玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

近現代史の裏側⑼ ―偶然の平仄の合致―

2023-11-20 10:06:04 | 近現代史

もう一度、伏見宮の昭和天皇への戦争多数決の提案に戻ろう。

伏見宮は日米開戦の2カ月前に「近衛・杉山・豊田・及川・東條・永野の6人を呼んで戦争可否論をさせ、和戦両論が半々ならば、戦争論を決定してくれ」(1941年10月初旬、『昭和天皇独白録』)と提案した。

結局、12月8日に開戦となるが、伏見宮が提案した者たちの官職は「首相・外相・陸相・参謀本部総長・海相・軍令部総長」である。

偶然の平仄の一致なのか、終戦を決める際の最高戦争指導者会議のメンバーの官職は同じなのである。六人中、軍関係者が四人なのであるから、多数決では軍人勢が当然に優勢な筈だが、一人だけ軍を裏切った者がいた。

米内光正海相が終戦派になったのである。戦争継続に関して可否同数となり、鈴木首相が天皇への上奏が可能となった訳である。

余談だが、伏見宮提案の際は、たぶん、4(軍人)対2(文官)で開戦となる仕組みなのであろう。

米内光政は「もともと日本海軍は英米の海軍と戦う様には建造されていません」(入江隆則『敗者の戦後』中公叢書)と日米戦争の回避論者であった。

終戦決定後に阿南惟幾陸相は自刃している。映画「日本のいちばん長い日」の中では阿南役の役所広司が「米内を切れ!」と怒鳴ったとか(あくまで映画だが)。

しかし、米内海相からすれば、米内内閣を潰す為に裏で動いたのが当時は陸軍次官だった阿南だった。二人の間に個人的な確執があってもおかしくない。どちらにせよ、米内海相の陸軍への倍返しによって、この圀は本土決戦の愚挙に至らず、壊滅的な惨禍を免れることができた訳である、…。(次回へ

 

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