。
  で、これなんじゃないか? と思ったことが一つだけあった。
  それは睡眠時間以外のほぼ全てを仕事に使っていないということじゃないかと。 ~


 堀江氏は、起業して成功したいという人に対して、好きなことではなく確実に利益のあがるものにまず取り組めと具体的に指導してきた。しかし現実には、うまくいかない人がいる。
 それはなぜか。結局は、たんに量が不足しているだけだったと、堀江氏は述べる。

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スキー実習(2)

2016年02月14日 | 日々のあれこれ

 

2月11日(木)
 けっこう疲労はあるはずなので、雪があがってほしいなあと思う三日目、そのとおりになってよかった。
 午前中はくもりで、午後からは晴れ。夜中に40㎝ぐらい積もっただろうか、ゲレンデ状態も良好。
 生まれたての子鹿状態だった初心者組も、自力歩行が可能になってきた。
 脱臼の疑いがある子を診療所に連れていった以外、シップを下さいと言う子さえいなくて、保健の先生が「ヒマでもうしわけない」と言うのだが、それが理想だ。風邪ひきもいなくて、保健室用の部屋はずっと使用してなかった。
 ナイター参加者は少し減った。
 夜、熱が出た子がいた。翌日帰宅だから、一晩寝かせて様子を見ようということになったが、夜の消灯点呼のあとに相当あがったので、診療所にいくことにした。インフルエンザの疑いが強いということだった。

 
2月12日(金)
 最終日は、午前中フリー滑走を行って帰宅となる。
 快晴。気温もあがった。四日ともいい天気であることを望むのは虫が良すぎる。
 だとしたら、前半雪で後半よくなる今年のパターンは悪くないな。
 追い出しをして、自分は本部待機の係。合間をみておみやげを買い、実習からあがってくる子を待つ。
 インフルエンザの疑いのある二人のお子さんは、おうちのかたと連絡がとれたので、川上先生のつきそってもらい、一足先に新幹線で帰ってもらうことにした。越後湯沢から大宮まで小一時間。上越だと、そのへんが楽だ。来年は北海道か。
 気持ちよくすべって、ぞくぞくとホテルにもどってくる。
 点呼をし忘れた子が本部前で叱られる光景も、風物詩といえよう。
 お昼はカツカレー。カレーという食べ物は、どうしてこんなにはずさないのだろう。
 昼食後、予定より少しはやく宿を出ることができ、16時前には川越駅に着く。
 終わってしまえば三泊四日はあっという間だった。
 学校へもどり学校長に電話をいれ、机の上の郵便物をしまってもまだ明るいくらい。
 南古谷ウニクスで「キャロル」を観て疲れをとった。

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スキー実習(1)

2016年02月13日 | 日々のあれこれ

 

2月9日(火)
 例年川越駅西口から出発していたスキー旅行だが、駅近辺の開発にともなって停車しにくくなったため、昨年から学校出発になった。通常使用しているバスターミナルに観光バスが12台並ぶのはちょっと壮観だ。
 川越インターから関越道、上里パーキングで休憩して、関越トンネルを抜ける。
 トンネルを抜けた瞬間に、雪の壁の囲まれた景色に車内からどよめきが起こるのが常なのだが、今年はそれがない。雪景色ではあるのだが少ないのだ。
 高速を降りても、普通に路面が見える国道を走りながら、スキー場は大丈夫かなと思っていた。
 それにしても、どこかで見たことがある … 。
 実家の方と同じだ。雪が少し残っている程度の上越の村は、そのさびれ方が故郷と似ていた。
 豪雪地帯であり、スキー場が経営できるからこそ、人々の暮らしぶりにはりがうまれ、外部から人がめぐるからこそ、街が活性化する。雪のおかげ、つまり風土のおかげで暮らしは成り立つ … などと相変わらずしぶい思索にふけっているうちに、ホテルに着く。
 着替えてゲレンデに出る頃には雪が舞い始める。スキースクールの校長、ホテル支配人のお話につづいて、注意事項を話す。
 「非日常の世界には非日常にルールに従おう、物事の上達の一番の近道はプロに教わること、返事と挨拶をしっかりしよう」部活で言ってることと同じ話だが。
 その後も雪が降り続くなかに実習で、生徒達はけっこう疲れたみたいだった。でもゲレンデ状況はよくなっていく。夕食はビュッフェなので、食べる食べる。ホテル側の補給が完全においついてないのが、もうしわけない。

