『昭和天皇独白録』では伏見宮の行動としては別の記載がある。
日米戦争前の、1941年10月初旬、既に総長を辞めた伏見宮が天皇に拝謁した時のことを「独白録」では、「近衛・杉山・豊田・及川・東條・永野の6人を呼んで戦争可否論をさせ、和戦両論が半々ならば、戦争論を決定してくれとのことであった。私はこれには大蔵大臣を参加せしむべきだと云って、不賛成を表明した。」と書かれていた。
これについては、木戸日記にも、10月10日の件に、「午前十時武官長より伏見宮拝謁の際の御意見云々につき話しを聞く。10時20分~11時20分拝謁す。過日伏見宮とご会見の際、対米問題に付き殿下は極めて急進論をご進言ありし趣にて、痛く御失望被遊様拝したり。」とあることからも、伏見宮の言ったことは事実なのであろう。
とすれば、伏見宮博恭(ひろやす)王は戦争肯定派であることがこの言葉の中から読み取ることができる。昭和天皇の伏見宮への慎重な言い回しも、これで納得できるところである。(次週へ)