2月10日(水)
 朝から雪。ときおり吹雪く。プライベートな旅行なら、お部屋でのんびりになるレベルだ。
 でも、事前からわかっていたけが人以外の欠席者はなく、みな元気に(たぶん)ゲレンデに向かう。
 お昼の牛丼はおかわり自由ということであったため、けっこう気合い入れて食べた子が多く、二つ使っている食堂のうち片方で、後半おかわり分がなくなって、かわいそうなことになった。ホテル側から入った泣きも理解できたので、翌日からは少し制限しておこうということにした。元気すぎる。
 午後の降り方を見てると、ナイターできないんじゃないかな、ムリしない方がいいよね、教員もみんな年なんだからやめようよって提案しようと思っていたが、夕方はやんでしまった。あ、やんでよかった。
 ナイターは自由参加だが、7割ぐらいが出ていった。夜のかたいバーンはこわかったか、すぐもどってきた子もいた。昼あんなに食べ、夕食も食べ、ナイター後には部屋からカップラーメンの匂いがただよってくる。若い。

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おとめの流儀(2)

2016年02月08日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「おとめの流儀(2)」


 自分が何者でもないことに気づくくやしさを体験できることは、学校のいいところだ。


 ~ 自分が凡人だと一回も思ったことがないひとなんか、この世にいなければいいんだけど、と思う。少しまえから、頭のなかで、糸くずみたいなものがいくつもぐちゃぐちゃに絡まっている。
 悔しいんだ、と思った。
 素振りをした。汗が吹き出て、体中を伝っていった。ポタリと道場の床に垂れた。
 汗といっしょに流れ落ちていってくれればいい。朝子さんの言っていたよけいなもの――不安とか、恐怖とか、そういうものが。だけど、それらは汗のようにかんたんには流れ落ちてはくれない。 (小嶋陽太郎『おとめの流儀』ポプラ社) ~


 本気で何かをやろうとしたときに、人は失敗を経験する。
 どんなに大きな成功を収めた人も、必ず大きな失敗をしている。
 その経験によって一回り大きくなれるから、また新たな挑戦ができる体になっていく。
 なかなか技術が向上せず、試合形式の練習でも尻込みしてしまう部員のかよちゃんが、退部をほのめかしたとき、朝子部長はこう諭す。


 ~ 「かよちゃんが『足手まといになっているから』というだけの理由で悩んでいるのなら、そんなの気にせずにがんばってみろと言うだけで、ほかには何も言いません。現時点で強いか弱いかなんて、どうでもいいからです。というか初心者なんだから弱くて当然です。仲間の足を引っ張るとか引っ張らないとか、そんなのもどうでもいい。大事なのは、あくまで自分が、純粋に目の前の相手に勝ちたいという気持ちを持てるかどうかです。 … 『仲間の足を引っ張りたくないからがんばる』という気持ちだけで試合に臨んでいるひとは、自分の試合の責任を自分で負っていないから、よくない。もちろん団体戦だったら仲間のためにもがんばるのは当然ですけど、いちばん大事なのは自分がたたかう気持ちです。たたかうときはひとりなんだから。勝ちを目指す理由をまず他人に求めるなら、試合なんかしないほうがいいんです」 ~


 部長は厳しすぎる、もっと言い方はないのかと、聡子はこの話を聞いている。
 同時に、この言葉は自分達1年部員みんなに向けられたものであり、どうするかを決めるのは、結局自分しかいないということに気づく。
 部活でも、勉強でも、仕事でも、趣味でも、恋愛でも、あらゆることにおいて、自分をかけて取り組んでみて初めて「やった」ことになる。
 中途半端にしかやれない人は、たいした失敗はできない。
 「体験・熱中・失敗」という経験のサイクルを何セット回せたかが、器の大きさを変える。
 自分には才能がないとか、不足しているなどと思って立ち止まるのは、基本的には傲慢なのだ。

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